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第1話 入会届

全国喧嘩会 第1話


入会届


 三月。卒業式の朝、赤前竜巻は校門の横で煙草を吸っていた。

 教師は誰も注意しなかった。三年間でそういうことになっていた。

 校庭の真ん中では、山口鉄二が女子に囲まれていた。第二ボタンを求められ、第二だけでは足りず、第一から第五までむしられていた。

 「いや、破れるって」

 破れた。

 ボタンのなくなった学ランで、山口は校門まで戻ってきた。

 「終わったなあ」

 赤前は煙を吐いた。

 「高校、どこ受けんの」と山口が訊いた。

 「全国」

 高校名ではなかった。県名ですらなかった。

 山口は笑ったが、冗談でないことは知っていた。こいつの言う全国は、進路ではない。進行方向だ。


   *


 四月。二人は同じ工業高校に入学した。

 県内では名の知れた学校である。創立以来、進学実績より検挙歴の方が多く話題になってきた。制服の着方は自由に近く、ヤンキーの密度は県内有数だった。

 別格は三年だった。中学時代に名を売った連中がそのまま持ち上がり、金のネックレスとパンチパーマと改造学ランが、廊下を歩くだけで一年は壁際に寄った。

 入学式から三日目の昼、二人は三年に呼び出された。

 「明日の放課後、体育館裏来い」

 山口は歓迎会だと思うことにした。呼びに来た三年は、笑っていなかった。


 翌日の体育館裏には、十五人いた。

 こちらは二人だった。

 「多くね?」と山口が数えた。

 赤前は答えるかわりに前へ出た。

 ——その後の経過を記述することは、できない。隣で見ていた山口にもできなかった。確かなのは、およそ一分後、十五人の全員が地面にいたことだけである。

 赤前は、一番大きいのを見下ろした。

 「全国行く。俺の下入れ」

 返事はなかった。やがて一人が頷き、頷きは順に伝染した。

 「決まりだな」と山口が笑った。

 その日は、それで終わった。

 そして、何も始まらなかった。


   *


 翌週から、三年たちが変わり始めた。

 まず、金のネックレスが消えた。

 次の週、パンチパーマだった男が坊主で登校してきた。

 腰パンの位置が、見ていて分からない速度で、しかし確実に上がっていった。

 誰も「辞める」とは言わなかった。

 「別にビビったとかじゃねえし」と一人が言った。

 「就職あるし」と別の一人が言った。

 「もう三年だしな」

 理由は全員違ったが、結果は同じだった。三年たちは、喧嘩もなく、宣言もなく、少しずつヤンキーを廃業していった。二年はそれを見て静かになった。誰一人殴られていないのに、空気だけで学校が変わっていった。

 山口は舌打ちした。

 「なんなんだよ、こいつら」

 赤前は何も言わなかった。

 あの日、十五人は確かに頷いた。それは事実である。だが頷きは形に残らない。誰が頷いたのか、その頷きが今も有効なのか、確かめる方法がどこにもない。

 ——もっとも、この時の二人がそんな整理をしたわけではない。あったのは、勝ったはずなのに手元に何もない、という感覚だけだった。


   *


 五月の連休明け、隣の市から話が来た。

 インター下の駐車場で、五対五。相手はK駅裏を仕切る二年、矢野昌平のグループだという。

 人数が、足りなかった。

 三年は来ない。一人だけ電話が繋がったが、「俺もう、そういうのいいわ」で切れた。二年は目を合わせない。当日の放課後になっても、頭数は赤前と山口の二人だった。

 「どうすんだよ」と山口が言った。

 赤前は、校庭を見た。


 相沢学は、帰宅部である。

 その日は友人二人と、購買のパンの当たり外れについて話しながら校庭を横切っていた。人生で喧嘩をしたことが一度もなく、する予定もなかった。

 ふと、視線を感じた。

 校舎の壁にもたれた男と、目が合った。

 入学式の週に全校生徒が顔を覚えさせられた、あの一年だった。十五人を一分で地面に並べた男。

 目を逸らすのが、遅れた。

 「おい」

 相沢は止まった。友人二人も止まった。嫌な予感しかしなかった。

 「今日暇か」

 「……え?」

 「来い」

 「どこにですか」

 「喧嘩」

 単語の意味は分かった。文脈が分からなかった。

 「いや、俺そういうのじゃ……」

 「なんもしなくていい」

 赤前は言った。

 「後ろいろ」

 それだけだった。

 赤前としては、最大限の配慮をしたつもりである。何もしなくていい、と保証までつけた。だが相沢の側から見れば、喧嘩の現場に連行される時点で、保証に意味がなかった。

 友人二人も、なんとなく連れて行かれた。指名されたのは相沢だけだったが、「お前らは帰っていい」と言われる機会が、最後まで訪れなかったからである。


   *


 夜九時。インター下の駐車場。

 水銀灯の下に、矢野側は五人で立っていた。全員、装備に迷いのないヤンキーだった。

 「五対五って話だろうが」と矢野が言った。「足りてねえぞ」

 山口が親指で後ろを指した。ガードレールの際に、メガネが三人、固まって立っていた。

 「いるだろ」

 「……あれもか」

 「あれもだ」

 相沢は小声で言った。

 「俺ら、数に入ってるんですか」

 「入ってる」

 「喧嘩するんですか」

 「場合による」

 「場合によるって何ですか」

 思ったより強い声が出た。状況が異常すぎて、敬語の角が取れかけていた。

 矢野が笑った。「舐めてんのか」

 「先に決める」

 赤前が言った。矢野の目が、メガネから赤前に戻った。

 「負けた方は、勝った方の下に入る」

 付け足しのような一言だったが、これは反省だった。頷きだけで済ませた体育館裏の十五人は、ひと月で消えた。今度は、始める前に決める。

 矢野は数秒黙り、それから笑い直した。

 「いいぜ。なら、タイマンだ。俺が勝ったら、てめえらが下な」

 赤前は頷いた。

 相沢は、その「てめえら」に自分が含まれているのかを考えはじめ、途中でやめた。

 ——その後の経過は、やはり記述できない。相沢は「瞬きをしただけ」と主張している。瞬きの前、矢野は立っていた。瞬きの後、矢野は膝をついて吐いていた。

 誰も動かなかった。矢野側の残り四人は、自分の足が一歩も出ないことを順番に確認していた。

 「どうする」と赤前が言った。

 長い沈黙のあと、矢野は言った。

 「……下に入る」


   *


 全員で国道沿いのコンビニまで移動した。

 なぜ移動したのかは、誰にも分からない。喧嘩のあとはコンビニ前に座る、という以外の文化を、その場の誰も持っていなかったのである。

 矢野たちは縁石に座り込んだ。山口は機嫌が良かった。相沢は帰りたかった。帰りたかったが、「帰っていい」と言われていないので、立っていた。

 勝った。相手は下に入ると言った。

 いつも通りだった。

 そして、いつも通りの先に何があるかを、赤前と山口は先月見たばかりだった。頷きは消える。ネックレスは外される。坊主が増える。

 矢野が立ち上がった。

 「じゃ、帰るぞ」

 「待て」

 矢野が振り返った。

 「……何を……すか」

 敗者の語尾は、敬語の方角へ曲がり始めていた。本人も、着地点を探しながら喋っていた。

 赤前は少し黙った。

 「ちょっと待て」

 何を待つのかは言わなかった。言えなかったのである。


 三十分が過ぎた。

 矢野たちは座り直し、二缶目のジュースに移行していた。相沢は、帰るタイミングを完全に喪失して、同じ場所に立っていた。

 きっかけは、相沢の独り言だった。現状を頭の中で整理しようとして失敗し、その残骸が口から漏れた。

 「……部活なら、入部届書いて終わりなのに」

 「あ?」と山口が振り向いた。

 「いや、すみません。なんでもないです」

 「今なんつった」

 「だから」

 引っ込めるには遅かった。相沢は言い切った。

 「部活は、入る時に紙を書くじゃないですか。名前書いて、出して、それで入ったことになるじゃないですか。そういうのが何もないのに、下に入るとか入らないとか、分かんなくないですか」

 言ってから、自分が誰に向かって何の説教をしているのかに気づいて、黙った。

 山口が赤前を見た。

 赤前は、座っている矢野を見ていた。

 「書かせるか」


 そこからは早かった。

 コンビニでコピー用紙とボールペンが買われた。値段にして二百円台の、組織の基礎である。

 駐車場のフードの上で、山口が枠を引いた。三本目の線が二本目と交わった時点で、ペンは相沢に渡された。

 「おめえの方がきれいに書けんだろ。メガネだし」

 メガネと筆跡に因果はない。相沢は反論を検討し、やめた。

 項目は、揉めながら増えた。

 名前。これは誰も異論がなかった。

 「学校もいるだろ、あと学年」

 「なんで」

 「どこの誰か分かんねえだろ」

 「電話番号」

 「住所いるな」

 「なんで」

 「家行く時困る」

 「たしかに」

 「あと『上の者』って欄いるな」と山口が言った。「誰の下に入ったか、分かんなくなる」

 それも枠に加わった。

 書きかけの紙を眺めて、相沢がもう一つ訊いた。

 「これ、何に入る届なんですか。団体名とか、ないんですか」

 団体名は、なかった。考えたことすらなかった。

 「全国行くんだろ」と山口が言った。「全国……喧嘩会、とか」

 誰も代案を出さなかった。赤前は否定しなかった。

 のちに千人を数える組織の名称は、コンビニ前で、所要時間およそ四秒で決まった。

 紙の下半分が、まだ空いていた。

 それを眺めて、相沢が言った。

 「これ、入ったあとのことが何も書いてないですけど。入部届なら、その……活動っていうか、何が決まりなのか書いておかないと、揉めませんか」

 「あー」と山口が唸った。長い「あー」だった。

 「……とりあえず、呼ばれたら絶対来る。これだな」

 「『上の者に呼ばれたら来る』、でいいですか」

 「いい。あと、喧嘩の時は絶対来る」

 「それ、今のと一緒じゃないですか」

 「一緒じゃねえ」

 山口は真顔だった。

 「喧嘩はマジの絶対なんだよ」

 「じゃあ、さっきの『呼ばれたら来る』は消しますね。喧嘩も、呼ばれて行くわけですし」

 「消すな。両方いる」

 「どっちも絶対なんですよね?」

 「喧嘩の方が上の絶対なんだよ」

 絶対に、上下があった。相沢はペンを持ったまま数秒待ったが、それ以上の説明は永遠に来ないようだった。分けて書くことにした。

 一、上の者に呼ばれたら来る。

 一、喧嘩の時は必ず来る。

 マジの絶対は、「必ず」と訳された。相沢にできる、最大限の翻訳だった。

 「あと、やる前に名乗る。全国喧嘩会って」と山口が続けた。

 「なんでですか」

 「負けた方がよ、誰に負けたか分かんねえと、どこの下に入んのかも分かんねえだろ」

 筋は通っていた。通ってしまっている、と相沢は思った。

 一、喧嘩の前に全国喧嘩会と名乗る。

 最後に、赤前が一つだけ足した。

 「逃げない」

 主語も、罰則も、説明もなかった。相沢は訊き返しかけて、やめて、そのまま書いた。

 一、逃げない。

 規則は四つになった。のちに七つまで増えるのだが、それは別の夜の話である。


 矢野が呼ばれた。

 「書け」

 説明はなかった。矢野も、訊き返さなかった。訊き返せる空気ではなかった。

 【全国喧嘩会 入会届】

 枠は歪み、線は曲がっていた。だが、書く方も書かせる方も、妙に真面目だった。

 矢野は名前を書いた。学校を書き、学年の欄に「二年」と書き、電話番号を書いた。そして上の者の欄に、赤前竜巻、と書いた。

 同じ枠を、相沢はあと四枚作らされた。

 残りの四人も順に書いた。四人の上の者の欄にも、「赤前竜巻」と書かせた。矢野のグループだが、勝ったのは赤前である。誰も、何の疑問も持たなかった。

 書き終えた矢野は、紙を渡しながら訊いた。

 「これ、俺が誰かに勝ったら、どうすんすか」

 山口は少し考えた。

 「同じの書かせりゃいいだろ」

 矢野は頷いた。妙に深く頷いた。


   *


 解散は深夜になった。

 矢野たちはバイクで消えた。相沢の友人二人は「もう帰っていいらしい」という情報を互いに確認し合って帰り、相沢も帰った。誰にも礼を言われなかった。

 コンビニの灯りの下に、赤前と山口と、五枚の紙が残った。

 赤前は、一番上の一枚を長いこと見ていた。

 倒した三年は消えた。十五人の頷きも消えた。だがこの紙は、明日になっても「矢野昌平」のままだ。

 紙には、重さがない。五枚重ねても、まだ軽い。

 その重さのない紙に、赤前は初めて、全国制覇の重みを感じていた。

 一枚目だった。


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