第八章 「惑う時」その2
1
神崎修一は、戸惑いを覚えずにはいられなかった。
(こんなことなら頼むのではなかった)と、後悔する思いが強い。
藤崎紀子が作ってくれた、みそ汁は、インスタントであり、味の差などほとんどない。唐揚げは、冷凍の唐揚げだし、味の差もさほどなかった。
つまり、だれが作ろうと同じなのだ。
だから、多少みそ汁が塩辛かったり、唐揚げが揚げ過ぎだとしても、差はないのだ。ただ一つ差があるとすれば、紀子の懸命な祈るような視線が、加わっただけなのだが、その視線は、修一にとてつもないプレッシャーを与えるのだった。
紀子が入れたみそ汁を、紀子が揚げた唐揚げは、美味とは言えないが、食べられないものではなかった。
「ど、どうですか?」
喉の奥から絞り上げるような声で、紀子は言った。
「うん…。上手いぞ。いやいつも俺一人で適当に味付けして食べるので、女の人に作ってもらうのは格別だな」
修一は、自分の言葉に嘘と追従の度合いが強いことを自覚しながら言葉を継ぐのだった。
一方で、紀子はほっと胸を撫で下ろす。料理などここ最近したことがない。
キャリアウーマンとして、男社会を生き抜く女に、料理など、クックパットがあれば事足りる。
紀子はそう信じて疑わなかった。しかし、今、紀子は修一の言葉に、偽りと追従の色が濃いことを、敏感に察していた。
紀子は、学生時代の同い年で結婚し、子育てもしている親友に、
『紀子も仕事もいいけど、料理とかできないと結婚できないとは言わないし、結婚が全てじゃないけれど、料理が全くだめということだと、”いざ”って時に恥かくわよ』と忠告されたことをまざまざと思い出していた。
今が、”いざ”だった。
(神崎さんは、仕事の対象の人なんだから、こ、これは仕事を円滑に進めるための一手段にす、過ぎないわ)
と、紀子は自己正当化に走るが、敗北感はぬぐいえなかった。
そんな彼女の気持ちを洞察したわけではないが、修一は、無意識に慰めるような言葉を言った。
「今日も雨が降っている。泊まっていけ。それとも、まだ俺が狼になると思っているのか。明日は土曜日で休みだろう。それに、俺も君に、ストーリー展開について相談したいんだ。いいか?」
「は、はい」
篠崎紀子はメイド服姿だったが、そんなことは関係なく救われたような気持ちになれた。
雨は、霧雨だ。花壇に優しく寄り添うように、”慈雨”となって降り続いた。
2
吉村周は、花金の一夜、例の行きつけのスナックで、ウイスキーの角瓶を傾けていた。神崎修一全集の予約状況は、予想外に好評だっだ。
どの出版社も、売り上げは絶好調と言えるものではなかった。
頼みの綱は、コミックとラノベと文学賞受賞者の、受賞後第一作を自社で、出版できるかにかかっていた。
しかし、光栄書店は、その風潮に背を向け、神崎修一という、忘れかけられている作家の個人全集を出そうとしている。
もし、先行予約において、芳しくなければ企画倒れになりかねない。しかし、今のところ読者の郷愁を刺激したのか、先行予約は順調だった。
「どうしたんだい。今日はやけに飲むじゃないか」
吉村周は、スナックの店主、中条保に声をかけられた。
「おやじさん、神崎修一の個人全集の先行予約が順調に増えてるんすよ」
「へー、神崎修一の全集がね。彼はまだ小説書いてたのかい」
保は、感心したように装いながら、さりげなくウィスキーの角瓶を取り上げる。
周は、取り上げられる角瓶を名残惜しそうに見つめながらも笑顔で呟いた。
「神崎の文学は、まだ死んでなかったんすよ」
周は、感激に声が震えていた。
しかし、元書籍編集部の編集長だった保は、経験から、先行予約の罠を感じていた。
「気を付けるんだよ。先行予約はあくまで先行予約だ。実際の発行部数とは差があるという覚悟はしといた方がいいよ」
「そんなものすっかね。おやじさん」
周の口調は、酔いもあってか、ベテランではない中堅の編集部員の口調になっていた。
「神崎修一は、確かに文章も上手いし、言葉も綺麗だ。しかし、なにもかも揃い過ぎているというのは、逆に反発を買うもんだ」
「”反発”?おやじさんの言ってる意味がわからないな」
「読者ってのは、天邪鬼なところがあるということを忘れない方がいいよ」
「天邪鬼?じゃあ、予約はしたけれども、気が変わって買わないってこともあるってことなのかい、おやじさん」
「文章がきれいで、ストーリーも良い小説ってのは、時間がかかって売れていくもんだよ。一朝一夕には売れないもんだ」
元編集部長の保の言葉は、重いものがあった。
3
スナックの扉の鈴が鳴った。
長い髪が、背中の中央にまで伸びていた。
毛先がわずかに濡れていた。身長は高く、百七十に近いだろうか、プロポーションは均整が取れていた。年齢は三十代後半、もしかしたら四十に手が届いているかどうかだった。
女は、指にわずかにタコらしきものを見せながら、カウンターへと歩を進める。
その女性が、入ってくるまでは、店は喧騒に溢れていたのだが、全員の視線が、女性に集まり静寂となった。
吉村周は、その女性を見た時、背筋に冷たいものが走るのを確かに感じた。
女は、徹夜明けなのか生気のない顔に、笑みを浮かべて周に近づいていく。
「あら、吉村さんじゃない。久しぶりね。ところで吉村さんなら知ってるわよね。私の元だんなのメールアドレス。神崎修一のメールアドレス教えてよ。あいつ、スマホのメアド変えやがって、連絡もつかないの」
笑っている目の奥に、深い執念を宿した。神崎奈々、いや今を時めくベストセラー作家緑川奈々が立っていた…




