第九章 時は移ろいゆきて (2)電話 (加筆訂正しました)
1
紀子は、部屋が冷えているのを感じた。冬だから当然だとは思うが、季節とは異なる要素によって冷えているように感じる。神崎修一の書斎で、ロッキングチェアーに、セーラー服を着てすわっている時も、寒くはあったが、暖かさがあった。セーラー服を着ている恥ずかしさだけではない暖かさがあった。
修一が醸し出す無遠慮でありながら半面優しさも含む空気があった。
紀子は夕食の準備を始めた。準備といっても、冷凍食品をレンジで「チン」
といった今では当たり前の夕食をするだけだ。
ふと、紀子は修一が、冷凍食品を昼食にしようとしたのを、メイド服姿でとめ、強引に外食させたときのことを思い出していた。
「私も神崎さんのこと言えたもんじゃないわね」と、独り言ちる。
どこか戸が開いているのだろうか、それとも中古の賃貸マンションの常か、どこかに隙間風が通っているに違いない。
電話が鳴った。スマホにではなく、家庭電話にである。
誰が電話を彼女にかけたのか、考えるまでもなかった。
母の美彌子からである。
☆
紀子の母美彌子は、デジタルなるものに対して未だに半信半疑であり、特にスマートフォンを敵視していた。
インターネットには理解もし、買い物に利用している。パソコンの通販もあっというまに理解してしまった。
それなのに、スマートフォンだけは、決して利用しようとはしない。
一度、紀子がその理由を聞いた時、美彌子は、「人間、楽を追求するようになると、堕落するわよ」
と、断定した口調で言ったのである。
以来、電話だけは家庭用の据え置き電話とスマートフォンを紀子は用意しなければならなくなった。
2
紀子は受話器を取った。
「もしもし、お母さん。どうしたの」紀子の声は、会社や神崎修一に話しかける緊張感はなかった。
「居たのね、紀子。金曜日だから早く帰ってると思って電話したのよ」
「”いたのね”って、お母さん何度も電話してたの?」
「そうじゃないんだけどね。あなたって出版社になんか勤めてるから、ほらドラマでよくあるじゃない。”原稿ができるまで作家の家に泊まり込む”ってことしているんじゃないかと思ってたの」
紀子はギクリと胸を打たれた。母美禰子は知らないのだ。娘がコスプレして男性作家の屋敷に遅くまでいて、その作家の屋敷に泊まり、来客用のベッドに残り香を残しているなんて。
しかもセーラー服やメイド服に着替えているなんて知ったら、寝込んでしまうに違いない。
「そ、そんなことあるわけないじゃない。今はコンプライアンスが厳しいのよ」
「そうよね。真面目なあなたのことだから。母さん安心してる。だけど…年末だからね。仕事もいいけど、たまには帰ってきてくれると母さんうれしいわ。お父さんもお前の話ばかりしているからね」
「うん。なんとか時間を見つけて帰るようにするわ。父さんにもよろしく言っといて」
紀子は受話器を置こうとすると、その行為が見えているかのように美彌子は慌てて言い添えた。
「あ、それと、いい人ができたならすぐに知らせるのよ」
「仕事が忙しくて、彼氏どころじゃないわよ」
紀子は電話を切った。脳裏に神崎修一の顔が浮かんでいたのだが、彼女はそれを頑として拒否していた。意識的に。
3
同時刻
修一は吉村周とビデオ通話していた。
「見ろ、お前の全集の特製B六版の本を収める箱だ。どうだ重層な感じがするだろう」
「ああ。しかし、そんなたいそうにして売れるのか?」
神崎修一は本の装丁になど興味がない。要は小説の内容だと修一は、考えるのだった。
「一応先行予約は、うちの光栄社の予測を超えているんだ。今の世の中は、マーケティング重視だからな。売り出す前に、どれだけ売れるかを知る」
「ご苦労なことだ」修一は、画面越しに周に頭を下げた。
「ところで、担当の篠原紀子はどうだ?おまえとなかなかうまくやっているみたいだな」
修一は、無意識に苦笑を浮かべていた。
「ああ、少しそそっかしいところがあるが、彼女はがんばっているよ」
修一にしては、シニカルな言葉が出てこなかった。素直に紀子をほめる自分に自分で驚いていた。
世の中に拗ね、時代の流れを十分に理解していながら、筆をペンを握ってこなかった。そしてパソコンのキーボードを叩くこともなかった
そんな自分が一女性編集者を褒めるとは。修一は自分が信じられなかった。
「そうか、そいつはよかった。俺はな修一、お前がもう一度作家としてやる気を示してくれることが嬉しいんだよ」
意外な感にうたれながら、吉村周の涙交じりの言葉を聞き流していた。修一の頭には、紀子の力んだ顔と引きつった笑顔が浮かんでいた。
☆
地球温暖化も一休みしたのか、冬らしい冷たい風が町を軽やかに吹いていた。
季節は、冬だった。しかし、寒くはあったが、雪も降っておらず、もちろん雨も降ってはいない。
各々の人間たちの心に冬は、様々な姿を投影していく。懐かしいあるいは悲しい、そしてまた嬉しい記憶と幻影を人々の心に灯していく。
☆
不思議な奇妙な一致点があった。篠原紀子は母と電話している以外音を立てなかった。
神崎修一は、吉村周とビデオ通話している間、何の音もなかった。
紀子のマンションの外では、気の早いクリスマス・ソングが流れていた。
神崎修一は、吉村周とスマホの画面越しに話している間、存在していた音は、グラスに注がれたウイスキーの中で、翻弄される氷同士のカチンという触れ合う音だけだった。
静寂だ。孤独を包む静寂は冷たく寒い。
しかし、人間は暖かい衣を、自分の心に無意識に掛ける。
冷たい空気に包まれた孤独は、会話に、記憶によって、暖かいコーヒーへと変わるのかもしれない。
そして、新しい一日がまた始まる。




