第五章 編集会議 その1
1
目覚まし時計が鳴った。
篠崎紀子は、自宅マンションの寝室で目覚めた。
月曜日の朝だ。
紀子は、口元に笑みを浮かべながら眠っていた。夢を見ていたのだ。
神崎修一の来客用の寝室の夢だった。
上下三万円もするシルクのパジャマ。ふかふかのベッド、首から肩までを支える幅広の枕。
羽毛の掛け布団。あの夜、彼女はまさに夢心地だった。
ただ一つ、あの夜、自分の行動に納得できないものがあった。
紀子は、くびを傾げる。
「なぜ、あんなことをしたのかしら」
紀子は、「あんなこと」を思い出す。
★
修一の「花壇は大丈夫だろうか」の言葉に反応し、何も考えず傘を二本持って大雨が降っているのに飛び出すなんて。編集者としては無用な行動だった。
無用と言えば、修一の夕食までインスタントとはいえカレーライスまで作っていた。しかもセーターにスカートを履いたコスプレをしたままで。
紀子は首を傾げるばかりだった。さらに一連の行動を通じて、嫌な気持ちにならなかったのだ。
普通に考えれば、担当編集者というより雇われた家政婦のようなことをしていたのだ。そこに思いが至ったとき、紀子は羞恥と怒りを今さらに感じていた。
(もう二度と料理なんて作らないようにしよう。コ、コスプレだって断ってやるわ)
と、決意はするが、料理はともかくコスプレを断れるか彼女には自信がなかった。自信がない理由も彼女にはわからなかった。紀子は髪の毛に触れる。
修一がタオルで無遠慮に拭いたことを思い出した。
(あのくそおやじめ、手荒に扱いやがって)
月曜日の朝早々に愚痴が出るばかりの紀子だ。
2
出勤の間、紀子は、神崎邸の客室用寝室が、いかに爽快であるかを実感していた。
紀子の部屋の堅くて薄いクッションのベッドとは、雲泥の差だった。
(また、あの寝室で寝るのも悪くないわね)
などと妄想してしまう。彼女はハッとしてその妄想を打ち消した。
確率は低いが、神崎修一が突如牙をむかないとは言いきれない。
夜中に修一が、ベッドに忍び込んでくる妄想を抱く。一瞬、トロンとした甘い妄想を浮かべたが、紀子は強く頭を振って、その妄想を排除した。
朝の通勤の満員電車の中で、紀子の隣に立っていた中年男性は、慌てて下ろしていた手を挙げた…。
満員電車を降り、駅の階段を下りて、会社への近道である地下通路を早足に歩き、再び階段を駆け上がる。目の前に「光栄書店」の高層ビルが現れる。
五段ほどの階段を上り、回転扉を回して社内に入る。紀子は無意識に時計を見る。九時五分前だった。
遅刻ではないが、いつもより十分遅かった。
エレベーターで、三階の書籍編集部に着いた。
滑るように紀子は自分の席に座る。
頬を両手で二度叩いた。前の座席の男性社員が、驚いた目を紀子に向けた。
「一週間の始まりですもの。気合いを入れようと思って」
と、取り繕う笑顔を向けた。
☆
書籍編集部の編集長室のドアが開き、吉村周が出てきた。
「よし、毎週月曜日恒例の業務成果と業務経過報告を行う。みんな会議室に移動してくれ」
椅子の動く音資料を持つ、パソコンを抱える者、少しの間雑音があった。
やがて、書籍編集部の全員が、会議室に座を占めた。
編集長、吉村周が、咳払いの後、先週一週間の光栄書店全体の売り上げを発表していく。
「先週わが社の売り上げは、一般雑誌、女性誌、芸能誌ともに売り上げは好調だった先週比十パーセント増だった。しかし、書籍は、ハードカバー、文庫共に五パーセント微減だった。コミック部門も二パーセントの微減という結果になった。雑誌の売り上げが、文庫・ハードカバーの落ち込みをカバーしている結果になった。会社全体としては、利益増といえるかもしれないが、わが書籍編集部は、”一敗地にまみえる”結果となった。その原因を各自自らの業務を通して原因はどこにあるか。
意見がある者は、遠慮なく発言してほしい」
編集長、吉村周の声は、いくぶん暗くならざるおえなかった。
中堅の男性社員が、挙手をした。周は無言でうなずく。
男性社員は、立ち上がり意見を滔々と述べ始めた。
「やはり、青少年の活字離れが、根本的原因だと思われます。我が出版社は、硬派を売りにしてきましたが、ライトノベル、いわゆる”ラノベ”をメインに出版する方向に舵をきるべきじゃないないでしょうか?
我社の創立六十年記念に、神崎修一氏の全集を刊行するということですが、それは「pay」つまり売れる確信があるのかどうか編集長のご見解を伺いたいです。神崎修一は、たしかにネームバリューはあるでしょうが、もう新刊を出さなくなって、二十年になると思います。今さら時代遅れの作家の小説を出版する意味があるのでしょうか」
中堅男性社員は、神崎修一に対する痛烈な批判を発言して、着席した。
編集部員のほとんどが、賛同の視線を交わしていた。
紀子は、編集長吉村周を見る。
吉村周は、無言だった。しかし、視線だけが紀子を捉えていた。
(篠崎反論しろ。お前は担当編集者だろうが)
と、訴えていた。
紀子は迷った。編集部で自分は年齢的には下から二番目に若い。しかも女性だ。仕事では他のベテラン編集部員に負けない自負があるが、それがまた編集部内での自分の立場を悪くすることもまた事実だ。
紀子は意を決して立ち上がった。
全員の視線が彼女に集中した。
「担当編集者として意見を述べさせていただきます」




