8話 巻き戻る時
ワン!
空気を切り裂くように犬が吠える。輝の体を押しのけて犬を見ると、公園横を学生が歩いていた。
学生は犬をちらりと見ると、こちらへは視線を向けず、すぐにお喋りに戻った。
「……っぶね……」
越野は輝に背を向け、唇を拭うと、助けを求めるように犬の元へ走り、背を撫でた。
追いかけてきて、後ろから抱きしめて欲しいという欲望と、これ以上踏み込んで欲しくないという弱い自分が拮抗する。
「……ごめん」
隣に並ぶと、輝は犬の頭を撫で、思う存分に可愛がる。
「別に……謝られても」
心臓の鼓動の早さがバレないように、小さく呟く。すると申し訳なさそうに輝はこちらを覗き込む。
「……こないだ一緒にいた人、会社の上司……?」
犬を撫でる手を止めず、こちらに視線を向けない。
「あ、ああ……同じ課の上司」
「そっか、普通に働いてんだよなぁ、一留は……」
何をそんな当たり前のことを、と越野は不思議に思い、寂し気な輝を見つめる。
「なんかさ、酔っぱらってたからだろうけど、すごい距離近い気がしてさ、ちょっと焦った」
輝は鼻を鳴らして笑うと、犬に乗りかかられ、尻もちをつく。
誰もいないはずのブランコのチェーンが軋む音が耳に残る。
「高校卒業してさ、もう何年もたつのに、俺の中のお前はさ、変わってなくて。ずっと、俺のことをまっすぐ見てるお前のままなんだ」
犬を抱きしめると、宥めるように背を撫でる。
あんなに素直じゃなかったのに、自分が輝のことをずっと見ていたことが知られていたなんて。
「あの人、一留の彼氏?ただの上司じゃないよね」
「う、ん……」
「ははっ、素直じゃないくせに嘘が付けないとこは変わんないんだな」
「るせっ」
「そっか、彼氏かぁ……上司ってことは年上かぁ、そっか……」
「ちがっ!」
越野は思わず輝の骨ばった手首を掴むと、反射的に手を離し、後ろへ仰け反った。
「違うの……?」
「ち、が……わ、ない」
こんな時、違う、と噓をついて輝に素直に思いを告げられていたら、きっと、高校の時にこの思いは成就していただろう。
「一留、いい顔してた。あの人と随分親しいんだなってすぐわかった。だからあの時、すぐ帰ったんだ」
「なん、で……」
「いや、昔好きだった男が別の男といちゃついてたらそりゃイライラすんだろ」
「何だよ、ただ妬いてただけかよ」
強がりで笑って見せる。
すると輝はまるで犬のように越野に覆いかぶさるように抱き着いてきた。
「……返事も寄こさなかったくせに」
公園入口にある垣根が、二人の姿を隠す。
電灯さえも見つけられない場所で、二人は鼓動を重ねる。
「俺のこと、もう忘れたのかと思った」
越野の背中を掴む手が強くなる。
忘れるわけがない、こんなに熱い思いを。忘れたくても、忘れられない。
「……忘れるわけ、ねぇだろ」
地に手をつき、手のひらで熱を感じ取る。
切れかけの電灯が、点滅し、頼りに集まる虫たちが戸惑い、広がりを見せる。
「じゃなんで返事よこさなかったの」
「別にいいだろ」
「誕生日だって、連絡してこなかった」
「お前だって」
「もう実家に帰ってたし。……ちゃんと連絡しただろ」
「実家帰る、ってだけだろ、いつ会えるとか、そういうのを連絡っていうんだよ」
「会いたかった、って言ってほしかったのかよ」
顔を近づけ、輝に迫られると、越野は目を逸らせず、戸惑う。
「……うん」
困惑のまま、素直に言葉を発する。
すると輝はほっとしたのか、身を少し起こし、表情を追ほころばせた。
「会いたかったよ、俺も。ずっと。なんで東京に会いに来てくれないんだろうって、思ってた」
その図々しい言葉に、越野も身を起こし、眉をしかめる。
「なんで俺が会いに行く前提なんだよ、お前が実家に帰ってきたときに連絡くれればよかっただけだろ」
「一留がこっちにいるかどうかなんてわかんないだろ。だって、いつも誕生日おめでとうしか連絡よこさないくせに」
「近況が知りたいなら誕生日とか関係なく連絡してこい!会いたいならお前が会いに来い!何でそんな被害者面なんだよ」
そう悪態をつくと、輝は驚いて目を丸くした。
言い過ぎたか……?そう目を逸らした瞬間だった。
「ははっ、それ一留もじゃん!めっちゃブーメラン」
輝も仰け反り、高らかに笑った。静寂な住宅街に響く、その声に、越野はさっと輝の口を手で閉じた。
「お前相変わらず声でけーよ」
「あー、ごめんごめん。声のでかさって変えられねーじゃん」
白いTシャツをサラッと着こなす身のこなしに、越野はよれよれの自分の胸元をじっと見た。
「一留も、変わんないね。その自信あるんだかないんだかわかんないとことか」
「……それ、褒めてねーだろ」
「褒めてるよ、ただの自信家も、自信ない奴も、それだけじゃつまんねーじゃん」
越野が唇を曲げ、不機嫌そうに俯くと、突然、首の後ろに手を回され、再び唇を食われる。
垣根の影に安心を覚えながら、ゆっくりと輝の背に手を伸ばし、温もりを享受する。
あの時より一回り大きくなった体躯は、越野のものとはまるで逆で、こみ上げる嫉妬を抑えながら、身を委ねた。
輝の前では、あの頃の自分でいたかった。




