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今日も雨が降る中で  作者: 金沢俊夫


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第八章 「惑う時」その1

                

               1


 地球温暖化防止が叫ばれて久しい。世界では戦争が起こっている。戦争によって地球温暖化防止の声など、嵐の中の木の葉のように吹き飛ばされている。

 紀子も一出版人として、ジャーナリズムの一端を担う者として、世界の現状を憂いないわけではない。

 大学時代、ゼミの同性の仲間に誘われて、戦争被災者の子供たちへの寄付金集めを懸命につとめた彼女だった。あれから五年以上にもなるのに、世界の状況はなんら変化していない。それどころか一層ひどくなっているように思える。紀子はため息をついた。

 しかし、紀子には喫緊の課題があった。それはー神崎修一のコスプレ要求ーをいかに妥当なものに(コスプレ要求自体が、すでに妥当ではないのだが、紀子はそこに気づいてはいなかった)してもらうかだった。

 (メイド服は困るわ。最近少しウェイトオーバー気味だし、やはりここはセーラー服(冬用)で話をつけるしかないわ)

 と、独り言ちるのだが、彼女の顔に一つも悲壮感はなかった。

 初めてセーラー服を着せられたとき、修一が顔を少し赤らめたのを紀子は忘れていなかった。吹き出しそうになるのを堪えながら上り坂を歩いていく。

 紀子の足元を木枯らしに舞う木の葉が横切っていく。

              ☆

 重い門扉を開けるコツを紀子は掴んでいた。外側につまり坂道側に開けようとすると、門扉は重く抵抗するが、花壇の方向に開けると、さほど重くはなく開くのだ。まるで老執事が丁寧に出迎えるかのようにと言えば、すこし乙女チック過ぎるが。

 彼女は笑顔を消す。

 「いけないわ。私は仕事で来ているのだから」と、紀子は自分自身に言い聞かせる。

 ブザーを押す。「光栄書店書籍編集部の篠原紀子です」

 「ああ、入ってくれ」修一のややぶっきらぼうな声がした。

 「はい」

 紀子は今やルーティンとなったやり取りをして神崎邸に入った。

 十一月のやや不安定な気象条件は雨雲を連れてきていた。紀子はそれを知る由もなかった。


               2

 紀子は、神崎邸で未だに驚くのは、玄関の広さだった。卓球台をおいてもいいような広さだ。

 (神崎さんは、こんな広い家に一人で暮らして平気なのかしら)

 紀子は思わずにはいられない。

 彼女はパンプスを脱ぎながら、想像する。

 神崎修一が現在の四十八歳ではなくて、二十年前、吉村周編集長が昔語りに口にするように、ベストセラー作家だったころ、この広い玄関には、沢山の靴が並べられていたのだろう。

 靴の種類も、男物のビジネスシューズばかりでなく、パンプス、ピンヒール等があったに違いない。そして、その女性編集者の中には、神崎修一を一作家としては見ずに、『金のなる木』としか見ようとせず、あわよくばその木の下で、永遠に”雨宿り”しようと考えた女性編集者もいたに違いない。

 紀子は頭を振ってその妄想を振り払った。

 (わたしはそんなことは考えないわ!神崎修一はあくまでも仕事の対象として見るのよ。

 全集の販売促進の一環として、新作小説の原稿を全てもらえたら、私は神崎修一の担当者ではなくなる。また別の作家の担当になり、神崎修一の記憶は薄れていく…。それでいいのよ)

 紀子は、心中でそう決意していた。その時が訪れた時を妄想する。

 一抹の寂しさを彼女は否定しきれなかった。

 「神崎さん!参りました」

 紀子の声はなぜか寂寥感を打ち払うように、甲高くなっていた。

 「おう!」

 神崎修一の声は、いつもと変わらない。

 紀子は、その声に飛び込んでいくような心の弾みを感じていた。

 雨が降り出していた。

紀子が書斎に顔を出す。しかし、修一の姿はなかった。

声はすれども姿は見えず。と、キッチンから声が聞こえた。

「こっちだ、こっち」と、紀子が声のした方向を見ると、神崎修一が、エプロン姿で立っていた。

 

 紀子は声が出なかった。いやもっと過激に声を失った。

 声の代わりに出たのは、哄笑だった。それも息ができないほどの。

 「アハハ…。か、神崎さん。笑わせないで、く、くださいよ」

 と、いいながら紀子は体を九の字に曲げる。

 「笑うなよ。五十の声を聞こうとする男の一人暮らしなんて、だいたいこんなもんだ 」

 と、言い訳しつつ修一も笑いが唇に浮かんでいた。

 笑いを収めた時、紀子は、今日はメイド服でなくセーラー服にするよう誘う企みを忘れてしまっていた。

 「先日のお約束通り、メイド喫茶のメイド服を着て差し上げますわ。ついでに料理もしてあげます。味の方は保障しませんけど」

 「ほんとうか、そいつは助かる。実は今日買い出しにいくつもりだったんだが、つい寝過ごしてしまって」

 紀子は二階の衣裳部屋に向かった。衣裳部屋に入る。

 初めてこの部屋に通されたときは、神崎修一を精神異常者または性犯罪者ではないかと疑った紀子だった。

 今は、ずらりとハンガーに掛かった色とりどりの衣装を見ても、選択欲が刺激されるようになった。

 紀子は、メイド喫茶で働くアルバイトの女子大生たちを繁華街で度々目にしていた。

 薄い網タイツに白のエプロン、黒のミニスカート姿の女子大生たちが、アルバイトで、道行くサラリーマンに、「ご主人様ぁ」と甘ったるい声で、ポケットティッシュや店のチラシを配っているのを尻目に、会社へ、著者宅へ、校正者、印刷所と歩き回っていた。

 その自分が今やメイド服を着る羽目になるとは。まったく人生は、何がどうなるのかわからない。紀子は、若干二十七歳にして、人生の真実を知り、深淵を覗いたような気分だった。

 紀子はため息をつきながら姿見の大鏡を見ながらメイド服に着替えながら、

 「二十年前にも、神崎さんは担当が女性だったらコスプレするように命令したのかしら」

 二十年前には、”メイド喫茶”などあったとは思わないが、セーラー服やキャビンアテンダントの「制服」は、確実にあった。

 女性編集者の中で、神崎修一を誘惑しようと考える女はいたはずだ。

 神崎修一は、水も滴る美男子というわけではないが、ぶ男ではない。

 二十年前、まだ二十代の頃なら、神崎修一はベストセラー作家だった。必ず女性に関心を寄せられたことだろう。

 セーラー服のスカートを意図的に短く見えるように着こなしたり、キャビンアテンダントのスカートをミニにするなどしたに違いない。

 そうした女性編集者に会ったことも、もちろん話したこともないが、なぜか敵愾心が、紀子の心に起こっていた。

 (神崎さんはどうしたんだろう。そういう時…)

 ニヤついた、表情の修一は想像できない。

 (きっと私と初めて会った時のように、女性編集者に意地悪をしてたんじゃないかしら。だとしたら子供みたい)

 紀子にはわからない。またわかる必要もない。神崎修一は、小説執筆を依頼した作家なだけだ。

 自分は担当編集者であって、それ以上でもそれ以下でもない。

 「紀子、仕事よ!私は神崎修一の担当編集者。それだけよ」

 紀子は鏡の中の自分に言い聞かせる。

 スカートを身に纏う紀子。

 彼女の意識とは無関係にスカートの裾が刷り上がる。

 五ミリ…。

 一センチ…。


 

 

 



 

 


 

 

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