第十章 坂の下の人々 その1
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吉村周は、全集の先行予約数が増えていることに満足していた。第一巻の発売は、新年度、六十周年度を意識して、来年四月を予定していた。それまでに、神崎修一の新刊小説を出版したいと計画していた。そうなると、来年二月には、完成していてほしい。
さらに、吉村周には野望があった。これを機に神崎修一を作家に戻したいと思っているのだ。”戻す”という表現は、ある種残酷なような響きを伴うが、神崎修一は、まだ朽ちて良い作家ではない。担当は、当然、篠原紀子で行く。
吉村周の野望は留まらない。
☆
「あいよ、お待ち!」
威勢のいい調子で、中華料理店の店主が、焼き立てのチャーハンをカウンター席の馴染み客に出す。
「ああ、いつもながらにいい香りだ」なじみ客は、目を細めてしみじみと言う。
客は、握っていた杖を空席になっている隣の丸椅子に立てかける。
老人ー六十五歳を老人と言っていいならーは、レンゲでチャーハンを掻き上げ一口食す。
中村武は、この町内の会長を務める身分だった。
「大将、最近”坂の上の先生”に会ったかい」
「会ったよ、会った。それも女連れだったぜ」
「女だって!あの堅物先生がか!」中村武は立ち上がった。杖をつく必要などないほどに敏捷に。
「堅物といっても、男は男だからねえ」
中華料理店の店主は、訳知り顔に目を閉じてうなずく。
店主は、身を乗り出す。
「それが、十人並みの女じゃなかった。あれは絶対二十代だったな」
町内会長と店主とも揃ってため息をつくのだった。
そのため息の成分は、「羨望」という名称だろうか?
中華料理店店主の妻は、くだらない中年男たちの会話をため息をつきながら聞き、ついに堪えられないという気分で真相をはなす。
「愚にもつかない話ばかりするもんじゃないよ。以前、お二人で店に来てくれたじゃないか。そのとき神崎さん言ってただろう。
『店主勘違いするなよ。この女性は、出版社の編集担当者だ』って言ってたじゃないか。神崎先生の新作小説が出るんで、いろいろストーリーとか二人で考えるんだよ。そんなことも知らないのかいこの唐変木」
店主と町内会長は、首をすくめた。
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自分が、噂の的になっているなど思いもしない紀子は気の重い中、坂道を登っていた。
彼女の頭の中で、上司の吉村周との会話が繰り返されていた。
☆
編集長である吉村周に、手招きで呼ばれた。紀子は嫌な予感を持ったが、逆に胸を張って編集長室に入った。
「なにかご用ですか、編集長」
周は口辺に謎めいた笑みを浮かべながら、紀子に言った。
「実は、上とも相談して決めたことなんだが…」
上とは、言うまでもなく社長や役員との出版総務の決定事項である。
「神崎修一に、現在書いてもらっている小説のほかに「定期的」に小説を書いてもらえるように、篠原君、交渉してくれないか」
紀子は、即座に表情に、「困惑」の色を浮かべた。
「はあ、私は一編集者ですよ。執筆の依頼は、編集長や会社を代表する方々がするものじゃないですか」
周はうなずくが、口辺に浮かべる笑みは消えない。
「実は先日俺は、夜に修一に電話したんだ。そうしたら、あの滅多に人を褒めない、いや褒めたところなんか見たことがない奴が、君を篠原君を褒めてたぞ」
「え!」紀子は本気で驚いていた。
「そ、そんなの”社交辞令”なだけじゃないですか」
紀子は軽くあしらうように、かつ謙虚に見えるように振る舞う。
しかし、胸の動悸は小さなものではなかった。
「いや、違うな。俺は若いころの神崎修一を知っている。奴は乱暴者ではなかったが、皮肉屋なところがあって、決して人を大っぴらに褒めない奴だった。
神崎修一も歳を取り多少角が取れたのかもしれないが、君を気に入ってくれているらしい。だから篠原君の言葉で、続けての小説執筆をお願いしてくれないかというわけだ」
紀子は、周の話を聞きながら、神崎修一の本心を疑っていた。
(神崎さん、どういうつもりかしら。まさか、私にコスプレさせるのが面白くて、編集長にわざと言ったのかな)
紀子は、修一に見せた様々なコスプレを思い出していた。
メイドファッション、女子大生スタイル、極めつけは、夏服のセーラー服と濃紺のセーラー服。その他etc…
(人の気も知らないで。嫌な男性)
しかし、反面心が浮き立つことを否定できない紀子だった。
「つまり、編集長は、続けての書下ろし長編を書いてくれるように、神崎修一氏にお願いしろというわけですね」
紀子は確認するように言った。
吉村周は、鷹揚にうなずく。
「書下ろしとは限らないぞ。光栄社の婦人雑誌に連載小説ということもありうる」
紀子は呆れていた。
(今の神崎さんに書下ろしはともかく連載小説をお願いするなんて無理に決まってるわ)
神崎修一との密度の濃い、数か月にわたる接触を通じて、紀子は修一の何ものにも縛られることを良しとしない、自由人的性向を感じそこに紀子は、否定できない魅力を感じていたのだ。連載小説を依頼することは、紀子の感じている神崎修一の長所を崩してしまうように思われるのだ。
しかし、篠原紀子は一編集者である。上司に命令されれば、とりあえずは、神崎修一に依頼しなければならない。
「わかりました。神崎先生に依頼してみます」
紀子は編集長、吉村周の期待に満ちた視線を全身に浴びながら、編集長室を出た。




