第六章 冬の足音 (1)漏れる呟き
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紀子は坂道を登っていく。風は冷たく感じられる。そろそろ季節が冬へと移行する前触れを風が伝えてくれる。
編集会議から半月が経った。紀子を誹謗中傷した中堅男性社員は、中途退職した格好になっているが、実質的には馘であることを誰もが知っていた。
その社員の女癖、言ってしまえば「セクハラ」は目に余るほどだったことが、退職した後に判明した。
それも体に触れるセクハラではなく、とことん嫌みを言い続けるのだ。
やれ、「色気が溢れている」とか「男を視線で誘っている」といった不確かな評判を流し、その女性職員が困り果てる姿を見て、噂を流しては楽しんでいたらしい。
また、別の話では、子供が生まれたものの育児の方法で、夫婦げんかが絶えず、かなりストレスを抱えていたらしい。
だからというわけではないが、神崎修一の担当になり、光栄社の創設六十周年
の一翼を担う若干二十代でしかない篠原紀子を羨望の眼で見ていたらしい。
そんな裏話を編集長の吉村周から聞かされ、紀子は激しく憤った。
「なんですか!それ?言いがかりもいい加減にしてください!」
ふだん飲みなれない日本酒を飲んで酔った勢いで周に訴えた紀子だった。
「まったくだ。おれならこんな風に堂々と…」と、紀子の手を無遠慮に握ってきた。
「だ、だめです。セクハラを堂々としないでください」
上半身を逸らしながら言った。
社内の人間関係は、どうにか正常に戻りつつあったが、紀子にとってはもう一つ乗り越えなければならない「人間関係」があった。
それは考えるまでもなく、「神崎修一問題」だった。
なんとかして、”コスプレ”要求を止めさせなければならないのだが、なぜか断固とした態度がコスプレに対しては取れない紀子だった。
今日も事前に、修一からリクエストが上がっていたりするのだ。
「篠原君。次回は十九世紀英国風メイドファッションを見たいんだ。君なら似合うと思うので、ぜひしてくれ」などと言われている。
紀子が以前妄想したファッションだ。彼女は喜んでしようと思ったが、ここで笑顔で承諾すれば、修一のリクエストは際限がなくなる。果ては、メイド喫茶の若い女の子たちのように、ミニドレスに、ロングのタイツを履き、頭にティアラが輝くなんて格好をさせられては、さすがに紀子も耐えられない。
早々に予防線を張り、めいっぱい怖い目をしつつ、
「一度だけですよ」と釘を刺しておいた。
秋から冬へと変化しつつある寒風が、紀子の歩みを早くさせ、神崎邸に紀子は到着した。来訪のブザーを押す。修一の声がして紀子は、いつみても豪華な門扉をくぐり屋敷に入る。
そんな手順も行動も彼女にとって自然なものになっていた。
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そして、紀子の視線は、花壇に向かう。以前大雨の中ずぶぬれになりながら、
傘を花壇の上に置いてきた時の光景が、彼女の脳裏に浮かぶ。
今日は寒くはあるが雨が降りそうな気配はない。
紀子は、神崎邸に入る。ほのかに暖房がかかっているのか、暖気が彼女を包みこむ。
「神崎さん、参りました」と、囁くように言う。
紀子は少し奇妙に思う。どうして、「来ました」と言わず、”参りました。と、一段丁寧に言うのだろうかと。
そして、修一は、視線を紀子に向けると、すぐにパソコンに視線を戻す
「ああ、原稿はプリントアウトしたよ。添削しておくれ」
修一は、意外だった。
(おれはどうしたんだ。”添削しておくれ”だなんて。丁寧過ぎじゃないか)
修一は、もう一度紀子が立っていたところを見たが、紀子はそこにいなかった。
再び紀子が現れた時、頭に白い布を乗せ、黒衣に白いドレスを重ねた、メイド姿で降りてきた。
「ど、どうですか?私、メイド服なんて着たことないから、上手に着こなしているか自信がないんです」
修一は、紀子にコスプレなどしなくていいと言おうと思ったが、考えが変わった。
(面白い女だ。だが、誠実な女だな。コスプレは続けてもらおう。そのかわり、俺も誠実に新作を書いていこう。久しぶりだ。人の期待に応えようと思うなんて)
「よく似合ってるぞ。君はなんでも着こなすんだな」修一は、ジョーク半分本心半分で答えた。
☆
紀子はほっと胸を撫で下ろしたが、修一の言葉がすべて本心ではないことぐらい感じられる。
(まさか、人を”ピエロ”と思ってるんじゃないでしょうね)
しかし、修一の顔が少し赤いのを紀子は見て取った。
(いやだ、神崎さん。照れてるの?)
紀子は吹き出しそうになったが、懸命に堪えた。
編集会議で、先輩編集部員に「色仕掛けしたんじゃないのか」と暗に言われた時の悔しさと恥ずかしさを忘れさせてくれるものがあった。
紀子は、修一の新作小説の次章の原稿を、当然のようにロッキング・チェアーに座りながら読んでいく。
修一は何も言わない。紀子も「座ります」と修一に断りもしない。
そこにあるのは自然な空気感だけだった。
「ご主人様、肩でもお揉みしましょうか」
修一の次章の原稿もすばらしいストーリーで、紀子は上機嫌に無意識に口ずさんでいた。
「ば、ばかもの。いくらメイドのコスプレしてるからといって、『ご主人様肩でもお揉みしましょうか』なんてジョークは言うな」
修一は怒鳴った。
「え、あ。いやだ私、心の声が漏れてたみたい」
二人は顔を合わせて、どちらからともなく笑った。
弱い秋の太陽が中天に差し掛かる。時計は昼の十二時を指していた。




