第五章 編集会議 その2
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紀子は、会議室にいる全員の目が、自分に集中していることを肌身に感じた。
「編集担当者として、意見を述べさせていただきます」
紀子は感じる。同僚たちの視線を。その視線の一つとして暖かいものはなかった。
男性編集部員は、紀子を出る釘と捉え、失敗を望んでいる。それならまだ良いほうで、紀子の肢体を性的対象として見ている者もいる。
日常業務では、忙しくてそうした類の視線に気づかなかったが、会議の場では、あからさまに感じる。同僚の失敗を望み、あわよくば紀子にとって代わろうと考えている同僚もいるのだ。それは、完全な悪意ではなく、いわば出世競争、生存願望ともいえる。
女性編集部員は、紀子の美貌と業務業績に嫉妬を感じていた。毎日、にこやかに挨拶する繰り返しの中で、女性は同性に嫉妬を燃やす。
源氏物語の主人公、光源氏の母である「桐壺」の君は、宮中の同性の嫉妬によって、病となり死んだ。
それと全く同じことが、現代においても起こらないとは限らない…。
「神崎修一先生(神崎さん、怒らないでね)は、現在も非常に旺盛な執筆意欲をお持ちです。しかしながら、現代の出版界の風潮に、自分は適さないのではないかと考えておられます。いわゆるラノベ偏重、小説のコミック化は、先生にとって、自分には合わないと考えられています。
私は、実際に先生が試作(試みに書いた小説)を読ませていただきました。
(セーラー服姿でなんて死んでも言えないわ)と、彼女は心中で呟く。
とてもすばらしい短編小説で、でも、やはり現代の若者には受け入れられない感覚を、私自身は受けました。
文章のセンテンスは、ぎりぎりまで考え抜かれ、冗長さは皆無でした。
もちろん、擬音もありましたが、それは神社で開かれた夜店の呼び笛のシーンです。
このシーンを余分な単語、擬音、描写を可能な限り省いて表現されていました。
神崎修一の小説は、時代遅れだという批判は、確かにあります。
しかし、観点を転じれば、読む者の心に響く小説を一冊も読まずに、視覚のみに依存した若者たちは、インターネットに依存し、書籍を持って読み調べる体験を一度もせずに大学に入り、社会に出ます」
紀子の言葉に、怒りの視線を向ける女子編集部員がいた。また、この春入社したばかりの男性編集部員は、恥ずかしそうにメモ帳に視線を落としていた。
紀子の言葉は続く。
「もちろん、出版社も企業ですから、利益追求しなければなりません。良い、楽しい小説を数多く出版していく必要があります。その第一弾として、神崎修一先生の全集刊行は、おおいに意義があると私は考えています。
出版社は、利益追求のみに終わらず、知的好奇心の情報を発信する企業であると私は考えます。
以上の観点から、神崎修一全集の刊行を強くお願いします」
紀子の熱弁が終わった。しかし、返ってきた反応は冷たいものだった。
3
拍手が起こった。ただしおざなりの。
「ご立派な意見です。まさに出版社に勤める者の”鑑”だ。どうしてそんなに神崎修一に肩入れするんです、篠崎さんは」
紀子を始め、全員の視線が、発言をした人物に集まった。
その人物は、ラノベ発行を推進することを主張した中堅の編集部員だった。
彼は、全員の視線を浴びて、異様な興奮状態になっていた。
「篠崎さんは、とてもお美しい女性ですね。さては、奥の手を使ったのではありませんか」
紀子は怒りに頭がくらくらしそうになりながら、懸命に言葉を継いだ。
「『奥の手』とはどういう意味で仰っているのですか」
「それはまあ。俗にいうじゃありませんか」
「私が”色仕掛け”をしたとおっしゃりたいのですね」
紀子の声は、あきれて怒りを通り越して笑いになっていた。
「そんなにはっきりと言われては、ぼくとしても返す言葉がありませんね」
紀子は立ち上がった。
その時、編集長の吉村周が、紀子の肩を掴んで言った。
「篠崎、静まれ。神崎修一全集は、我社の六十周年事業の一つだ。このことは、社長も推進役を担っている。担当は、引き続き篠崎君にしてもらう。会議は以上だ」
紀子は複雑だった。自分の意見には自信がある。しかし、部内に余計な亀裂を生んだのではないかという不安があった。
紀子のデスクの前に後輩の女性編集部員と今年入社したばかりの男性編集部員が立った。
紀子は反論されるのではないかと緊張したが、返ってきたのは気弱な言葉だった。
「篠崎先輩、私、反省しました。もっと私自身小説を読もうと思います」
「ぼくも。漫画ばかり読むのは少しセーブしようと思いました」
紀子は何も言えずほっと胸を撫で下ろした。
編集部部長室には、吉村周と会議で紀子を誹謗中傷した中堅の男性社員がいた。
「いやあ、つい熱くなって、篠崎さんにはぼくも期待しているので、ついあんなことを言ってしまいました。反省しています」
中堅の男性社員は、視線で、(あなたもそうなんでしょう)と、下卑た笑みが浮かんでいた。
吉村周は視線を合わせず、
「君に書いてもらいたいものがあってね。是非君に頼みたいんだ」
「なんでしょう、喜んで書きますよ」
中堅男性社員は腰を浮かした。
周は、その社員の鼻先に、「転属願」と印刷された紙を突き付けた。
「編集長、これ冗談ですよね」男の顔は蒼くなっていた。
「いや、冗談ではない。昨今コンプライアンス規制が厳しくなっているのに、女性部員に”色仕掛け”なんて言えるのは、君だけだよ。それに、篠原紀子を神崎秀一の担当にしたのは私だ」
「さっき、神崎修一氏からラインがあってね。新刊の次の章ができあがったから篠崎君に取りにくるようにという内容だった。きわめて仕事上の信頼関係を彼女は 築いていることが見て取れる。
さて、君はどうするね。たしか、去年子供が生まれたばかりだったね。うちの部では使わないと決めたのでね。どの部も今は定員いっぱいだ。
あ、そうだった。清掃員に空きがあったはずだ。君はそこに行ってもう一度初めからやり直すんだな」
吉村周の声は冷たく響き渡った。
中堅の男性部員は、肩を落として編集部長室を出た。
翌日光栄書店の総務部に辞表が送付されてきた。
総務部職員は、淡々辞表を送付した社員の退職手続きを行っていく…。




