第二章 坂の上の家ーその1
1
その部屋は暗く、室内に淀んだ空気が満ちていた。ウイスキーの角瓶が、床に転がっている。幸いなことに中身は空で、カーペットに染みを作る心配はない。
修一は、いつのまにか眠っていたらしい。
タオルを置いて、よだれがキーボードを濡らさぬように防御する格好になっている。彼が売れっ子作家だった頃は、パソコンを何台も交換しなければならなかった。なぜなら、執筆依頼がひっきりなしにきては、どの出版社に何を書くか選ばなければならなかったからだ。キーボードを叩き過ぎて、パソコンが”悲鳴”を
上げて故障することもあった。
アイデアも構想も、どんどん泉のごとく湧き出たものだった…昔は。
取材旅行に出版記念パーティ、サイン会。
彼の一年は、『光陰矢の如し』を二倍するスピードで過ぎていった、昔は。
そして今は、アイデアは枯渇し、金はあるが、新しく入る印税もそれほど
ではなくなった。たまに外出し、書店を覗いてみても、自分の小説の文庫本も置いてはなく、ましてやハードカバーなど望むべくもない。当然だ。新作を書いていないのだから。
世の中が純文学ではなく、エンターテイメント文学を望む流れになっていることを、この頭の切れる男は敏感に察知していた。
「小説が漫画と同列」に扱われることに、彼は我慢できなかった。
コミック文化を否定するつもりは、さらさらない。しかし、小説やハウツー
本や果ては哲学書まで”マンガ化してしまう今の出版界に、修一は嫌気がさすのである。
大学時代の親友である栄光出版社の吉村周に、怒気を含んで修一は言った。
「どうして、小説をマンガ化しなきゃならないんだ。小説だけじゃない、哲学書までだぞ」
周は、一言で、しかもそっけなく答えた。
「売れないからさ。今の若者は楽をしたがる。わかりたいけど苦労はいや、修一、”時短”て言葉知ってるか」
吉村周は、皮肉な笑みを浮かべながら言った。
「いや、知らないね。どういう意味だ?」
「文字通りだよ。”時間を短く”だよ。今の若者は生き急いでいるのさ。じっくり学ぶ時間も金も心の余裕もない」
「楽して知って後はどうなるんだ」
修一は、周が返す答えをほとんど予測しながら問う。
「記憶のかなたに飛んでいくのさ。それでもましな奴は、スマホのメモ帳かカメラで写真を撮って残す」
修一の予想通りだった。
「そんな若者のために、ストーリーや言葉選びに夜も寝られない作家もいるんだぞ」
修一は、憤慨して目の前のビールを飲みほした。
「わかってる。だが作家も霞を食べていけないから、小説家は小説を書くし、マンガ家はマンガを描くのさ」
「じゃあ、吉村も大変だな。そんな作家に”書かせるきっかけ”を示すのも出版社の役目だな」
「ふふ、”もちつもたれつ”さ」
いつか忘れてしまったが、周とそんな話をしたことを修一は思い出していた。
2
それ以来、修一は小説を書かなくなった。いや正確には書けなくなったという表現の方が正しいのかもしれない。
しかし、彼の中の作家としての「魂」は、消えてはいなかった。
だから、こうして書斎にこもりノートパソコンの前に座っているのだ。
指がキーボードを走り、ほとばしる様な勢いで、書けていたころの自分ではもはやない。修一は、自らの老いを感じる。
しかし、それは感性の衰えを意味しない。
逆に五十の声を聞こうとしている自分だからこそ小説を書けるのではないかと修一は考えていた。
だが、考えていることと実際の行動には、光年単位の差があることもまた事実だった。
修一は、席から立ちあがり、窓に目を向けた。坂の上にあるこの家からは、
山の頂が見える。
桜の木に花が花弁をつけていた。
(なんてことだ。季節の移り変わりも俺は感じてはいなかったのか)
修一は愕然とする思いだった。
「社会不適格者」のレッテルを貼られているのではないかという恐怖が、
修一の心を覆った。桜咲く季節も無視して、家に籠る初老の男。
社会が俺を拒絶したのではない。自分が社会を拒絶したのだ。
修一は、資料用の書架に積まれた、数冊のノートを手に取った。
新作のアイデアをせっせとノートに書き溜めてあった。
作家でありながら、自分しか読めないへたくそな文字だ。
修一は、パソコンのキーボードを叩き、大学ノートのアイデアをパソコン上に揃えていった。
すると、修一の頭に昔愛した女性が、脳裏に浮かんだ…。
3
「修一、私が初めて書いた小説よ。読んでみて」
三田村邦子は言った。
邦子は、照れ笑いを浮かべながら原稿用紙を渡す。百枚はあると思われる
厚さだ。
ショートカットの髪が、切れ長の目にかすかにかかっている。
邦子は、修一の文学サークルの仲間だ。サークルの立ち上げ当初から、修一の傍らには邦子がいた。
修一は、邦子をサークル仲間としては見ていたが、”女性”としては見ていなかった。
修一は、お義理で読んでみた。お世辞にもうまいとは言えないセンテンスばかりで、擬音がやたらと多い。
修一が、目標とする夏目漱石の「こころ」にははるかに遠い、小説だった。
「ジュブナイルー少年・少女向けー小説としてはいいんじゃないか」
と、本音と慰めを半分ずつブレンドして批評した。
一年前、修一のマンションで、押し切られる形で関係を結んだ二人だから正直な感想を言った。
三田村邦子は、がっかりした顔になり、
「つまり、面白くない、下手だというわけね」と、恨みがましく言う。
修一は、女の子を喜ばせるような言葉を言うのが下手で、沈黙してしまう。
三田村邦子は、涙を浮かべて走って去った。
そして、現在。五十手前の修一は、新作も書けず、昔の栄光ばかりを追う
人間だった。
「邦子、悪かったな。俺も今はあの時の邦子の気持ち解るよ」
修一は、未だ愚痴と後悔をこぼすしかないでいた。




