第一章 紀子その1
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雨がアスファルトを濡らしていた。今日は一日雨だった。地球温暖化のためなのか、地方では、水瓶である川が干上がっていると映像と共に、女性アナウンサーが、その眉間に皺を寄せていっていた。だとすれば、この雨は”恵みの雨”ということになる。
結構な話だが、都会では、殊にオフィス街ではあまり歓迎されてはいない。
理由を挙げればきりはないが、この物語とは無関係なので割愛する。
篠崎紀子は、雨に濡れるアスファルトを歩いていた。不運なことに、彼女は、ハイヒールを履いていた。雨に濡れたアスファルトは滑りやすい。注意して歩かないと転んで、大事な高価なー彼女にとってはースカートが雨水に濡れるだけでなく、クリーニング代がかかる。物価高騰の昨今、支出とりわけ不用意な支出は、避けなければならない。紀子もまた一サラリーマンなのだから。
雨が強くなってきた。待ち合わせにはまだ時間がある。
紀子は、コンビニの庇に身を寄せた。
バックからハンカチを取り出し、スーツを拭く。
雨はしとどに降り続いていた。ふと、彼女の脳裏に、中学時代の初恋や初デートの場面が思い出されていた。
震える手で渡したラブレター、デートの誘い。しかしデート当日、雨が降って、しかも突然の大雨に濡れて、彼と紀子は熱を出して寝込んでしまい、
そして彼はまもなく転校して、紀子の前から消えた。
淡くかつ悲しい青春の一ページである。
「雨なんて大嫌い」
紀子は独り言に呟いて、気を取り直して傘を差しなおし、ハイヒールで、雨に濡れたアスファルトを”踏みしめて”歩き出した。
☆
紀子は出版社の書籍編集部に勤務している。実は作家になる夢を抱き、高校時代は、ノートに手書きで小説を書いていた。
大学時代は、せっせと小説を書いては、大手出版社の懸賞小説に応募していた。しかし、かすりもせず、元々現実的に考える傾向のある彼女は、作家になる夢を捨て、その代わり既存の作家のサポート役をしようと心に決めた。
大学四年の就職活動は、出版社、それも大手の出版社ばかり受験した。
すると。この方面の「神」にその努力が認められたのか、大手出版社
「光栄書店」から内定通知がきたのである。
以来、出版社勤務五年、彼女も気づいていなかった、編集者の素質が花開いた。
しかしそれは無傷なものではなく、多少のセクシャルハラスメントを伴いはしたが。
紀子はそれに耐えあるいは軽くあしらう術を体得していった。
紀子は少し気が重かった。今からスナックで編集長に会うのだが、五十年配の編集長に、執拗に「愛人にならないか」と、彼女は誘われていたから。
待ち合わせ場所の編集長行きつけのスナックに彼女が到着したとき、あれほど降っていた雨は止み、雲の隙間から月が見えていた。
紀子はふと漱石が、「アイラブユー」を「月がとっても綺麗ですね」と訳したという逸話を思い出していた。
暗く沈んでいた彼女の心がいくぶん軽くなっていた。




