第十章 坂の下の人々 その3
1
人は、認めたくないものが一つや二つあるものだ。例えば、自分の体重が増えたという事実。運動不足かもしれないという認識。そしてたまに笑ってはいけないのに笑ってしまうことがある。
紀子にとってそれは神崎邸訪問だった。ブザーを押す。
「光栄出版社の書籍編集部篠原紀子です。原稿をいただきにまいりました」
「おう、入ってくれ」
いつもの修一のぶっきらぼうな返事だ。
彼女はもう知り尽くした重い門扉の開け方(花壇の方向に開けると軽くなる)
というコツをつかみ数歩歩き、ドアを開ける。卓球台が置けるほど広い玄関に、紀子のパンプスだけが脱ぎ置かれる。
以前、この広い玄関には、数多の出版社の編集者の靴が、並び置かれていたと想像したことがあった。
だが、今は紀子だけが靴を脱いでいる。彼女は思う。
(私だけが、神崎修一を独占している。他の出版社は、緑川奈々や最近デビューした若手作家に原稿を依頼し、頭を下げ、時には生意気なことを言われているに違いない。
神崎修一は、自分にコスプレを強要したりはするが、決して傷つくような中傷はしない。いつも対等であろうとしてくれているわ。まだ出版社に勤めて五年にしかならない私なのに…現在も過去も時間の概念を飛び越えて、忘れ去られたかもしれない作家だけれど、編集長吉村周の言うように、朽ちていい作家ではない。私が、神崎修一を再び飛翔させてみせるわ)
紀子はいつのころからかそう心に決めていた。もちろん口にすることはなかったが。
「参りました、神崎さん」
紀子はいつもの常套句を言った。
☆
紀子は挨拶が終わると、二階に上がり衣裳部屋に入る。
少し考えて、日本航空のキャビンアテンダントの制服に着替えた。
紀子は以前から着てみたかった制服だったのだ。
制服を着て戻ってきた紀子を見て、修一は苦笑を浮かべた。
「どうですか?似合ってます」
紀子は右足を軸にして軽く回転した。
「君はコスプレを嫌がっていたんじゃなかったかな」
修一は、紀子に訝る視線を向けて言う。
「ええ、嫌ですわ。恥ずかしいもの。でも、編集者として与えられた環境と使命は果たさなければなりません。故に、私はその使命に果敢に挑んでいるのです」
「そういうものかね」
神崎修一は、頭を振りながら苦笑した。
紀子も苦笑した。
「そうそう、神崎さん。下のベーカリーショップで、ショート・ケーキを買ってきました。クリスマスももうすぐですし、執筆は一休みして食べませんか?」
「おう、君にしては気が利くじゃないか」
「何か引っかかる言葉ですね」
「気にするな。中年オヤジの独り言さ」
紀子は、腑に落ちない表情のまま、ダイニングでインスタント・コーヒーを淹れてトレイに乗せて書斎にきた。
「『勝手知ったる他人の家』というわけか」
「もう二度とケーキは買ってきたりしませんからね」
紀子は不平を言いながら、それでも丁寧な手つきでケーキを皿に乗せていく。
紀子と修一はしばらく無言でケーキを食べた。
2
「…実は今日はただ原稿を受け取りに来たわけじゃないんです。神崎さんの個人全集の予約数が予想をはるかに超えて順調なんです」
紀子は肝心の話を切り出した。
「結構な話じゃないか。あ、いや俺の立場としたら「ありがたい」と言わなきゃならんな」
紀子はうなずく。
「そこで編集長が、今書いてもらっている小説のほかに、新作を書いてくれないかということでした。さらには光栄社で出している婦人雑誌に連載小説を書いてくれないかということです」
紀子は感情が溢れないように、できるだけビジネスライクな口調で話を締めた。彼女の本心は、新作をもう一作書いてもらうことよりも、連載を持つことで、神崎修一の自由な精神の気高さが堕ちることへの無念さが強い。
「つまり、光栄社で俺を独占しようというわけだな」
修一の口調は決して明るいものではなかった。
紀子は敢えて何も言わなかった。
「で、俺の編集担当者は君に決まっているのか?」
「はい、そうです」
紀子は嘘を言った。紀子は神崎修一の全集の販売促進の一環としての書下ろし小説の担当編集者でしかない。それ以後のことは何も彼女は、吉村周から聞いてはいなかったのだから…。
周には、冗談めかして神崎修一が自分を気に入っているようだと囁かれただけだ。確かな今後のことは何も決まっていない。
修一は紀子の目を真剣に見つめた。
(まだ若いのに、プロの視線だな)
しばらく沈黙が続いた。
「わかった。前向きに検討しよう」
「ありがとうございます」
紀子はほっとして頭を下げた。
「なに、礼を言うのは俺の方だ。俺も人間だからな。霞を食って生きるわけにはいかない。それにだ」
修一は、ここで意図的に話を止めた。
「それに?」紀子は思わず身を乗り出していた。
「君のコスプレをまだまだ見たいというのが、偽らざる本心だ。あの部屋には、まだまだ服があるからな。体操服にブルマー、ショート・パンツもある。
君はスタイルがいいから、何を着ても似合うからな」
紀子の平手が飛ぶ風圧を修一は感じた。それも両側から。
修一は目を閉じた。しかし、紀子の両手は修一の頬に添えられるだけだった。
彼女は呟いた。
「神崎修一のバカ!調子に乗るなよ」
4
玄関のブザーが鳴った。
「はーい」
紀子は言葉にして、玄関へと急いだ。もちろん制服は脱いでいた。
玄関を開けると、ケーキを買ったベーカリーショップの女店主と初老の男が立っていた。
「あ、さっきケーキを買ったベーカリーショップの方ですね。何か先生に御用でしょうか」
すると傍らにいた初老の男が、無遠慮に玄関に上がり込み、大声で言った。
「おーい、大作家先生。町内会でクリスマスの集まりをするんだ。文字通りお高くとまってねえで、こちらの綺麗なお嬢さんを我々下々の者にも紹介してくれよ」
「え、え!」紀子は突然のことで状況がわからなかった。
ショップの女店長が、顔の前で手を合わせていた。
「ごめんなさいね。ついあなたのことをみんなに話したら、町内会長さんが、『俺も会ったことがない』って言いだして。押しかけるかっこうになったの」
「え、私ですか」紀子の戸惑いは収まらない。
☆
「なんだ、なんだ。騒がしい」と、修一が懐手のまま玄関に現れた。
「神崎さんよ。難しい顔して”文学”もいいが、たまには酒でも飲まないと息が詰まっちゃうぜ。こちらの綺麗なお嬢さんを我々にも紹介してくれよ」
「わかった、わかった。参加するから玄関で騒がんでくれ」
「約束だぜ。六時からだ。夜店もやってるよ」
町内会長は、紀子に笑いかけて、女店主と玄関を出た。
静まり返った玄関で、紀子が一人おろおろしているのを眺めながら、修一は言った。
「と、いうわけだ。幸い明日は土曜日で、会社も休みだし、”君専用”の衣裳部屋の隣の来客用の寝室もある。覚悟を決めるんだな」
「そ、そんな急に言われても」紀子はそれ以上言葉にならなかった。
「担当編集者としてきちんとしてくれよ」
「神崎修一のばかやろう」
紀子は恨みを込めて言葉を投げつけた。
修一は、どこ吹く風で平然と書斎に戻る。紀子は悄然と後をついていくしかなかった。
5
坂の下の商店街に小さな灯りが灯っていた。暖かいスープや冬の食べ物を売る小さな屋台が並んでいた。
紀子は。拍手で迎えられた。
「は、初めまして。神崎修一先生の小説の編集担当者の篠原紀子と申します」
紀子は腹を据えて挨拶した。
中華料理店の店主が、甲高い声で叫んだ。
「こんな美人が傍にいてくれるんなら、俺にだって小説書けるかもしれねえ」
店主の女将さんが間髪入れずに言った。
「あんた、国語の成績「一」ばかりだったじゃないか」
周囲の人たちが笑いさざめく。
ベーカリーショップの女店主が、紀子に寄り添い言った。
「今夜はありがとう。あなたも参加してくれて。みんな神崎さんのこと心配しているの。私は今夜初めて神崎さんのお顔を見るんだけれど、神崎さんは良い人だって言ってるわ。あなたが来てから、神崎さん明るくなったって評判よ」
「本当ですか」紀子も少しお酒を飲んで頬が赤い。
町内会長も口を添える。
「いやあ、あんたは良い女性だねえ。神崎さん、何度誘ってもあの屋敷から降りてこなかったからねえ。まあ、我々も事情は知っているんだがねえ」
と、意味深な口ぶりだ。
「離婚された、奥様の件ですか」紀子はそっと尋ねる。
女店主が、厳しい顔つきで町内会長を窘める。
「とにかく、今夜はありがとう。楽しんでね」
と、言うと町内会長と二人で紀子の傍を離れた。
紀子は軽く挨拶をして、中華料理店の店主と笑いあう修一を見つめていた。
夜十時。
衣裳部屋の隣の来客用のベッドで紀子は横たわっていた。
図らずも修一に、「君専用」と言われた。何度かこの寝室で眠ったことか。
眠気はあるが、町内会長の言った言葉が、妙に心に引っかかる。
しかし、久しぶりに飲んだアルコールの力は偉大だった。
「この寝室は、私専用なんだから」
と、紀子は一人語ちると、深い眠りの森に沈んでいった…。




