4話 懐かしい光
彼から届いたメッセージに何も反応しないまま、慌ただしい季節となった。
四月に新入社員を迎え、行内は緊張と忙しさに包まれていた。
「よかったな、融資課で」
「いや本当。この時期だけはまじで融資課でよかったと思いますよ」
新入社員はまず女の花園営業課に配属させられ、数か月窓口業務を叩きこまれる。普段から鋭い空気を漂わせている窓口は、声をかけるのも戸惑うような機嫌の大局様が何も言わずに倍速で仕事を処理しており、新入社員は何も出来ずにうろうろするだけだった。
「……俺もあんなんだったんすかね」
そうぼやくと、蓬田が缶コーヒーを差し出す。
「見たかったな、お前のひよこ時代」
小馬鹿にするようなセリフに、唇を尖らせる。
「俺があんな風にうろたえてたり、窓口であたふたしてても、どうせ課長は助けてくれないでしょう」
そう拗ねると「よくわかってんじゃん」と鼻で笑われる。この人は自分の利にならないことはしない。
「歓迎会の幹事お前やっとけよ。4月の最終週の金曜日。次長と支店長には予定聞いといたし、取締にも声かけてみる」
「そうやって人に雑用やらせて自分はいいとこばっか取ってくんすから」
「出世したけりゃ俺を見習え」
「……別に、俺は一生平行員でいいっすよ……」
出世欲なんてない。ただ何も起きない平凡な日々を過ごしていきたい。
きっと蓬田とはわかりあえないだろう。
「取締、って、お義父さんっすか」
三井精機の資金繰り表をぼんやり眺める。業績の回復見込みが薄い。このままでは融資が通らないかもしれない。
「流石にお義父さんは呼ばないと、次長と支店長に目の敵にされるでしょう。俺だって立場ってもんがあんのよ」
蓬田は越野から書類を取り上げると、営業用のカバンを机の上に置いた。
「悩んでんなら外回り行ってこい」
冷たく突き放す蓬田の背中を恨みがましく見つめると、越野はカバンを引っ提げ裏口から出て行った。
*****
「一万円お預かりしたので、四千のお返しです」
越野は慣れない愛想笑いをして顔が引きつりそうだった。
うっかり蓬田の采配で飲み会の幹事となってしまった越野は、仕事の疲れも相まって、冷や汗をかきながら受付をしていた。
「おーっす、お疲れ」
蓬田の声に顔を上げると、ほっとしたのもつかの間、後ろに見える重役の顔に顔が引きつる。
「取締連れてきたけど、席どこ」
越野は震える手を抑えながら腰を上げた。
「ここに次長と支店長がいらっしゃるので、こちらへ……」
畳の席の一番奥に通すと、その横に蓬田が付く。
受付へ戻ろうとすると、蓬田が越野の裾を掴み、その場へ留めようとする。
「娘が最近孫に会わせてくれないんだ、和仁君の方で上手くいってくれないか」
「えー、どうしたんでしょうね。お義母さんには会ってるって聞いてますよ」
「家内は君がいないのをいいことに、あいつの家に押しかけているだろう」
見知らぬ蓬田の家族の話に、越野は顔を背ける。
早く受付に戻りたい。そんな柄にもないことを考え、足の指を立てる。
「お義父さん、こいつが俺の部下で越野って言います」
「……お、お久しぶりです、越野です」
入社試験ぶりに話す取締に、越野はおずおずと言葉を発する。
「越野君、ああ、和仁君の隣の席にいる子だな。いつも和仁君が世話になってるね」
そう肩を叩かれると、胸が痛んだ。
心の中に湧いていた炭酸が、一気に気が抜けてしまったかのようにしおらしくなって俯く。
「お、受付が混んでるっぽいぞ、幹事くんそろそろ戻った方がいいんじゃない?」
肩に乗せられた蓬田の華奢な手を横目で見ると、この場が飲み会であることを悔やんだ。
受付の片付けをしていると、長々と続いていた管理職の挨拶が終わり、ちょうど飲み会が始まったところだった。
「越野さん、あとは私たちで片づけるんで、飲み会参加してください」
女性行員がそう言ってくれるものの、越野は苦笑いをして、片付けの手を止めなかった。
「いや、俺が会計も済ましとくから、みんな参加してきてください」
越野が声をかけると、女性行員たちは控えめに「えっ、じゃあ……」とよそよそしい態度で中へ入って行った。
行内での越野の評価などこんなものだ。おそらく地味でぱっとしない奴、くらいなものだろう。
飲み会の様子を入り口から覗くと、管理職の相手を終え、新入社員の島に入る蓬田の姿が見えた。
愛妻家、子煩悩、それでいて知的で出世頭。蓬田のことを推しと評する女性行員もいるという。
「なんであんな男がいいんだろうな……」
自分への問いかけのような呟きに、越野は寂しくなり、会計を済ませると店の外へ一人出た。
こんな時に煙草を吸えていたら、理由付けにもなるものの、越野の手には領収書しか握られていない。
道を行き交う人々は仕事帰りの団体が多く、みな幸せそうに見えた。鼻を掠める焼き魚の匂いが越野の腹を鳴らせた。
「なーに一人で黄昏てんの」
入口の壁にもたれていると、突然声をかけられ体をびくつかせる。
「課長こそ何してんすか」
「お前がいつまでたっても飲みに参加しないから、様子見に来たの」
相変わらず目ざとい男だ、こういうところが出世頭な理由なんだろうな。恨みがましく蓬田の顔を見つめると、突然蓬田が顔を近づけてくる。
「こんなとこで何するんすか」
「こんなとこでしねっつの。すんなら飲み会抜けてからだろ」
「どうせ二次会行くんでしょ」
「行かねー。管理職に新入社員に、俺ももう年だからさ、疲れるわけよ」
蓬田は越野の横に並ぶと、少し身を寄せる。
「俺はお前と二人でいる方が楽なの」
触れた体から漂うアルコール臭と、上がった体温に、越野はこっそり後ろ手で蓬田の指先を掴む。
「するっと抜けてくっから、終わったらお前の部屋行こうぜ」
「……なんで俺の部屋なんすか」
「俺の部屋だったら、酔いつぶれた取締がくるかもしれないだろ」
「それは、嫌っすけど……」
困惑する越野の表情に、蓬田は満足といった様子で口角を上げると、片手を上げてまた中へと入って行った。光が漏れる店内は、温かくもあり、しかし越野はなかなか中に戻る一歩が踏み出せずにいた。
「越野ー三軒目行くぞー」
出来上がった蓬田の肩を抱くと、越野は管理職やほかの行員に頭を下げ、二次会を抜けた。
「……断るの下手なんですから、期待させないでください」
「あ?何が、何を期待しちゃったの~」
目が蕩けている蓬田の顔を見て、越野は深いため息をつき、身を崩す蓬田の体を抱きかかえるように支えた。
「酒弱いくせに、取締にいい顔しようとしたんでしょ」
「そりゃまぁお義父さんですから。飲む機会なんて盆と正月くらいだからな」
蓬田は過剰に越野の胸に頭をこすりつけ、甘える。苦手なアルコールの臭いが立ち上るが、その臭いに酔ってしまおうかと思うほど、蓬田は狡猾だった。
辺りは人気のない住宅街で、もう少しで越野の家に着く。着いたら……そう考えると生唾を飲んだ。
「一留……?」
暗闇から聞こえた声に、越野は足を止めた。
今や親しか呼ばない下の名前を呼び、そいつは十年の時を軽く飛び越えた。
「輝……」
振り向くと、そこには背の高い男が大型犬を連れて立っていた。
「越野ぉ?」
蓬田を抱く腕を放り投げて、彼の元へ駆け寄りたい衝動を抑え、越野はじっと彼の目を見つめたまま、夜の気だるい静寂に身を委ねた。




