2話 近くて、遠い
目を覚ますと、青灰色の広い天井が眼前に広がっていた。スマートフォンで時刻を確認すると、4時53分と記載されていた。
蓬田の家から越野の家まで徒歩20分、帰ってシャワーを浴び、着替えをして朝食。なんとか出社まで間に合いそうだ。
そう結論が出ると、隣で眠る蓬田の背中を視界に入れつつも、そっとベッドを抜け、服を着た。
ベッドの横に置かれた幸せそうな家族写真が、越野の自尊心を毎度傷つけていた。
「越野、何だ、いつもより早いな。俺よりも早いなんて」
出勤時刻よりも1時間早く出社したものの、越野の顔色は優れなかった。蓬田に声をかけられると、深い隈を見せながら苦笑いする。
つい落ち着かずに出社してしまったが、もう少し家でゆっくりすればよかったとため息をつく。シャッターが閉まっている行内には、二人以外に鍵開け担当の新人しかおらず、昼間の賑わいが嘘のように落ち着いていた。
「仕事にまじめなのもいいが、たっまには有休もとれよ。代休だってたまってんだろ」
そう言って休暇申請用紙を目の前に出す。この支店の管理職でそんな気遣いをするのは蓬田くらいなものだ。
しかし寝不足のせいか、それとも蓬田の家族写真が脳裏をちらつくのか、つい苛立ちを覚え、用紙を突き返す。
「課長こそ、有休とって奥さまやお子さんに会いに行かれたらよろしいんじゃないですか」
我ながら子供じみた嫉妬心だと思い、すぐに顔を背ける。
「ははっ、そうだな。その前にかわいい部下の機嫌を直さないとな」
高らかに笑うと、蓬田は越野の手から手帳を奪い、胸ポケットにさしているボールペンを取り出すとサラサラと動かした。
25日(土)9:00俺の家集合
「……こんなん、金曜から泊まりゃいいじゃないっすか」
「ざーんねん。金曜は子供とテレビ電話するんでねぇ。それとも、子供にデレデレになってる俺が見たい?」
完全におちょくられている。たかが10歳しか離れていないというのに、蓬田は越野をまるで子供のように扱う。
「……そんな趣味ないんで。課長じゃないですし」
「俺そんなに悪趣味に見える?」
「見えます」
「何だか心外だなぁ」
こんなやり取りも、出社する人が増えるとともに消えていく。正直言うと、このいたくすぐったい駆け引きが心地よくもあった。
開店してからしばらくすると、ロビーに人があふれかえっている。越野の勤務する北中央支店は大通り沿いの繁華街にあり、役所も近くに点在しているため、市内のどの店舗より集客だけは多い。
越野はバックヤードで働いているとはいえ、時には融資の窓口に出たり、またはあふれかえった営業の窓口の応援に出たりしているが、基本的に口がうまくなく、不器用なため、勤務して5年たってもしどろもどろな対応しかできず、熟練のパートさんに影で笑われていた。
「いらっしゃいませ!えっ、あっ、ご入金ですか?でしたらあちらで番号札をお取りになり……」
ぎこちなく案内しようとすると、初老の男性は慣れたように越野に挨拶をした。
「おっ、越野さん!どうも」
「あっ、三井精機さん、どうもお世話になっております」
三井精機は地元で精密機器部品を製造している工場だ。去年から蓬田に代わり、越野の担当になった。
カウンター席に三井に座らせると、三井は明るい様子で愚痴を吐き出した。
「いやー、こないだ融資してもらって新しい機械を買ったんだけどさ、このご時世で受注先が急に何件か倒産しちゃってね、どうしたらいいもんかなと思って相談に来たんですよ」
まるで居酒屋で与太話をするような口調で話をしているが、その声はやや緊張と怒りと悲しみを含んでいた。越野はそれを察したのか、ただ心臓を縮めて、はい、はい、と相槌を打つしかなかった。
一通り話が終わると、三井は帰って行った。結局話はまとまらず、越野は何もできない自分に深いため息をついた。
「いちいち凹んでたらどうしようもないぞ」
丸めた書類で頭を叩かれると、目の前に缶コーヒーを差し出された。
「……何か、してあげられないんですかね」
「俺たちがやってんのは営業であって慈善事業じゃないの。割り切らないと、すり減るぞ」
まるで新人に教えるような当たり前のことを言われて、越野は深くため息をつく。何度銀行員に向いていないと思ったことか。
そんな越野の様子を察したのか、蓬田はこそっと耳打ちした、
「まぁ、そこがお前のいいとこだけどな」
こんな時、蓬田だったらどう乗り切るのだろう。仕事と割り切れるのだろうか。……きっと彼なら割り切れるのだろう。だからこそ彼はあの席に座っている。
隣にあるのに、越野は永遠にあの席には座れない、と深くため息をついた。




