第九章 時は移ろいゆきて(3)手紙
1
緑川奈々。年齢四十歳。本名神崎奈々。旧姓 中島奈々。
職業 作家。現在三誌に連載小説を抱えている。しかし、体力的・精神的均衡を保つため、A誌は、早々に連載終了。B誌、C誌の連載は継続されている。
デビューして六年。著作は十数冊。発行部数百万部を最近突破した。
デビュー作、「マーダーイン・ザ・レイン」ー雨の殺人ーが近く公開される。
ただし、映画館ではなく、ネット動画であるが。
その告知が流れると、同動画サイトの有料契約者が、一晩にして数万増加した。
文学と映像メディアが一卵性双生児のように組み合わされるようになって久しいが、まさに緑川奈々は、その”申し子”となっていた。
が、緑川奈々は、至って冷静だった。
(作家として一応成功したけれども、これが私の望んだ幸せ?)
奈々は、自問自答を繰り返す。
「平凡な幸せを放棄した上で」という枕言葉がついて離れない。
彼女の脳裏に神崎修一の顔が浮かんだ‥。
2
奈々が秀一と最初に会ったのは、光栄社書籍編集部長である父の招いた客として出会った。その時秀一は、二十八歳だった。
奈々は、国立大学の文学部に合格したばかりだった。
奈々も今時の若い女性同様、父保との反抗期にあった。だからというわけではないが、独立したいと思っていた。
寡黙で、影のある神崎修一は、そんな奈々にとって、魅力的に映った。
しかし、奈々は若くはあったが、愚かではなかった。
受験勉強を懸命にがんばり、国立K大学の文学部に合格した。
大学では、奈々はテニスサークルに入り、合コンにではなく体力増加に励んだ。
いわゆる文武両道を成立させて、光栄書店に入り、神崎修一の担当になった。
ここに至って、奈々は長年ひた隠しに隠していた修一に対する恋心を全開させた。
二人が恋情を交わすのに一年とかからなかったのである。
修一も二十九歳、三十手前とはいえ、十分に青春の要素を蓄えていた。
奈々が修一との結婚の許しを父に求めた時、保はよい顔をしなかった。
一言こういったのみである。
「神崎修一は、たしかにいい男だ。だが、お前が退屈するだけだぞ」
奈々は、父の言葉の意味が解らなかった。
保はそれ以上のことは何も言わず、二人は結婚した。
☆
結婚生活が三年になろうとした頃、奈々は父保の言葉の真意を理解した。
神崎修一は、確かに真面目だった。小説もベストセラーを出していた。
が、あまりにも沈黙が長く、多くその上に笑顔を浮かべなかった。
奈々は、しだいに”退屈”を覚え始めた。
奈々は、作戦家だった。きっと戦場で指揮を執らせれば、大戦果を得たかもしれない。奈々は、修一の日々の行動が、一つの美学によって貫かれていることを悟ったのである。
(男は黙って勝負する。妻たる者はそれに従うべき。というわけね。冗談じゃないわ)
奈々は、時に修一と冗談を交わし、時に熱い議論を交わし、夫婦というよりは、ー同士ーでありたかったのである。
この考えは、二人の間に子供ができなかったことにもよるが、とにかく奈々は、修一の「沈黙」が苦痛だった。
ある雨の日、奈々は、修一の前に一枚の用紙を出した。
その用紙には「離婚届」と印刷されていた。
修一は、寡黙な面を歪ませて言った。
「どうして…」修一はそうとしか言わなかった。奈々にはそれが腹立たしかった。思わず声を張り上げた。
「修一さんには”寡黙の美学”があるでしょうけれど、私にはそんなもの美学でもなんでもないわ。話し合い、笑いあい、時にはけんかもする。そんな「生身」の人間が欲しいの。修一さんは、まるで木偶の人形じゃない。私は、人形と結婚したのじゃありません」
奈々は、その時の修一の顔をはっきりと覚えている。またしても語りはしなかったが、涙が溢れていた。
その沈黙と涙が腹立たしく奈々は、修一の頬を叩いた。手が痛かった。
3
三か月後、奈々が驚くほどスピーディーに離婚が決まり、修一が神崎邸を出ようとしたのだが、奈々が止めた。
「離婚は双方の責任よ。修一さんが原因だけれども、私の至らなさもあった。だから、私がこの家を出ていくわ。こんな広い家の管理、私にはできないし、あなたの顔も影も忘れたいの」
奈々は言葉通り、足早に邸を出た。
☆
奈々が実家に帰ると、保は何も言わなかった。母は、散々修一の悪口を言ったが。
奈々はしばらく漫然と実家にいたが、大学時代愛用していたノート・パソコンを見つけた。十年以上前の古いパソコンだったが、まだ十分に使えた。
ある時から、奈々は小説を書き始めた。K大学文学部で学んだ文章力とウィットに富んだ彼女の文章は、少女探偵を生み出し、ある出版社に自ら持ち込んだのだ。
彼女の小説持ち込みを受けたのは、初老のベテラン編集者だった。
ストーリーテーリングの巧みさ、主人公の少女探偵の愛らしさと推理力。
上手いというよりただ単純に”面白かった”のだ。
「いいですね。うちで出版させてください」
「ほんとですか。ありがとうございます」
奈々は頭を下げた。
「失礼だが、もしかしてあなたは神崎修一さんの奥さんではないですか」
神崎修一が離婚したことは、出版関係にある者なら知らぬものはなかったのだ。
「主人は…。神崎修一とは一年前に別れました。もし、そうしたスキャンダラスなことを含んでいるのでしたら、ありがたい話ですが、採用はご辞退させていただきます」
「いや、私が悪かった。純粋にこの小説は面白いのです。出版させてください。それと先走った話ですが、この『名探偵佐久間綾」シリーズ化お願いしますよ」
奈々は戸惑いを覚えたが頷いてしまっていた。
4
初老の編集担当者の慧眼は、見事に当たった。シリーズじゃ当初年一作ペースでということだったが、奈々が乗っているときは、年二冊出版されることもあった。そして、当然のようにメディア化の話が来る。アニメ化、ドラマ化、果ては映画化の話までくる。主演の佐久間綾役には、トップアイドル女優、天才子役から大人になった、相良愛が演じることになった。
大成功だった。しかし、奈々の中に空虚さも同時に広がっていった。
別れた夫である神崎修一が、日々無口だった理由が今の奈々にはわかった。
(修一さんは、プレッシャーと闘っていたのね)
自分のために、奈々のために、何十万の読者のために。
…
奈々は、今さらのように反省した。
☆
奈々は、その日、マンションの一室で、仕事用のデスクにパソコンではなく、便箋を開いていた。
手紙だった。
「修一さん、お元気ですか?別れてからもう数年にもなりますね。私は今一応推理小説作家として、小説を書いています。世の中のことに無関心の風を装いながら、アンテナをはりめぐらせているあなたのことだから、『緑川奈々」が、元妻であることぐらい察しているのでしょうね。私はあなたに別れを切り出したことを反省はしています。作家としての責任感が、あなたを無口にさせていたのですね。いま、私は理解しました。
でも、勘違いしないでください。寄りを戻してほしいなんて一ミリも考えていませんから。離婚したことは、あなたのためにも私のためにも良かったことだと考えています。
冬ですね。お体ご自重ください。あなたは丈夫に見えて、風邪をひいたら長引く傾向がありますからね。
これからは作家同士として、お互い切磋琢磨しましょう」
奈々は、冬用の高級なロング・コートを身に纏い、部屋を出て、きちんとカギを掛けたかを指さし確認し(奈々の昔からの習慣だった)エレベーターに乗り、エントランスまでおり、自動ドアを通り、階段を三段軽い足取りで降り、コンビニエンス・ストアの前の郵便ポストまで行き、手紙を投函した。
冷たいものが頬を掠めた。空を見上げれば、雪が降り出していた。
コンビニエンス・ストアを前を通り過ぎようとしている若いカップルが歓声を上げていた。
奈々は、修一との最初のデートを思い出していた。
奈々は空を見上げて漆黒の空と降る雪に、射掛けるような視線を投げかけた。




