第九章 時は移ろいゆきて(1)師走
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人は、時の流れをあらゆるもので感じ取っていく。
一つには物質的なもので。カレンダーの枚数がいつのまにか残り少なくなったことで、一年という区切りを実感する。
またある者は、自然の移ろいによって。春のそよ風が心地よいと思っていたのに、すぐにマンションの部屋の室外機から、熱風を飛ばされ、夏を感じ、秋の花を愛でる間もなく、肌を刺す寒風が、時の車輪が回っていることを人に実感させる。
スポーツの盛り上がり、冠婚葬祭の集まり、街に流れる音楽等も季節の移ろいを人に感じさせる。喜びも哀しみも、怒りも、時には殺意さえ、『政治的手法の一種』という名称に変換させて、自らの権力維持として、戦争行為を公然と使う傲慢さも、時の流れの中で生じせしめ、その沸き起こる感情の結果として、罪のない人間の死体の山を時代の流れに置いてきてしまう。その結果起こる目を覆いたくなる結果の責任を誰も取らない…。
その事実に対する批判もやがて忘れ去られる。
そして今日も人生の時の流れは、繰り返される。人それぞれに。
季節は真冬になっていた。吹く風は人の歩みを無意識に早くさせる。
☆
篠原紀子は、神崎修一全集の表紙見本を、編集部で周から見せられていた。
黒塗のB六版の装丁もしっかりしていた。
全集の帯には、
「光栄書店創立六十周年記念「神崎修一全集」第一巻」
と印刷されていた。
書籍編集部部長、吉村周は、自分の全集でもないのに、紀子に自慢していた。
「どうだ、篠原。りっぱなものだろう」
紀子も笑顔で反応する。
「ええ、神崎さん、これなら喜ぶと思います」
吉村周は、紀子の言葉に満足げな笑みを浮かべてうなずいた。が、周には、一つ拭い去れない懸念があった。
言うまでもなく、先日スナックで保に言われた言葉だ。
『先行予約と実際の売り上げ部数には差がある。読者は天邪鬼だと思え』という予言というか忠告だった。
保の予言というか忠告の件は、紀子にも保は知らせておいた。
しかし、周は、緑川奈々がスナックに現れたことは、紀子には伏せておいた。理由は周にもわからない。周の勘が、口の端に緑川奈々の名を登らせることを本能的におしとどめさせていたのだ。
「ところで、どうだ」吉村周が突然言った。
「どうだとおっしゃいますと?」と尋ねようと紀子は思ったが、すんでのところで周の“皆まで言わない尋問“ルールに思い至った。
(手間のかかる男だわ)
紀子はため息が出る。神崎修一の無遠慮なまでのはっきりとした口調に慣れてしまった彼女には、周の迂遠さは、男としての価値を下げていた。
(どうして編集長と神崎さんが親友なのかわからないわ)
紀子は心の中で頭を振った。
紀子は気を取り直して姿勢を質した。
「神崎先生の新作小説は順調です」
紀子ははっきりと答えた。
「そうか、やはり篠原を担当にしてよかったな」
周の言葉は、紀子の癇に障る。
「編集長まで、私が女の武器を使って、つまり色仕掛けしているなんて思っているのだとしたら、即刻担当を降ろさせていただきます」
紀子は、憤然と立ち上がっていた。
「か、勘違いするな。篠原を担当にするよう助言してくれた人がいたんだ」
「誰ですか。その人は?」
「中条保さんだよ」
紀子は、鳩に豆鉄砲のような意外な不意打ちを食らった気分になっていた。
「編集長、いくら昔仕事でお世話になったからって、しかも元編集長だったからって無茶です。部外者じゃないですか」
「そんなに無茶でもないんだな、これが。俺は最初っから修一の担当者は、お前と決めていたんだ。念のためおやじさんに言ったら。おやじさんもお前がいいと言ってたんだ」
紀子は言葉に詰まってしまった。
「その証拠に、紀子は、きちんと新作小説の原稿もらってきてるじゃないか。今までまともに修一の原稿取ってきたやつは、うちの部では誰もいないんだからな。いわば俺は篠原紀子に賭けたんだ。そして俺はその賭けに勝ったというわけだよ。これからもよろしく頼むぜ、うちのエース」
紀子は、泣き笑いの表情を浮かべながら、編集長室を出た。
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紀子は退勤カードを押した。
何か心が晴れない気分だ。上司である編集長におだてられたのが原因ではもちろん違う。
神崎修一という、今の時流からは外れている「時代遅れの作家」に新作を書いてもらうよう依頼したのは紀子だ。上司の吉村周に、押し付けられた格好ではあったが、懸命に神崎修一の無茶な要求ーコスプレーにも応じて、新作の原稿執筆も順調だ。
仮に、今紀子が担当を外れても、新作小説は出版されるだろう。神崎修一は、風変わりで、時代遅れかもしれないが、小説は一流だ。現代の流行りの若手作家には書けない作風がある。紀子は自信をもって言える。
「神崎修一は、風変わりで時代遅れかもしれないが、一流だ」と。
修一を目覚めさせたのは自分だと紀子は、最近自負するところがあった。
しかし、それは同時に紀子が認めたくない何かを認めなければならない。
それを認めることは、紀子の心の核となっているものを放棄することになる。
紀子は、無意識に呟いていた。
「私は編集者として、神崎修一を世に問いたいのよ」
紀子のつぶやきは、誰の耳にも届かない。もしかすれば紀子の耳にも届いていないかもしれなかった。
時は移ろう。気が付けばカレンダーはめくられ、最後の一枚に明日からなる。
師走は明日からだ。まだ十一月なのに、地下のショッピングセンターのカフェテラスには、ミニチュアのクリスマス・ツリーが飾られていた。
極めつけに、クリスマスソングがかすかにではあるが、流れていた。
紀子を含めて仕事帰りのサラリーマンたちは、無意識に時の流れに追い立てられるように歩くスピードをことさら速くしていた。
紀子は、地下鉄に乗り、自宅マンションのあるA駅で降りた。歩いて十分。
街頭の灯の明瞭さが、冬を感じさせた。
マンションに入る。エントランスを通り、エレベーターで五階で降りる。
自室の扉の鍵をバックから出して、扉を開けて中に入った。
紀子の一日が終わったのである。




