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今日も雨が降る中で  作者: 金沢俊夫 


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第一章 紀子 その2

              

               1

 紀子は呼吸を整えてスナックに入った。古びた木目の看板を目にすると、

古風で和風な店内を想像するが、店内に一歩足を踏み入れると、そこは全くの別世界だった。天井には、豪華なシャンデリアが輝き、棚には日本の名酒だけでなく、各国の洋酒が、棚に詰まっていた。

 編集部部長、吉村周が紀子を手招きしていた。

 「よー、来たな。我が編集部のエースでありながら、反面俺の願いを袖にする冷たい女だ」

 紀子は、顏から火が出るほど恥ずかしかった。

 「部長、人聞きの悪いことを言わないでください」

 五十歳とは思えない漲る精気を周は発散していた。

 「よし、奥へ行こう。折り入っての話なんでな」

 (うまいこと言って、セクハラする気ね)

 紀子は警戒を解かなかった。これまでも仕事の話にかこつけて、紀子を抱こうとした吉村だ。男としては最低だが、仕事はできる。

 「おやじさん、ワイン追加だ」

 周は、白髪が頭髪の半分以上になった頭を巡らして、カウンターに立っている初老の男に注文した。

 「注文するのは構わないが、「つけ」なんて言うなよ」

 初老の店主は、ワインをグラスに注ぎながら言った。

 「するわけないだろう。俺はおやじさんに仕事のイロハを教えてもらったんだからな」

 紀子は意外な話に、吉村周部長と初老の店主を交互にみる。

 「え、どういうことなんですか」紀子は、思わず高い声を出してしまい、周囲の注目を浴びるかっこうになった。

 「ああ、篠崎は知らないのも当然だな。おやじさんこと中条保さんだ。

 栄光出版社長のお兄上様だ。だから本来は創業者の中条幸雄氏の後を

 継いで二代目社長になるところを酔狂にも現場がいいと、一社員から

 出版部部長になったお人だ。よく覚えとけ」

 周は、上機嫌に酔いを滲ませながら言った。

 紀子は、目を見開いたまま目の前の微笑んでいる初老の男性をみた。

 編集長のお気に入りの店で、紀子も他の編集部員と共に何度も店には来ていた。当然中条保ー名前は知らなかったがーとは何度か顔を合わせている。

 紀子は慌てて頭を下げた。

 「すみません。社長のお兄さんだったなんて知りませんでした。失礼しました」

 中条保は、柔和な笑みを消さずに手を振った。

 「いやあ、何も頭を下げることはない。それより君みたいな若い女の子には、こいつは手に負えない悪ガキみたいに思ってるんだろう。女には手も早いし」

 (まったくその通りだわ)紀子は納得しながら周を見下ろしていた。

 周の手が、紀子のスカートに潜り込もうとする。

 「やめてください!しまいには部長をセクハラで訴えますよ」

 「ふん、お前が美人なのが悪いんだ。いいから座れ。仕事の話だ」

 紀子は憤然としながらもそこはプロ意識が働いて、すなおに周と向かい合わせに座った。

 周はワインを一口飲み、紀子にも勧めた。勧められるままに彼女もワインを一口飲んだが、ワインは極上で、紀子の口中に、甘くて苦い風味をもたらした。

              2

 「ふん、どうやらワインは気に入ったようだな。さっきは悪かった。だが、俺がお前に惚れていることを忘れないでくれよ」

 周の告白に、紀子はそっぽを向きながらも頬を赤くしていた。

 「さて、仕事の話だ。篠崎も昔から文学少女だったなら、一度は名前を聞いたことがあるだろう。「神崎修一」(かみざきしゅういち)だ」

 紀子は驚いた。神崎修一は、紀子が高校生のころ、つまり作家を目指し、

 ノートに小説を書き始めたころ、神崎修一の小説のあまりの文章のうまさと

表現の巧みさに、彼の短編を勉強そっちのけで、大学ノートに書き写したものだった。

 ところが、紀子が大学を卒業するころには、その名前を聞かなくなり、書店に行っても神崎修一の本は見かけなくなっていた。

 いつしか神崎修一の名前も本も世間からも紀子からも忘れ去られた格好になっていた。

 周は、溜息をついた。

 「その様子じゃあ、神崎修一の名前さえも忘れてましたってところだな?」

 「いいえ、そうじゃなくて…」

 紀子は図星を突かれて、後の言葉が続かなかった。

 「無理せんでいい。お前が思うように神崎修一は、文学的には死に体だ。

 生物学的には生きている。なぜそれを俺が知っているかといえば、修一と

俺は大学の同窓だからだ。修一と俺は大学で、文学論を闘わせていた。

 その修一が大学を卒業して間もなく、新人文学賞を受賞したときは、嬉しかったよ俺は。修一ほどの文才は俺は持ち合わせてはいなかった。だから、修一

のような作家を育てよう、サポートする役割をしようと、俺は栄光出版に入ったんだ」

 紀子は何も言えなかった。

 (私と同じだわ。このセクハラ中年にもそんな熱意があったのね)

 紀子は、周を見る目が変わるのを感じた。

 「わ、わかりました。で、私に何をしろとおっしゃるつもりですか、部長は?」

 「お前に、神崎修一にもう一度小説を書くように説得する役目を引き受けて欲しいんだよ。これは俺の個人的な思いだ。神崎修一をこのまま埋没させたくない」

 紀子は慌てて手を振った。

 「無理です。私には無理です部長。私みたいな女が行ったところで、相手にしてくれませんよ」

 周は、先ほどまでの酔いどれ交じりの言葉ではなく、神妙に言葉を継いだ。

 「来年、栄光出版が創業六十年になるのを知っているな」

 「ええ、それは知っています」紀子は慎重に答えた。

 「実は、神崎修一全集をうちの創業六十年記念で刊行することが決まったんだ。そのことは神崎修一も全集発行には承諾してくれたのだが、新刊を書くことはどうしても嫌だと言いやがる。そこでお前に女の魅力で、神崎修一に新作を書くよう仕向けて欲しいんだ。今から一年以内に本を書くように奴を励ましてやってくれ。頼む」

 周は、ソファーから降りると紀子に土下座するのだった。

 紀子は慌てた。いくらセクハラ中年であっても、土下座されては紀子は断ることはできなかった。

 「わ、わかりました。とにかく神崎修一氏に一度会うことはお約束します。

  で、でも小説を書いてくれるかどうかはわかりませんよ」

 紀子は予防線を張りつつ承諾した。


 その夜吉村周は、ほっとしたと言って店のソファーで、寝入ってしまっていた。

 元編集長だった店長の中条保は半ば呆れ、半ば周を弁護するように言った。

 「こいつも奥さんに浮気されて、捨てられたんだ。強がり言ってあんたに言い寄るのも本気じゃない。いわばあんたに甘えたいんだよ。淋しい男なんだ」

 「そんなこといわれても困ります」

 紀子は半泣きで言った。

 「まあ、あんたにしてみたら、そうだろうなあ」保は、同情するように紀子を見て言った。


 翌日の日曜日、紀子は自宅のパソコンで神崎修一に関するデーターを調べていた。

 「神崎修一が、いまどんな生活を送っているか調べて、また小説を書くように仕向けて見せるわ。私はプロの編集者よ」

 紀子は闘志を燃えたぎらせていた。


 やがて、篠崎紀子は、神崎修一に会うことになる。それは単に編集者が作家に会うということにとどまらない、運命の邂逅になるのだが、彼女はそれを知る由もなかった。







 

 


 

 


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