1話 白昼の月、正午の太陽
三月五日、いつもならあいつに逸早く誕生日祝いのメッセージを送るところだが、今年は敢えて送らない。
来月四月七日は俺の誕生日だ。もし、これであいつからメッセージが届かなければ、そこであいつとの関係は終わり。
そう、俺はあいつを試している。
銀行員の仕事は窓口を閉めてから始まる。為替の送金に公共料金の入力、本日の出納額の計算など、銀行内部は殺気立っていた。
「戻りましたー」
やる気のない声で職員用入り口から行内に入ると、死んだような声で「お疲れ様です」と小声で挨拶をして回る。
席に座り、一息をついてペットボトルの蓋を開けると、同じ島から声が飛ぶ。
越野ー、営業課に回すものがあるなら回してから休めー」
「あっ、すいません……」
声をかけてきたのは、同じ融資課の蓬田課長だった。
かばんの中を漁ると、得意先から預かってきた伝票や書類を営業課に渡し、一息ついた。
「窓口は女の園だからなぁ、まぁ、ぶつからないに越したことはないから」
お茶目にウインクを飛ばす蓬田に呆れると、目の前に差し出された缶コーヒーに心がざわついた。
越野の勤務する北南銀行は県内トップを誇る地方銀行で、就職Uターンを考えている学生に人気の就職先だ。とは言っても、田舎でのまともな就職先など銀行か公務員くらいしかないため、越野はここに就職せざるを得なかった。
「越野、残業していくか」
「はい、ちょっとだけ。この書類を作っていきたいんで」
パソコンにしがみつきながら必死に書類を作る越野を見て、蓬田は嬉しそうにため息をつく。
「俺も残業していくけど、仕事ない奴は定時で帰れよー、仕事あるときにバンバン残業してもらうから遠慮すんなよ」
鶴の一言で、融資課のみならず、他の同僚も定時を過ぎると仕事を終えた者から次々と帰って行った。その様子をちらりと確認すると、越野は胸を熱くした。
「みーんな帰ったな、支店長も新人もいねぇし。次長なんか真っ先に帰ったぞ。まぁ管理職が帰らねぇとみんな帰んねぇんだけどな」
パソコンを閉じた越野のやり切った顔を見て、蓬田はにやっと笑った。
「……すんません、俺のせいで」
ちょっとだけと言いつつ、時刻は二十時を過ぎていた。
「本当だな、まぁ付き合ったのは俺も仕事たまってたからだし、気にするな」
「でも」
「気にすんなら、このあと居酒屋で一杯奢れよな」
越野のくせ毛を掻きまわすように頭を撫でる。繊細な見た目とは裏腹に豪快な男だ。そんなところがたまらなく眩しい。
役所周りの居酒屋にたどり着くと、公務員をかき分けながら奥の個室に座った。
「そういえば、越野はなんで北南にしたんだ?地元に戻るんなら公務員の道だってあっただろうに」
一杯目のビールに口をつけると、向かい側に座った蓬田が心を探ってくる。
「別に、銀行員なら給料も安定してるし、親にも文句言われないし、良いかなって思ったんすよ」
「越野は銀行員ってより、公務員向きな気がするんだよなぁ」
「そうですよ。どうせ俺は銀行員に向いてないっすよ。でも公務員も、試験受けたけどやっぱ向いてなかったっす……別に地元に愛着とかないですし」
「面接で嘘つけなさそうだもんなーお前」
「……悪かったっすね」
ビールを一気に飲み干すと、蓬田は腹を抱えて笑った。
「お前、本当可愛いなぁ」
まるで犬を可愛がるように頭を撫でる。こんなことでほだされてはいけない、とその手を拒絶するとまた生ビールを一杯頼む。
「そういえば、まだお前が新人の頃、飲み会で俺のビールに氷を入れて他の奴に怒られてったっけな」
「……そんな五年も前の話、掘り返さないでくださいよ」
「ははっ、俺もまだ課長じゃなかったからな。でももし次長や支店長にやってたら大目玉だったぞ」
「たかがそんなことで……」
「たかがそんなこと、でも出世が遠くなることもあるんだ。気を付けとけよー」
冗談めかしてアドバイスをくれる。そんな飄々とした所が憧れでもある。
黒縁の眼鏡に猫毛の黒髪、細く長い指。身長は越野と同じくらいだが、蓬田の方が線が細い。おそらく彼が入社した時、一番の出世頭になるとは誰も思わなかっただろう。
繊細な気配り、それとは裏腹に営業成績は支店長がパワハラをする隙を与えないほどによく、若干三十六歳だというのに、もうすでに将来の取締候補と目されている。
「何だ越野、もう酔いが回ったか?それとも、俺に見惚れてたか?」
豪快に笑う蓬田だが、仕事中はこんな表情は一切見せない。
彼の素の表情を見ているのは、自分だけだ。
そんな自負が越野の密やかな自身になっていた。
酔いつぶれた蓬田を部屋に送り届けると、ベッドに彼を寝かせ、バッグを置き、部屋を出ようとする。
「何だ、泊ってかねぇの」
普段のスマートな姿とは裏腹に、熱で融けた顔、汗ばみ皺になったワイシャツ、誘うような声が越野を引き留める。
「泊まるつもりじゃなかったんで、用意してませんし」
「服なら貸すのに」
「明日も仕事っすよ、課長のネクタイ締めてったらバレますって」
「ネクタイなんて誰も見てねぇよ。それにさ、別に、俺ん家泊まった、でいいじゃん。男同士なんだから、そう深く詮索する奴もいないだろ」
相変わらず、口も頭も回る人だ。越野はため息をついた。
「……あんた、酔っぱらってないでしょ」
「酔ったフリしてんの。……分かってたくせに」
そう言って越野にもたれかかるようにして抱きしめ、キスをせがむ。
玄関先に飾られたドライフラワーが視界に入り、歯軋りすると、蓬田の細い腰を強引に抱き寄せ、かじりつくように唇を貪った。
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