第十一章 書下ろし2 除夜の鐘と初詣 (後編)
1
十二月二十九日。仕事納めの翌日。
紀子は、普段できない帰省の準備に追われていた。帰省といっても電車で三駅の街にある実家に帰るだけだが。
手提げ程度のボストンバックに、一週間分の着替えを入れて、前日に仕事納めの帰りに、駅地下のマーケットで、両親へのお土産を買っておいた。甘党の母、美彌子には和三盆の砂糖をまぶした和菓子を父健三には、少し高級なウィスキーを買っておいた。
一人娘の紀子を一人暮らしさせる両親の不安へのお詫びと感謝の印しである。
その日の午後。紀子は自宅マンションを出た。
二時間後、紀子は自宅の自室にいた。電車で三駅なのになぜ二時間もかかったのかといえば、学生時代の幼馴染に遭遇したからである。
立ち話というわけにもいかず、ティールームでお茶となった。
幼馴染も紀子同様独身で、実家で花嫁修業の日々だという。
話に華は咲きはしたが、やはり紀子は何かしらの住む世界の違いを思い知らされた。
「ただいま。お母さん。お父さん」
紀子の声を聞いて、両親は飛び出してきた。
「紀子!お帰り。少し痩せたんじゃない」と、眉間にしわを寄せる美彌子。
「元気そうだな、紀子」
健三は、まだ現役の会社員なので、表情は溌剌としている。が、髪は半ば以上白くなっていた。
紀子は、少し胸の痛みを感じた。一人娘としては、結婚でもして、孫を抱かせてあげるのが親孝行なのだろうが、紀子には結婚のことなど考えられない。
脳裏に神崎修一の顔が浮かんだ。
次に喜寿の修一の顔が浮かんだ。傍らに紀子がいる。今よりは少し体もふくよかになり、台所から修一と息子の語らいを聞いている自分を想像する。
紀子は、強く頭を振る。
(何を考えているの!紀子。神崎さんは仕事相手よ)
紀子は自らの妄想を振り払った。しかし、完全にはできない。喜寿の修一の顔が、彼女の妄想にぶら下がっていた。
2
一度自室に向かい、普段着に着替え終わると、リビングに向かった。
ソファーに座ると、健三に丁寧に頭を下げて挨拶する。
「お父さん、連絡しなくてごめんなさい。もっと電話とかかけるべきなんでしょうけど、仕事に夢中で」
健三は、笑みを絶やさぬまま答える。
「お前のことだ。そうだとは思っていたよ。でも、いまは「ライン」という便利な機能がスマートフォンにはあるのだから、私はともかくお母さんには連絡してあげなさい」
「お父さん。私はあくまでスマートフォンは使わないことにしてるんです」
母の美彌子は断言した。
「お前は変なところで頑固だな。今の時代スマートフォンは、必需品じゃないか」
「お父さんもお母さんも私が帰ってきたばかりでけんかするのはやめて」
紀子は、両親の小さな諍いを止めた。
そして、炬燵にコンロを置いてすき焼きで夕食にした。
父も母も表情が穏やかだ。やはり娘が帰ってきたことが嬉しいというより安心なのだろう。
夜。何年かぶりで自室のベッドで眠った。
明日から一週間、仕事は休みだ。
自室のベッドで横になりながら、来年からの仕事の段取りを考えてしまう。
(いけない!今は仕事のことは忘れよう)
彼女は、頭から仕事の要素を締め出した。
次に彼女の脳裏に浮かんだのは、神崎修一の顔だった。そして、衣裳部屋の隣の来客用のベッドだった。
紀子は頬が火照るのを感じた。なぜなら、こうして自宅の自室のベッドで眠るよりも修一の屋敷で、来客用のベッドで眠る時の方が、紀子にとって今や自然になりつつあった。
なぜかはわからない。いやわかっていながら紀子は頑として認めようとはしなかった。
(神崎さん、いつも独りなよね。大みそかもお正月も。でも、今年は違うわよ。修一さん)
紀子は意識的に下の名前を呟いた。
紀子は満ち足りた気分で眠りに落ちた。
3
紀子のマンションと実家とは、わずか三駅の距離でしかない。しかし、まるで違う文化圏に来たような、にぎやかさだった。
紀子が自宅にいることは、瞬く間に隣近所に広がり、彼女が町を歩けば、ひっきりなしに声をかけられた。
「紀子じゃない!いやだ帰ってるなら連絡しなさいよぅ」と、中学時代のクラスメートに声をかけられた。
紀子がクラスメートの名前を思い出そうとする前に、子供連れなことに注意が言った。
紀子が子供に目を向けていることに気づいた元クラスメイトは、子供の頭を撫でながら、
「この子、三人目なの。大学時代に”できちゃった婚”したの」
「すごいわね」紀子は、本心から言った。
「紀子、もしかして私のこと忘れてるんでしょう。私、本橋加奈子よ」
紀子は、必死で記憶のページをめくる。中学時代の本橋加奈子は、丸い大きなメガネを掛け、そばかすに悩むモテない少女だった。
「え、あ、加奈子ちゃん」紀子は息を飲んだ。
「やっぱりね。でも、篠原さんはますます綺麗になってるわね。私、中学の頃あなたが妬ましかったわ」
加奈子はそれだけ言うと、子供を連れて離れていった。
紀子は、何か嫌な思いが残った。
☆
大みそかの前日の夜、紀子は美彌子と一緒に夕食を作っていた。
「ねえ、お母さん。明日大みそかだけど、どうしても行きたいところがあるの。出かけていいかな」
美彌子は、しばらくじっと娘を見ていたが、
「いいわよ。別に私に断ることはないのに」
「でも、普段はぜんぜん家にも帰らず、たまに帰ってきたのだから親孝行しないと…」
「あのね、紀子。親孝行というのは、電話一本、手紙一枚、ラインだっけそのライン一つ送るだけでも親孝行になるのよ。来年は、私もお父さんに言われて方針を変えたわ。スマートフォンを持つつもりよ」
「すごいわ。お母さん」
「私たちのことを心配してくれてありがとう。あなたはあなたの人生を生きなさい」
紀子は、肩の荷が下りたような気分で、父にお土産に持ってきたウィスキーをついだりした。昨日に続いて、篠原家に明るく温かい笑い声があった。
4
大みそかの朝、紀子は、キャメルのロングコートを身に着け白いワイシャツに細いネクタイを締め、チャコールのニットベスト、ダークグレーのスラックス、黒のショートブーツを履いて家を出た。
ただし、母の美禰子も父の健三も付いてきた。
「どうして、親子で外出しなきゃならないのよ」
紀子の声は、大みそかの昼の界隈に響いたかもしれない。
「そんなに大きな声を出すものじゃないわよ、紀子。あなたに行動の自由があるように、私たちにもあるのよ。ね、お父さん」
美禰子は健三に同意を求めた。
父健三は、苦笑いを浮かべながら無言でうなずくのみだ。
紀子は今年最後の日に、不機嫌な表情で電車に乗った。
親子三人は、電車に二十分ほど揺られながら神崎邸のある駅に着いた。
紀子の引き締まった姿は、大みそかに孤独に外出している男女に、ある意味見とれさせるほどにー宝塚の男役スターであるかのようにー輝いて見えた。
(よっぽどなのね。今日の娘は)
美禰子は母としての勘に誤りがないことを確信していた。
☆
駅で降りた。紀子たち親子を驚嘆する視線が追う。
町内会長、中華料理店の亭主とその妻、そして、ベーカリーショップのパティシエ坂本綾子は、笑顔で紀子に挨拶しようとしたが、紀子がネクタイ姿なのを見て、笑顔が途中で引きつっていた。
「紀子さん、どうしたのかしら?すごくりりしいわ。あれじゃあベルじゃなくて王子様じゃない」と、独り言ちる。
大みそかである。仕事を忘れて妄想に耽ることができるのが綾子は嬉しかった。
一方紀子はそれどころではない。彼女としては、修一に単にここ数か月の密度の濃い日々に対してのお礼と来年の仕事の事前連絡をするだけのはずが、両親を引き連れて来るなんて予想外だ。
これではまるで…ではないか。
しかし、今はもう遅い。
(えーい、あとは野となれ山となれだわ)
坂道を上り神崎邸に三人はついた。
インターホンを押す。
「篠原紀子です。年末のご挨拶に参りました」
両親がいるので、どうしても声がひきつる。
「おう。大みそかまで仕事なのか。ご苦労なことだな」という気安い言葉が流れ、黒のジャージの上下を身に纏った神崎修一が玄関から現れた。
紀子は卒倒しそうになった。
(よりにもよってどうしてそんな服着てるのよ)
紀子は心で叫んでいた。
5
神崎邸のリビングは、先ほどから笑い声が溢れていた。
「いやー、紀子があの有名な神崎修一先生の担当だなんて知りませんでした。二十年前、あなたの小説を愛読していたのです」
紀子の父健三は、感激を表情にみなぎらせて修一の手を握っていた。
「そ、それはどうもありがとうございます」
さすがに修一も着替えてきてワイシャツにネクタイ、スラックス姿だった。
紀子は胸を撫で下ろしていた。
「あのぅ、娘は先生のお役に立てているのでしょうか」母の美彌子も猫撫で声になっていた」
紀子は両親に気づかれぬように、修一を睨む。
(コスプレは秘密ですよ)
以心伝心で伝わり、修一もうなずいた。
「お嬢さんの仕事ぶりは大したもので、ぼくも大いに助けてもらってます」
美彌子は本心からほっとするように、
「そうですか。それを聞いて安心しました」
健三は美彌子に言った。
「さて、思いがけず神崎修一先生にも会えた。美彌子私たちも帰ろう。あ、紀子は神崎先生と仕事の話があるのだろう。じっくり話し合えばいい。私たちは先に帰るよ」
「それでは、先生至らぬところも多いと思いますが、娘をよろしくお願いします」
美彌子は深々と頭を下げるのだった。
夕方六時。神崎邸の外は、真冬のことでもあり墨をたらしたような暗黒だった。
夕食は、ありあわせの冷凍食品を食べた。
「神崎さん。大みそかまで冷凍食品は、健康に良くないと思います」
「俺は寒いのが苦手なんだよ。だいたい今日の君はなんだ。いきなり凛とした服を着て現れて、それはまだいいとしてご両親まで連れて来るなんて」
「両親が付いてくるなんて思わなかったんです。神崎さん、大みそかも一人だなんてかわいそうと思って…」
「独りは慣れているよ。だが、ありがとう」
紀子はほっと笑みを浮かべる。
「コスプレしてあげましょうか?何がご希望です」と、紀子。
「体操服とブルマがいいな」修一がにやりと笑う。
「却下!女子大生のコスプレしてあげます。この寒いのにブルマなんて履けますか!女子大生スタイルなら譲歩します。後で初詣二年詣りに行きましょう」
「おいおい、大みそかを男の一人暮らしの家で過ごし、新年を迎えるつもりか」
「そうしてほしいんでしょう。神崎さん意外と「寂しがりや」だから」
紀子はからかうような視線を向ける。
「ふん、好きにしてくれ」
大みそかの除夜の鐘が鳴ろうとしたとき、修一と紀子は少し遠い神社にいた。
考えることは皆同じで、神社の境内は人で満ちていた。
修一はそそくさと歩く。紀子はついていくのがやっとだった。
しかし、完全にはぐれてしまいそうになった時、紀子は思わず叫んでいた。
「修一さん、待って」
修一の手が紀子の手を掴んでいた。
紀子の頬が赤くなる。
「あ、あの名前を呼んだのは…」
修一は何も言わず、首を横に振った。
二人は並んで二年詣りをすませた。
帰宅後二人は晩酌をした。
そして修一は、寝室に。
紀子は衣裳部屋の隣の来客用の寝室で眠った。
気恥ずかしさでなかなか眠れない。しかし、一方で満ち足りた気分で眠りに落ちた。
新年となった。




