第四章 後悔と激励 その3
1
紀子は戸惑いを隠せなかったが、落ち着こうと努力した。
時計を見ると、すでに午後七時に近かった。
(お腹減ったな)緊張はしていても空腹にはなるのだということを彼女は知った。
紀子は、今さらのような疑問を抱いた。
「神崎さんは、このお屋敷に一人暮らしなんですか。お食事は、どうなさってるんです」
「外食の時もあれば、気分によっては自炊する。
大学時代は、バイトで定食屋で、定食や弁当を作ってたんだ」
紀子は、目を丸くした。
「神崎さんが…意外です」
「なんだその目は。『神崎さんのことだから、料理なんかせず、家政婦とか雇って、自分は動きもしないと思ってました』と、言いたげだな」
紀子は赤くなって修一を睨む。
「い、一々人の心を読まないでく、ください」
修一は、からかうような視線を紀子に注ぎながら、
「ま、急転直下我が家に泊まることになつたのだから、手料理でもと思ったが、生憎レトルトカレーしかない。お互い腹がへった。
作っていただけるかな」
紀子は迷ったが、“一宿一飯“の義理ができたことは否定できない。
「わ、わかりました。着替えてきます。あ、コスプレは続けますからご安心を」
紀子も負けじとからかうような響きを言葉に乗せた。
神崎修一は、無言でうなずいた。
唇の端が、微妙に歪むのを紀子は見逃さなかった。
(私は、料理がまったくできないと思ってるのね。バカにしないで。見てらっしゃい)
三十分後。紀子と修一はキッチンのダイニングテーブルに座っていた。
二人の間には、カレーライスが二皿あった。
「冷蔵庫を見たら、玉ねぎや、人参、ウインナーがありました。ウインナーは、お肉の代わりです。味は保証できません」
紀子は弁解半分、文句無用の紋切り型に言った。コスプレは、白いセーターに着替えていた。
修一は、紀子に黙礼してカレーライスを一口食べた。
紀子にとって長い数秒間が流れた。
「美味い、美味いぞ。久しぶりだ作ってもらった料理を食べるのは」
紀子は、胸を撫で下ろした。
外の雨は止む気配なく、テレビのニュース・キャスターは、視聴者に呼びかけていた。
「どうか、命を守る行動をお願いします…」
2
雨音はかすかにその勢いを失ったように、アスファルトの地面を打ち付ける音が小さくなった。
二人は、カレーライスを食べ終え、何話すこともなく沈黙だけが流れていた。
ふと間を嫌うように修一が呟いた。
「花壇…大丈夫だろうか」
紀子は、咄嗟に立ち上がり、「見てきます」
と、玄関に走り出した。花壇まで心配する義理はない。料理も業務範囲を超えている。と、理性ではわかっている。それでも彼女は花壇を見てこようと思った。
(えーい、”行きがけの駄賃よ”)と義憤に燃えて、傘を(高価な傘だった)
掴むと庭に飛び出した。
秋桜が、何本か強い雨に打たれて萎れてしまっていた。
紀子は、花壇に傘を差しながら、もう一本の傘を花壇に差し掛けた。
幸い、風も雨も収まりかけていて、傘を吹き飛ばす心配はなかった。
☆
紀子が扉を開けて玄関に入ったとき、外は天気が回復しているのに、雷が落ちた。
「ばかもの!雨の中を飛び出す奴があるか!風邪を曳いたらどうするんだ」
「でも、神崎さんがとても不安げに呟くから、思わず飛び出していました」
修一は、裸足のまま玄関に下り、紀子のぐっしょり濡れた髪をタオルで乱暴に拭くのだった。
「痛い!痛いわ。もう少し優しく拭いて」
と、敬語も忘れて文句を言いながらも、紀子は少し心地良かった。
(子供のころ、父に髪を拭いてもらったっけ)
「よし、シャワーを浴びて、それだけでなくたっぷりのお湯に浸かるんだぞ」
「いいえ、そこまで甘えるわけには…」
(いかない)と、紀子が言いかけると、目の前にプリントアウトされたワープロ用紙の束があった。
「君に渡す予定の新作の原稿だ。言うとおりにしないと、これをシュレッダーにかけるぞ」
「わ、わかりました。言うとおりにしますから原稿だけは」
紀子は、安っぽいテレビドラマの女探偵になった気持ちで叫んでいた。
3
熱い湯が、紀子の均整の取れた肌を滑り落ちていく。遠慮はしたものの雨で冷え切った紀子の体にとって、シャワーと風呂は、天国の気分だ。
ゆっくりと湯に浸かる。ふと紀子の脳裏に、放浪の俳人と言われた種田山頭火の自由句が浮かんだ。
「寝たいだけ寝たからだ湯に浸かる」
「たしかこんな句だったはずだけど。いい気持ち。でも、私これで仕事してるって言えるのかしら」
彼女は少し落ち込んだが、振り切った。
「ま、いいか。役得よ役得」
修一の乱暴な優しさが紀子の胸に染み込む。
「お風呂いただきました。ありがとうございます。さっぱりしました」
紀子は、高級なシャネルのパジャマを着て書斎に現れた。
パジャマ姿を見せるのは、少し気おくれしたが、お風呂に入れてもらったお礼の意味を込めて思い切った。
修一はパジャマ姿の彼女に一瞬見とれたが、視線を逸らし、原稿を差し出した。
「ありがとうございます。いただきます、原稿」
紀子は丁寧に原稿を受け取った。受け取りながら修一の様子を盗み見る。
頬が紅潮しているのが見て取れた。
紀子はほくそ笑んだ。
修一の書斎の時計が、時を刻む。午後九時になっていた。
「それでは今夜はこれで休ませていただきます。お風呂とシャワーありがとうございました」
「ああ、いつもの就寝時間よりだいぶ早いが、騒がしい君のために精神的に疲れたから、私も休むとしよう。あ、そうそう。君が身に着けているパジャマだが、上下セットで三万するから気を付けて眠るように」
紀子は息を飲んだ。
(パジャマが三万円!うそでしょう)
しかし、紀子は修一の担当になって、数回の訪問で彼の皮肉な癖を理解していたので、言い返した。
「私、神崎さんを男としては信用していませんが、人間として信用しようとしているところなので、その信頼を裏切らないようにしてくださいね」
二人の視線が絡み合う。しばらく睨みあっていたが、紀子は二階に、修一は自分の寝室に向かった。
あたかも世界戦のボクサーが十二ラウンドを戦い抜いた直後のように、疲労を伴っていた。しかしながら、心地よい疲労であることは、二人ともに否定しようがなかった。
あれだけ音を立てて降っていた豪雨も上がり、雲間から月が出ていた。




