5話 鏡の中の自分
「……んだ、どうした越野ぉ」
生温いアルコール臭が胸元から立ち上ると、越野は我に返った。
「……一留、だよな」
「うん、まぁ……」
不器用な返しに視線を逸らす。犬の息遣いだけが住宅街に漂う。
輝は蓬田を見ると、リードを握る手を強くし、後退りする。
「ごめん、邪魔したな。また連絡する」
リードを反対側に強く引き、背中を見せる清瀬に、越野は思わず一歩踏み出す。しかし蓬田の身が崩れ、抱き抱えるように支える間に、その背中は手を伸ばせる距離を離れていた。
尻尾を振り、嬉しそうに輝を見上げて横を歩く犬が、あの頃の自分に重なる。
「……んだ、あれ、お前の昔の男……?」
「別に、ただの知り合いっすよ」
そう言って、蓬田の体を荷物のように持つと、強引にアパートに連れ込んだ。
蓬田に先にシャワーを浴びるように指示すると「水くせぇな、お前も一緒に入ろうぜ」と誘われるが「うち、課長ん家みたいに広くないんすよ」と洗面所へ放り込んだ。
腕時計の秒針がゆっくり進む。何度もメッセージ欄をスワイプし、更新をかける。
「……来るわけねぇか」
そういえばこの辺りは輝の実家の近くだった。越野の実家から離れているという理由でアパートを決めたが、迂闊だった。もしかしたら、実家に帰ってきた輝と偶然会うかもしれない、なんていう甘い考えが頭の片隅にあったのかもしれない、と考えると項垂れる。
「なーに見てんの」
背後からするりと伸びてくる白い腕に驚き、思わずスマートフォンを足に落として潰れた叫び声を上げる。足を重ねて痛みを堪え、前屈みになると蓬田は隣に並び、身を委ねると越野の頭を撫でる。
「ごめんごめん。痛かったな」
嗅ぎ慣れたボディソープの匂いが、蒸気した肌から立ち上る。蓬田の胸に顔を押し付けられると、Tシャツの隙間から見える内部に息を呑み、一瞬、痛みを忘れた。蓬田の鎖骨に頭を擦り付けながら、少しずつ口付けると、後頭部を掴むように髪を掻き回される。
「さっきの男さ、昔の男だろ」
皮肉めいた声に、越野は舌をしまう。
「違うって言ってんじゃないっすか」
「お前わかりやすいからさ、誤魔化しきれてねぇよ」
「本当に、違います」
「いい加減素直になっちゃえよ、別に俺は気にしないからさ」
気にしないも何も、あなたは妻も子もいるくせに
「昔の男どころか、今の妻も子どももいる癖に」
皮肉を言うと越野は蓬田から離れ、そっぽを向く。
「……ただの、俺の片思いっすから」
立ち上がると、蓬田の反応を見ることなく浴室へ向かう。洗濯機にあたるように服を脱ぎ捨て、扉を足で閉めた。内部に潜む幼稚さを洗い流すようにシャワーを浴びる。
輝と最後に会話したのは、高校三年生の夏だった。
進路の三者面談で志望校を輝と同じ高校に決め、心踊っていた夏休み前、輝から突然聞かされた一言に、越野の夏は色を失った。
「俺、こないだ東京行ったらさ、スカウトされて。丁度いいから、受けようかと思って」
一体何を言われているのか理解出来なかった。
「スカウト……?何の」
「芸能事務所の。ほら、こないだ雑誌で見たモデルが所属してるとこだよ」
そう言ってスカウトの名刺を楽しそうに見せてきた。そこに書かれた住所は、田舎に住んでいる越野には馴染みのないもので
「こういうのってさ、詐欺とかじゃねぇの。ほら東京ってさ、やべー奴とかいっぱいいそうじゃん」
などと鼻で笑った。
「そんな芸能とかさ、馬鹿なやつがなるもんじゃん。お前頭いいんだからさ、そんなのに浮かれてる場合じゃなくねぇ。俺ら受験生だけど」
輝の顔は見れなかった。
自分がどれだけ最低なことを言っているのかも、そう言わなければ自分の心を守れなかったということもわかっていた。
「……輝、帰ってきたってことは、やっぱ駄目だったのかな」
そんな最低な感想が先に出る自分は、高校時代から何も変わっていないのだとわからされる。
輝に会いたい、と思う気持ちと、向かい合えば本当の醜い自分と向き合わなければならないという苦行の間で揺れる。
だから誕生日祝いだけ一方的に送り合った。返信はしない、本音が透けてしまうから。
輝を過去の男にしてしまえるほど、まだ大人になれない自分の余裕のなさにシャワーの水を噛み締める。強めに吐き出すと、乱暴にタオルで顔を拭き、ようやく息をついた。




