第十章 坂の下の人々 その2
1
紀子が光栄社の外に出てみると、肌を刺すような寒い風が強烈に吹いていた。
「寒いわ。もう少し厚手のコートを着てくるべきだったわね」
紀子は駅に直結している地下通路を歩く。サンタクロースの白いひげを付けたスタッフが、通路をいく人々に、パンフレットを配っていた。
サンタクロースのコスチュームを見て、紀子は今更のように年の瀬を感じていた。
腕時計を見る。今日は十二月十五日だった。
「もう、今年もあと半月あまりかあ。クリスマス…」
紀子は少し立ち止まって考える。そそくさといつも早足で歩くのだが、今日はより駆け足に、駅の改札を通過した。電車が、彼女を含めて社外の所用に、走り回るOL・サラリーマンを飲み込んでいく‥。
☆
坂本綾子は、いつものように坂の途中または角度によっては坂の真上に建つ大きな屋敷を見上げていた。坂本綾子は、今年四十歳になる。職業はパティシエである。クリスマスが近づくに連れ、クリスマス・ケーキの注文が殺到する。
商売繁盛でありがたいことだが、材料の仕込みや今年のデザイン・ケーキの図案等、考えること、やることで彼女の頭の中は、ヒート・アップしていた。
今朝も朝六時から店を開けて、ケーキ作りに余念がなかった。
アルバイトの見習いのパティシエたちに細かい指示を出し、いま、ようやく休憩時間を取れたところだった。
坂本綾子は、歳に似合わず、ディズニーアニメが好きだった。
中学生のころ映画館で、「美女と野獣」を見て以来、同映画をテープが擦り切れるほど、DVDを何度も繰り返して観たものだった。
特に、野獣の住むお城の雰囲気が好きだった。
彼女にとって、坂の上に建つ屋敷は、まさに野獣が住む城のように見えたのである。
もちろん彼女は、住んでいる人物を知っている。が、会ったことはなかった。
「神崎修一さんてどんな人なのかしら」
思わずつぶやきが漏れるほど、空想をたくましくしていた。
「すみません。ショートケーキください」
女性客の声がする。坂本綾子は瞬時に仕事用の顔になり、
「いらっしゃいませ、お客様」
と、店頭へと出ていった。
綾子が、店先に出ると、きれいなセミロングの黒髪を、冬の風に軽くなびかせて、若い女性が立っていた。
「すみません。お待たせしてしまって。ショートケーキでしたね。幾つお入り用でしょうか」
「そうですね。えーと。イチゴとチョコ一つずつでいいです。差し上げる方が、お年なので…」
綾子は、目の前の女性が、最近この界隈で噂のお屋敷に通う美人さんだと確信した。
綾子は丁寧に手提げにケーキを入れて、手渡そうとしたとき、迷ったが思い切って聞いた。
「あのう、お客様は、お屋敷の神崎修一先生の担当編集者の方ですか」
「そうです。私が編集担当の者です」紀子は慎重に名は名乗らなかった。
「そうですか。私お屋敷の先生の小説のファンです。先生にがんばってくださいとお伝えください」
「必ず、伝えますわ」
紀子ははっきりと明言して店を出た。
綾子は思わず、紀子の後を追った。
赤いロングコートを風に靡かせて、坂を上っていく紀子の後姿を見送りながら、「美女と野獣」の映画の中で、父親を助け出すために、進んで野獣の城に歩いていく美女ベルを思い出していた。
映画では、最後にはベルと野獣は、結ばれベルは屋敷に住むことになる。
「もしかしてあの担当編集者は、ベルになるのかしら」
綾子は独り言ちる。
綾子は、自嘲の笑みを浮かべる。
「やめた、やめた。私もいい年なんだから、いいかげんディズニーを卒業しなきゃ」
昼休憩は終わり、クリスマス前のあわただしい。だがありがたい忙しさの中に身を翻した。




