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第0話 五十音

全国喧嘩会 プロローグ(0話) 


五十音


 エレベーターは階に止まるたび、不愉快に縦へ揺れた。

 五階で降りる。廊下には埃と枯葉と、丸まった毛髪が落ちていた。枯葉がどうやって五階まで上がってきたのかは分からない。掃除という概念が、このビルにはまだ到達していないらしい。

 左右に二部屋ずつ。どの部屋にも入居者の気配はなく、あるのは突き当たりの一室だけだ。中から複数の人間の気配がする。

 ノックをした。返事はない。

 返事はないが、入れということなのだろう。この世界では、だいたいそうだ。

 ドアノブに手をかけて、自分が緊張していることに気づいた。最後に緊張したのはいつだったか。中三の秋、二中の連中と一対五でやり合った時は、さすがに身震いした。始まってからの記憶はほとんどない。気づいたら五人とも転がっていて、俺は県の伝説になっていた。

 その俺が、ドアひとつで汗をかいている。

 開けた。


 視線が刺さった。

 誰も顔を動かさない。視線だけが動いて、俺に集まる。

 こいつか。知らねえ。汗かいてんぞ。

 短い言葉がいくつか飛んだ。他にも何か言われた気がするが、覚えていない。分かるのは、品定めをされているということだけだ。

 金髪。坊主。眉のない男。改造学ランの上から特攻服を羽織った男もいる。全員が二つ名を持ち、全員が県外まで名の知れた、最強ヤンキー集団の幹部たち。

 関東中のヤンキーに喧嘩を売り、負けた相手に書類を書かせて配下にする。そういう集団がいると聞いた時は、悪い冗談だと思った。その悪い冗談の総本部が、ここだ。

 全国喧嘩会。

 俺は今日から、この会の幹部になる。


 一番奥に、最強の男がいた。

 赤前竜巻。わずか一年で千人を超えるヤンキーを配下に置いた、生ける伝説。その名は県境どころか関東を飛び越えて、全国に轟いている。

 目が合った。来い、ということだろう。何も言われていないのに伝わる。恐怖は言語より速い。

 歩いた。部屋の奥に着くまでが、ドアを開けるまでの時間より長く感じた。実際には同じくらいだったと思う。

 赤前は俺を見て、それから足元へ視線を落とした。

 コピー用紙の段ボールが二箱、置いてあった。蓋の隙間から紙の束が覗いている。隅まで、みっちりと詰まっていた。

 「その書類、五十音で並べろ。一覧を作れ。五十枚ごとに束にしろ。今週で終わらせろ」

 以上だった。


 五十音。

 ——五十人、の聞き間違いじゃないのか。五十人並べてシメろ。それなら分かる。それなら、俺の知っている世界の言葉だ。

 俺は赤前の第一声を、頭の中でもう一度再生した。何度やっても、五十音だった。

 紙を、期限までに、綺麗にまとめて出す。これを俺は知っている。

 宿題だ。

 最強の男に呼ばれて、俺は宿題を出されていた。

 声には出さなかった。

 箱の中身は、全部「入会届」だった。

 何度も見た紙だ。なにしろ俺も書いたし、書かせもした。紙には驚かない。

 量に驚いた。

 書かれた紙は、新品の紙より厚くなる。折られ、濡れ、握り締められた千枚が、蓋を押し上げてみっちりと詰まっている。中腰になって、束の縁を親指でめくってみた。一枚一人。一枚一人だ。めくってもめくっても、終わらない。

 俺が知っている「多い」と、桁が違った。


   *


 ——三ヶ月前。

 知らない番号から電話がかかってきた。

 「松井商の田嶋だな。今からテメーをぶっ殺す。今日の夜か明日の夜か選べ。場所はインター下の駐車場。来なかったら、K駅前のヤンキー全員に、田嶋は逃げたって言って回る。ぶっ殺すからな。やんのか、やんねえのか」

 名乗らない。要求が一方的で、選択肢が実質ひとつしかない。知らない男といきなり喧嘩をする理由は何ひとつなかったが、結局、怒りが全部の疑問を置き去りにした。

 「今日だ。九時に行く。ぶっ殺してやる」

 俺は高校を中心とした十人のグループの頭だった。全員連れて、時間どおりに行った。

 駐車場で、向こうは名乗った。全国喧嘩会、と。例の、いかれた集団。負けた方が勝った方の傘下に入る、それがここの流儀だという。先方の提案でタイマンになった。

 三十秒もたなかった。

 記憶はない。目が覚めると、コンビニの前にいた。

 「書け」

 紙を渡された。上に「全国喧嘩会 入会届」と書いてある。

 「……なんすかこれ」

 打ちのめされた直後の俺の語気は、自分でも分かるくらい弱かった。

 「いいから書け。これを書いたらお前らは全国喧嘩会の傘下だ。やる前に言っただろう」

 言われていたかもしれない。覚えていない。

 仲間は誰も戦っていなかった。負けた俺に失望している風でもない。「田嶋さん、大人しく書くしかないかもっす」と一年のボウズが諭してきた。お前が諭すな。

 渡されたのは、街頭アンケートで使うような、紙をクリップで挟んで空中で書ける板だった。クリップにはボールペンが挟まっている。

 準備が良すぎる。この準備の良さに、俺は喧嘩そのものよりも薄ら寒いものを感じた。

 「おいコラ、丁寧な字で書けよコラ。ぶっ殺すぞ」

 俺を倒した男が言った。暴力の語彙で、事務の品質を要求されている。

 「読めねえと、困るから」

 誰が困るのかは、言わなかった。

 項目は二十近くあった。名前。住所。電話番号。学校。学年。学校住所——学校住所? 誰かが二つ折りの携帯を開いて、学校の住所を調べ始めた。電波が一本しか立たず、アンテナを天に向けて振っている。

 字を走らせる十人のヤンキーと、それを取り囲む同数のヤンキー。深夜のコンビニ前としては、かなり異様な光景だったと思う。

 「この『上の者』ってなんすか」

 仲間の一人が訊いた。視線が俺に集まる。

 「てめえがこのグループのトップだな」

 「おう」

 「名前は」

 「田嶋慎吾だ」

 「よし。お前ら全員、上の者の欄に『田嶋慎吾』って書け。——お前は『矢野昌平』と書け。俺の名前だ」

 それが、矢野との出会いだった。

 書き終えて渡すと、「お疲れ。帰っていいよ」の一言で、その晩は終わった。あっけなかった。


   *


 整理すると、こういうことらしい。

 俺は傘下入りを賭けてタイマンをし、負け、入会届を書いた。俺のグループはそのまま残り、グループごと矢野の下に付いた。矢野に呼ばれたら行く。喧嘩の応援に呼ばれたら、何を差し置いても駆けつける。逃げたら制裁。入会届の下の方に、確かにそんなようなことが書いてあった気がする。

 悪い話ばかりでもなかった。

 俺が誰かを倒して入会届を書かせれば、そいつはそっくり俺の傘下になる。それなりの数になれば面子も立つ。「全国喧嘩会」の看板も、考えてみれば悪くない。

 矢野は用意のいい男で、コピーした入会届を五枚、置いていった。

 その日から、駅前で見かけたヤンキーに片っ端から喧嘩を売った。一週間で十枚集まった。負けたら書く、書いたら傘下、という構図が妙に浸透していて、揉めることはほとんどなかった。看板の力だ。書かせる瞬間だけは毎回少し恥ずかしかったが、勝ったのは俺だ。凄めば終わる。

 十枚たまったところで矢野に連絡した。五キロ先のコンビニで落ち合うことになった。

 矢野は前と打って変わって、笑って近づいてきた。

 「一週間で十枚は新記録だ。すげえじゃねえか」

 上機嫌のまま、矢野は一枚の紙を出した。

 「じゃあこれ。書いてある通りに埋めろ。あいうえお順で、この目次と同じ順に並べるんだ。間違えると殺されるから気をつけろ。字はなるべく綺麗に書け」

 目次、と矢野が呼んでいる紙は、小学校で使った方眼紙に似ていた。ただし横長にマスが区切られ、上に「名前」「学校」「学年」と五つばかり項目が並んでいる。入会届の項目の一部だ。

 誰に殺されるのかは、訊かなかった。

 その夜、十枚分を書き写した。後半は手が痛くなった。喧嘩で手を痛めたことは何度もあるが、字で痛めたのは初めてだった。


 それから三ヶ月、同じことを続けた。

 倒す。書かせる。書き写す。矢野に渡す。

 配下は五十を超えた。

 そして三日前、また知らない番号から電話が来た。

 「全国喧嘩会の山口だ。よくやってるな。お前、明日から幹部な。夕方、本部に来い」

 山口。ナンバーツーだ。会ったことはないが、凶暴さを示す噂の数なら赤前に引けを取らない。

 幹部。

 電話を切ってから、その響きを何度か転がした。直属の部隊を持つのか。縄張りを割られるのか。少なくとも、伝説たちの輪に入るのだ。俺は中三で県の伝説になった男だ。ようやく、いるべき場所に呼ばれたと思った。


 ——それが、これだ。

 段ボール二箱。千人分の入会届。五十音順。今週中。

 一週間で十枚が新記録の世界から来た俺に、千枚。


   *


 部屋の隅に机をあてがわれた。座ると、横から湯呑みが出てきた。湯呑みの下には茶托があった。

 出したのは、メガネをかけた男だった。改造もしていない学生服を着て、「どうぞ」と敬語で言った。

 誰なのかは分からない。誰も説明しない。最強ヤンキー集団の総本部で、茶托つきの茶が出てきた。俺は自分が何の組織に入ったのか、少し分からなくなった。


 作業は、最初の十分で行き詰まった。

 まず、読めない。

 丁寧に書け、とあれほど凄まれた文化は、どうやら会の全体には浸透していなかった。署名の中には文字というより模様に近いものがあり、一枚に至っては「卍」しか判読できなかった。卍は五十音のどこに入るのか。

 次に、読みが分からない。

 「東海林」を俺は「と」の山に置いた。後ろから覗いた幹部の一人が「しょうじだろ」と言った。どっちでもいいだろうと思ったが、口には出さなかった。五十音順とは、読みが分からなければ並べられない仕組みなのだ。並べ始めて初めて知った。

 雨で滲んで学校名が消えているもの。電話番号が一桁足りないもの。住所の欄に「駅の裏」とだけ書いてあるもの。

 一枚なら、ただの紙だ。千枚集まると、災害になる。


 二日目の昼、ビルの下からマフラー音がした。すぐに、階段を駆け上がる足音が続いた。

 学ランの男が入ってきて、輪ゴムで留めた紙の束を、入口に近い幹部へ差し出した。

 「北のぶんす。先週の」

 幹部は受け取り、中身も見ずに、俺の机の横の箱へ放り込んだ。男は一礼して帰っていった。エンジン音が遠ざかる。誰も何も言わなかった。

 束は、ざっと二十枚あった。

 俺は手を止めて、しばらくその箱を見ていた。

 並べている間にも、増えるのだ。関東のどこかで毎晩誰かが負けて、紙を書いている。それが束になり、輪ゴムで留められ、バイクで、ここへ届く。

 賽の河原、という言葉をこの時の俺は知らない。だが概念だけは、正確に理解していた。


 異変に気づいたのは、その夜だった。

 同じ名前が、二枚ある。

 片桐豪。同じ高校。同じ電話番号。筆跡も同じに見える。同姓同名ではない。同一人物だ。

 違うのは一箇所だけだった。上の者の欄。一枚は「大久保剛」。もう一枚は「田嶋慎吾」。

 俺だ。

 思い出した。先月、駅裏で倒した、体のでかい男だ。俺はあの晩、すでに会の傘下だった男に喧嘩を売り、勝ち、入会届を書かせていた。

 つまり俺は、身内を殴っていた。

 知らなかったのだ。誰が傘下で誰がそうでないか、見ただけでは分からない。額に書いてあるわけではない。確かめる方法があるとすれば——たぶん、いま俺が並べている、この紙の束だけだ。

 黙っているという選択肢も頭をよぎったが、規則のどれかに引っかかって制裁される未来しか見えなかったので、俺は二枚を持って赤前のところへ行った。

 「同じやつが、二枚あります」

 赤前は二枚を受け取り、長いこと見ていた。

 「どっちが先だ」

 「分かりません。日付がないんで」

 沈黙があった。部屋の幹部たちが、なんとなく集まってくる。

 「先に勝った方のもんだろ」と誰かが言った。

 「だから、どっちが先か分かんねえんだって」と山口が言った。

 全員で二枚の紙を見た。紙は何も言わなかった。当然だ。書いていないことを、紙は答えない。

 赤前が顔を上げた。

 「次から日付を書かせろ」

 それで終わりだった。誰も異論を挟まなかった。

 喧嘩の強さと関係のない決定をこの男が下すのを、俺は初めて見た。


 ついでのように、山口が二枚目の紙を指でつついた。

 「てかこいつ、前も二年じゃなかったか」

 「は?」

 「片桐。矢野の目次で見た。去年の夏だ。二年だった」

 一枚目の学年欄は「二年」。それから四月を挟んで書かれたはずの二枚目も「二年」。

 「進級してねえな」

 「留年か」

 「留年だな」

 幹部の一人が、片桐を知っていた。「あいつ留年してるんで、今年も二年っす。来年も多分二年っす」

 「永久機関じゃねえか」と山口が言った。誰も笑わなかった。山口も笑っていなかった。事実の確認だった。

 「まあ、二年なら二年でいいだろ」と誰かが言って、話はそれで終わった。幹部たちは散っていき、片桐豪は「二年」のまま、か行の束に戻された。

 俺だけが、少し引っかかっていた。

 この「二年」は、いつまで本当なんだ。四月が来たら? いや、こいつは留年か。じゃあ来年も「二年」で——分からなくなったので、考えるのをやめた。

 「生年月日なら、変わりませんけど」

 メガネが言った。茶を出した男だ。

 全員がメガネを見た。メガネは「あ、すみません」と言って引っ込んだ。

 誰も意味を訊かなかった。俺は一瞬、意味が分かりそうな気がしたが、五十音の途中だったのでやめた。

 赤前は何も言わなかった。ただ、メガネの方を一度だけ見た。


   *


 五日目に、終わった。

 正確に言えば、俺が来た日にあったぶんは終わった。横の箱には、この五日で届いた束が、輪ゴムのまま積まれている。

 五十枚ごとに束ね、目次を付け、箱に戻した。あ行から順に、千人の名前が並んでいる。指でたどれば、誰が会にいて、誰の下にいるのか、誰にでも分かる。

 赤前が箱の前に立ち、一番上の束を取って、めくった。

 長かった。何も言わず、ただめくっていた。喧嘩の前でもこんな顔はしないだろうという顔で、紙を見ていた。

 「次は誰が幹部に上がるんすか」と若いのが訊いた。

 山口が顎で俺の机を——正確には、空になった机と、整理し終えた二つの箱と、輪ゴムの束が積まれた三つ目の箱を——指した。

 「こういうことができるやつ」

 俺は黙っていた。中三で県の伝説になった男の、幹部としての最初の仕事は、五十音だった。


 その夜も、関東のどこかで誰かが負け、ボールペンを握らされている。

 喧嘩は終われば消える。

 紙は残る。

 そして、増える。


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