第9話 八海神(はっかいしん)と要(かなめ)
境内の静けさに、潮騒だけが遠く響く。蒼玄斎は一息つき、話を続けた。
「さて。妖どもの怨念が再び動き出した背景には、もっと大きな理がある。この瀬戸内を護る“八海神”の均衡が崩れかけておるようなのじゃ。」
蓮が目を瞬かせる。
「八……海神?」
「そうじゃ。古くから瀬戸内には、各地を護る八海神が鎮座しておる。瀬戸内をぐるりと八つの社の神々が取り囲み、それぞれが地の力と結び、海を調和させてきた。因島もその一つ。人が航路を拓けたのも、神の加護があったればこそよ。平和が続いておったので、お主らは知る必要もなかったと思っておったが…。」
義久が口を挟む。
「では、その八海神の均衡が崩れたら、瀬戸内は妖どもの…。」
「うむ。かつては結界と祈りが八海神を繋ぎ止めておった。だが、永き平和によって恐れるものが減り、信仰は廃れ、力が散り散りになった。“大いなる存在”とやらが妖を使って均衡を崩そうとしておるのか、八海神を取り込もうとしておるのか、今はわからぬ。しかし、大きな何かが動き始めているのは間違いない。」
蒼玄斎の声は、まるで海鳴りのように響いた。颯月が唇を噛みしめ、確認する。
「じゃあ、私たちが為すべきことは、何が起ころうとしているかを確かめ、八海神の力で平和を保つということ?」
「その通りじゃ。」
蓮が思いつめたようにつぶやいた。
「そんな、大きなことを俺たちが?できるわけない!」
「できるか否かではない。せねばならんのだ。そして、それは我らだけで為すものではない。」
蒼蛇が小さく「キュン」と鳴き、蒼玄斎の言葉を肯定するかのように尾を揺らした。
「因島の“潮流”を護る神。厳島の“月影”を護る神。讃岐の“暴風”を鎮める神…。八つの神は、太古の昔、それぞれの地で信仰の強かった一族に力を与えたと伝えられておる。」
蒼蛇が灯籠の影でとぐろを巻く。蒼玄斎は静かに眼を閉じ、語りを続けた。
「その一族は代々血が受け継がれ、いつからか当主は“要”と呼ばれるようになった。お前の他に、今も7人の要がおる。要らは、神々がすまう各地の要衝で、神器と神獣を授かり、長きにわたり己が地を護ってきたのじゃ。彼らはただ戦うだけではない。土地そのものを結界で守り、妖どもの侵攻を封じてきたのだ。蓮、お主のいとこ「結城綾」も要の一人。わしらの間では、厳島で「月の巫女」と呼ばれておる。」
蓮は息を呑む。
「なっ。ちょっと待って。そんなの知らなっ…もうかれこれ4年ぐらい会ってないけど、昔は、すごく優しかったイメージしか…。えっ、じゃあ、親父は?厳島守らなくていいのか?村上に来てる場合じゃないんじゃ…。」
「結城は、女系の一族でな。男系は、結界の力はそこそこじゃが、武が伴わんのじゃ。弦也の姉が継ぎ、訳あってその娘が継いだというわけじゃ。」
蓮が小さく息を呑む。
「「結界」と「武」。俺に、できるのか。結界もまともに張れない俺が、兄さんでも果たせなかった役目を…。」
蒼蛇が小さく身を震わせ、水の粒を撒き散らす。それはまるで「その時を待て」と囁くようであった。
「厳島では月光が穢れを祓い、
吉備津の炎が厄いを焼き払う。
伊予の大地は命脈を巡らせ、
赤間の影は亡者を眠らせる。
太宰府の雷は邪を穿ち、
讃岐の風はすべてを切り裂く。
淡路の影は――誰も知らぬ“海の裂け目”を閉じたといわれておる。
そして因島の潮流が瀬戸内の理を鎮める、その重責を負っているのが村上じゃ。
八つの力が円環を成し、瀬戸内は“結界の海”となっておる。」
義久が口を開いた。
「俺たちの戦いは、ただ妖怪を斬るためじゃなく、結界を守るため、瀬戸内の平穏を守るためでもあるんですね。」
「その通り。結界なくして、平穏は保てぬ。」
蒼玄斎の眼光が鋭く光る。
「時折現れる妖はただ現れておるのではない。結界の綻びに引き寄せられ、そこから漏れ出しておるようなのじゃ。原因を突き止め、手遅れになる前に結界を繋ぎ直し、再び均衡を保たねばならん。大いなる存在とやらは、どこかで均衡を崩そうと、すでに動き出しておるやもしれん。」
颯月が静かに息を呑む。
「均衡を崩す…。八海神の加護を受けた要がもし一つでも欠けたら?」
「結界は歪み、瀬戸全体が怨潮に呑まれるだろう。海は荒れ、人は海を渡れぬ。やがて、島々は孤立し……やがて滅ぶ。」
「結界は神獣と神器だけで成り立つものではない。人々の祈り、祭祀、海を畏れる心、それらが糧となっておった。だが今や、祭りは形骸化し、祈りは薄れた。結界の光は弱まり、妖どもは再び声を上げておる。海鬼将が現れたのも必然。要が一つとなり、ほころびを紡ぎなおさぬ限り、平穏な日々は訪れぬ。これは始まりに過ぎぬのだ。」
蓮が目を丸くする。颯月は必至で自分なりに理解しようとしている蓮を見つめながら、蒼玄斎の言葉を確かめるように真剣な声で言った。
「つまり、「要」はすでに各地で結界を張り守っており、かつてないほど強力な力を持つ者たちだが、微妙な立場や想いのズレが少しずつ大きくなってきている。妖怪たちが一斉に蠢き出しているのは、大いなる存在がその隙を突くため、それが真実かどうかを突き止めなければならない…と。」
「よう理解しておる。ある要は、先手を打って妖を倒すべきだと言うておる。またある要は、自由過ぎるあまり、確固たる結界を維持せず、揺らぎが大きい。それぞれの力が強すぎるがゆえに、今は持ちこたえておるがな。」
蒼玄斎が低く唸る。蓮は胸に手をあてて、うつむく。
「……俺が弱いから、海が危うくなるのか。」
蒼蛇が小さく首を振るように動き、蒼玄斎は厳しいながらもどこか温かな声で言った。
「違う。弱いからではない。秘めたる力は、蒼綯も認めるところ。あと少しばかりは、時間がある。妖どもも、要らの力は重々承知しておる。」
蒼玄斎が深く頷く。
「このまま、要らがバラバラになれば、いずれ、大妖たちが一斉に海から溢れ出す。今回の海鬼将など、まだ序の口よ。真に恐ろしいのは、結界が砕けた時、深海に封じられたものが蘇ることだ。蓮よ。おぬしの刀と継いだ血は、因島の結界を繋ぐ要じゃ。兄を失った悲しみは消えぬだろう。だがそれすら“糧”に変えねばならぬ。要は、海と人の未来を背負う者。その宿命を、今度はおぬしが引き受ける番じゃ。」
「序の口…か。義久さんも言ってたな…。」
蓮は深く息を吐いた。胸の奥に宿る恐れと責任が、ずしりと重みを増す。だが同時に、その重さが“歩むべき道”を示しているように思えた。
蒼玄斎の声は低く、しかし確かな響きを持って思い返したようにつぶやいた。
「蓮よ、結界は要らによって張られたものだが、互いに響き合い、支え合う鎖でもある。一つが綻べば、他もまた揺らぐ。すでに因島だけの話ではなくなっておるのだ。」
「じゃあ、他の地でも海鬼将ぐらい強い奴らが襲ってくる可能性があるってことか?」
「そうじゃ。さらなる大妖かもしれぬ。」
蒼玄斎はうなずいた。
「今、要の実力からして、一番狙われやすいと思われるのは厳島じゃ。厳島の結界はこの因島と最も縁が深く、互いに支えあっておると言っても過言ではない。お前のいとこにあたる結城綾。まずは、あやつに直接会い、状況を確かめよ。」
蓮は拳を握りしめた。
「綾に……?でも俺はまだ、兄さんのように力を使いこなせない。俺なんかが行って、役に立つのか?」
その言葉を遮るように、義久がすべてを悟ったかのように口を開いた。
「役に立つかどうかじゃない。昨日の海将鬼でもうわかってるだろ、会わなければならないんじゃないか?蓮。」
その眼差しは真っ直ぐで、若くして、かつて蒼玄斎の側に仕えてきた誇りを感じさせた。
妹の颯月も、少し柔らかく笑いながら言葉を重ねる。
「それに、蓮一人で行かせたりしないわ。私たちも一緒に行く。護衛も兼ねてね。綾さんとは以前、儀式で顔を合わせたことがあるの。その時は、要だと知らなかったけど、今度は違う立場で話ができそう。」
蒼玄斎が頷き、再び重々しい声を発する。
「義久、颯月……頼めるか。蓮はまだ若い。だが、いずれ因島を背負う身だ。その歩みを共に支えてやってくれ。」
蓮は二人の言葉に胸が熱くなり、深く息を吐いた。
「わかった。厳島へ行ってくる。綾に会って、今の状況を確かめてくる。」
蒼蛇が小さく首をもたげ、金色の舌をちらりと出す。
まるで「それでいい」と告げるように。




