第十一章 書下ろし2 除夜の鐘と初詣 (前編)
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「書下ろし小説の最終話を脱稿した」と。
紀子は思わず目がしらが熱くなるのを覚えた。この三か月余り、神崎邸に通っては、気恥ずかしくなるコスプレをさせられた。
セーラー服、ナースの制服、キャビンアテンダント、女子大生ファッション、果ては、メイド服まで着せられた。辛い日々だった。
(とはいえ、紀子自身ノリノリでコスプレを楽しんでいたことも否定できない)
紀子は、編集長室のドアをノックした。
「編集長!神崎修一氏が書下ろし小説を書き終えたというラインが入りました。今から神崎さんのところに行ってきます」
と、上半身だけ覗かせて、吉村周に報告した。
「そうか、修一のやつようやく書き上げたか。やきもきさせやがって」
紀子が編集長室のドアを閉めようとしたとき、吉村周は彼女を呼び止めた。
「まあ、そうあわてるな。お前に話がある。入ってくれ」
いつもは言い淀むのに、今日に限って、周の口調は滑らかだった。
紀子は奇妙な表情を浮かべたまま編集長室に入った。
☆
「なんでしょう、編集長?」紀子は慎重な口ぶりで立っていた。
「まあ、座れ。話がある」周は来客用のソファーに右手を向けた。
「はい」
紀子はソファーに座る。
「実は、篠原は、社外に出ていて知らなかっただろうが、来年の出版予定の決定会議があったんだ」
「はい」紀子の答えは慎重だった。
「神崎修一に書下ろしを書かせた、正確には書かせている篠原の話が出てな」
「はい?」紀子は答える。
「単刀直入に言うぞ。神崎修一全集の編集も篠原がすることになった。その上に、神崎修一に今後もうちから小説を出版させてくれるよう依頼してほしいんだ。わかるか」
紀子は、呆然と周の話を聞いていた。
光栄社の外は、暗くなっていた。
横断歩道の向こうの繁華街のネオンが、ことさら明るく街を照らしていた。
☆
紀子は今の自分の心理が、自分でも説明できないでいた。
入社して五年。それなりに仕事に打ち込んできたつもりだ。現に編集長の吉村からも多少問題はあるが、目を掛けられている。
しかし、周の要請を受ければ、仕事面において、出世の見込みは皆無に近い。さらに言えば、神崎修一全集の売り上げも、販促の意味合いの強い修一の新刊の売り上げが芳しくなければ、紀子の責任ということになる。
もちろん修一の新刊小説や雑誌連載が好評であれば、紀子の地位も安泰というわけだ。
長い、少なくとも紀子には長く感じられた数分間の後、紀子は口を開いた。
「『一蓮托生』というわけですか」
周は肩をわずかに上下させた。
周は、紀子の呟きを全身で受け止めていた。
「そこまでは言っていない。さらに言えば、その一蓮には俺も含まれているんだ。なぜなら、神崎修一は過去の作家だ。今、流行りの作家、そうだな緑川奈々とは真逆の立場にいる作家だ。それにもかかわらず、修一の全集を出そうという企画は、俺が出版会議で、社長にねじ込んだんだからな。社長も乗り気になってくれた。だから、篠原に苦労を掛けている。
だが、出版社も営利企業だ。売り上げが伸びなければ、誰かが責任を取らなければならない。当然、社長が辞めるわけにはいかない。
辞めなければならないのは、俺たちなんだよ。解るな、篠原」
「わかります。じゃあ、編集長は、いや、一蓮托生と言ってくれたから名前で呼びます。吉村さんは神崎さんを私に任せてくれるんですね」
周はうなずいた。そして、おもむろにスマホのラインを紀子に見せた。
「周、俺の新刊の担当者、全集の担当者は、篠原紀子にしてくれ。雑誌連載も引き受けた。彼女に責任はない。責任は俺がとる」
紀子は涙が出そうになったが、泣くことはなかった。涙も出なかった。
「わかりました。神崎さんも吉村さんも私を信頼してくれるのですから、必ず成功させます」
紀子の心に甘い感傷や感動があった。だが、今はそれに浸る前に、来年への使命感と闘志が彼女の心を占めていた。
紀子は、肩に大きめのショルダーバックを掛けて、光栄書店を出た。
街は、年末ムードに溢れていた。
今年一年が良かった者。悲しみや悔いにまみれた者。
時は平等だ。社会に平等はない。人間も平等だと口では叫びながらも実際には不平等に目をつぶっている。時だけが平等なのだ。
人はそれぞれの立場で、自分を奮い立たせていく。
明日は仕事納めだ。
紀子は、二十七年生きてきて、初めて生きる意味を肌で感じていた。
何かの歴史小説の読んだフレーズが、彼女の頭の中でリフレインしていた。
『士は己を知る者のために死ぬ』
彼女が高校時代に読んだ歴小説作家のR・S氏の一節だ。
紀子は一歩一歩足を踏みしめて、駅の改札を通り地下鉄に乗り込む。
地下鉄がライトを灯しレールの上をいく。一両の車両が何両も連なり、その中に、個々の人々の人生の一日が在る。
来年はどんな一年になるのかわからない。誰にもわからない。
それでも人はある意味不確かな人生を生きていく。その人間の中に篠原紀子も含まれていた。
唯一彼女が地下鉄車両に乗り合わせた見知らぬ人間たちと異なることは、人に信じられている喜びと同時に責任の重さを同時に感じていることかもしれない。地下鉄の揺れを感じながら、「生の実感」を感じていた。
地下鉄がレールの上を滑るように行く…。




