第10話 いざ広島、厳島へ
朝の因島モール港。まだ陽が完全に昇りきらず、潮風が少しひんやりと頬を撫でていく。大きなモールに隣接した桟橋に並ぶ車と人々の列は静かに動き、フェリーの低い汽笛が出航の合図を待つかのように響いていた。
蓮は小さな鞄を肩に掛け、少しそわそわと桟橋を歩いていた。
「フェリーなんて久しぶりだな。でも、バスでも行けるのに、なんでフェリーなんだ?」
港に揺れる船を見上げ、呟いた。隣を歩く神谷義久は、高身長かつ筋骨隆々、日焼けした肌と無精ひげで、いかにも漁師といった風貌であったが、武術の鍛錬を相当積んでいるのがわかるほど整った姿勢で背筋を伸ばし、無駄のない足取りで先を歩いている。サングラスをかけ、よそ行きであろう白いシャツの上に軽く羽織ったジャケットが潮風に翻っていると、港の人混みの中でも自然と目を引いた。
「船旅に感傷はいらん。今日は広島まで、気を抜くなよ。昨日からこの辺り一帯の海の妖気が濃くなってきている。これも調査の一環だ。三原からは新幹線だから、文句を言うな。」
パッと見のイケメンには似つかわしくなく、低く落ち着いた声が、蓮の心に重く響く。
その後ろで颯月は、旅行客のように見える軽装で、明るい表情を浮かべていた。普段は自転車インストラクターをしているだけあって、こちらもすらりとしている。だが、その目は油断なく周囲を見ていた。
「蓮くん、緊張しすぎ。せっかくの海だし、ちょっとは楽しんでもいいんじゃない? でも……うん、兄さんの言う通り、油断は禁物だね。」
「海なんて、いつでも見てるし。」
「でも、本土側の海はあまり来ないでしょ?」
彼女は蓮の言葉など気にもせず、軽く笑ってから視線を遠くの水面に向けた。笑顔とは裏腹に、その眼差しは、戦場に備える者のものだった。
桟橋のアナウンスが響き、人々が乗船を始める。
「三原港行きフェリー、間もなく出航しま~す。」
蓮は手すりに肘をかけ、港の街並みを眺めていた。
昨日の戦いの余韻はまだ胸の奥に残っている。夜の港に現れた「海鬼将」。自分ひとりでは押しきれなかった。颯月や義久の存在がなければ、今ここに立ってはいなかっただろう。
「さてっと、……行くか。」
小さく呟くと、潮風が頬を撫でていった。
観光客の家族連れや、出張らしきサラリーマンが行き交う中で、蓮たちは人波に紛れてタラップを登っていった。
甲板で颯月はデッキの中央に立ち、空を見上げている。青い弓を呼び出す姿を思い出し、蓮はその横顔に一瞬だけ見とれた。義久はといえば、手すりにもたれて景色を見渡しながら、乗客の動きをさりげなく確認している。戦いの気配を嗅ぎ分けるその姿は、やはり歴戦の戦士のものだった。
出航を告げる低い汽笛が鳴り響き、フェリーは静かに因島の港を離れていった。甲板に立った蓮は、足元の鉄板を通じて響くエンジンの振動を感じながら、遠ざかっていく因島の景色を見つめていた。
海の向こうに伸びるしまなみ海道の大橋が、朝日を浴びて白く輝いている。
「やっぱり、この海に浮かぶ島々の眺めは好きだな。」
潮風に髪をなびかせながら、蓮は呟く。生まれ育った島と、これから向かう広島。その間に横たわる瀬戸内海は、いつだって彼の心に特別な感情を呼び起こす。
隣で義久が腕を組み、険しい表情のまま海を睨んでいた。
「平和そうに見えるが……感じるか? 海の底から濁った気配が上がってきている。ここ数日、結界が揺らぎ続けている証拠だ。」
「うん、感じる。やっぱり、じいちゃんの言った通り綾に会いに行くのは正解だな。」
そのやり取りを聞きながら、颯月は手すりに寄りかかり微笑んだ。
「綾ちゃんに会うの、久しぶりでしょ?いとこ同士なんだから、もっと楽しみにすればいいのに。めちゃ、かわいいし。」
茶化されて、蓮は少しむっとして顔を逸らした。
「別に…そんなんじゃない。ただ、会って話をする必要があるからだよ!」
「ふふ。そういう素直じゃないとこ、ちょっと子どもっぽいよね。」
颯月は肩をすくめ、軽口を叩くが、その瞳にはやはり緊張の色が浮かんでいた。義久はそんな妹を横目で睨み、低く諭すように言った。
「颯月、冗談はほどほどにしておけ。蓮の肩に背負わせているものは、俺たちが考える以上に重い。」
「怒られちゃった。わかってるよ。」
颯月はぺろりと舌を出したが、すぐに表情を引き締め、小さく頷いた。
因島が小さくなり、周辺の島々の間を縫って、穏やかな瀬戸内の海の上を、フェリーが進む。
そのときだった。
――ひゅう、と。
夏の朝には似つかわしくない冷たい風が、甲板を撫でていった。潮の香りに混じって、鉄錆のような重苦しい匂いが鼻をつく。
「……っ、来るわ。」
真っ先に反応したのは颯月だった。義久もすぐに身構える。
「やはり海の上か。八海神の結界の薄い場所を狙ってきたな。」
蓮の耳に、低いうねりのような声が聞こえた。
《……ヒト……ウバエ……》
海面がざわめき、フェリーが進む波の白い飛沫の間から、黒い影がいくつも立ち上がる。
フェリーの乗客たちに異変はわからない。家族連れは写真を撮り、学生たちは甲板で笑い声をあげている。だが、蓮の目には、海の闇からにじみ出る妖怪の群れがはっきりと見えていた。
颯月は甲板の中央に一歩踏み出し、ピンッと背筋を伸ばした。その手が空を掴むように掲げられると、微かな蒼光が指先に集い始める。
「縫い留めよ、神器<葵翔>」
凛とした声と同時に、光は形を変え、長く伸びると、滑らかな曲線を描く長弓となった。弦が張られる音はなく、ただ空気そのものが震えて音を生んだかのようだった。
「やっぱり出てきたわね。想定通り。」
颯月の声は静かだが、弓を握る手には一切の迷いがなかった。
彼女は弦を引き、矢を番える。矢は、物質ではない。蒼白の光が形をとったものだ。肩にはいつのまにか白鷺が乗っている。
颯月は一歩前に進み出ると、弓を胸の高さに掲げ、甲板の中央で静かに目を閉じた。潮騒とエンジンの響きの中で、彼女の口から澄んだ声が放たれる。
「蒼弓よ、四方を射抜け。東に禍を断ち、西に影を封じ、南に炎を鎮め、北に闇を縛れ――神因弓術奥義、結界・蒼天四方陣!」
その瞬間、弦が震え、蒼い光が矢の形を取った。颯月は迷いなく弦を引き絞り、空へと放つ。
ヒュン、と鋭い音を立て、一本だと思われた矢が、放たれた瞬間に四本へと分かれた。
それぞれの矢は虚空で弧を描き、東西南北へと飛び散っていく。やがて、見えない壁に突き刺さるようにして弾けると、四方に蒼光の柱が立ち上がった。
柱と柱が光の線で結ばれ、そこから蒼い網のような輝きが広がっていく。光はフェリー全体を包み込むように覆い、海上に半透明の結界を浮かび上がらせた。揺らめく透明な壁が波間へと広がる。まるで、海そのものが護りの衣を纏ったかのようだった。だが、その光景を一般の乗客が目にすることはない。
結界が完成した瞬間、フェリーの上に重なっていた空間は、現実から切り離されていた。甲板にいたはずの蓮や義久、そして海屍たちの姿も、乗客たちの目には映らない。
そこにあるのは、いつもと変わらぬ朝の海と、静かに進むフェリーだけ。
ただ一瞬、潮風だけが清らかに澄み、見えない何かが船を包み込んだような気配を残していた。
「結界、展開。」
颯月は小さく息を吐いた。義久はわずかに口元を緩めた。
「見事だ、颯月。やはりお前の結界は堅牢だな。」
颯月は弓を下ろし、額の汗を拭うこともなく言い放つ。
「これで乗客は守られる。後は、あの禍々しいものを沈めるだけ。」
結界の外側、海の闇から立ち上がる黒い影たちが、苛立つように結界を叩き始めた。
瞬間、甲板に迫りかけていた妖の群れが、光の壁に触れて悲鳴を上げる。
「ギシャァァ……!」
海から伸びた黒い腕が結界に弾かれ、火花のような蒼光を散らした。
「これが結界…。」
蓮が感心しながら言うと、結界越しに蠢く妖を見据えながら、義久が猛々しく吠えた。
「さすがだな。蓮、感心してる場合じゃねえぞ。あとは、俺たちの役目だ。じゃあ……派手にやるか!」
「あとは?結界で入れないんじゃ…?」
結界で押しとどめられているのは、魚の鱗と人の顔をねじ曲げたような妖怪たち――「海屍」と呼ばれる低級の妖怪群だった。
濡れた藻を纏い、膨れた顔をした“海屍”たち――かつて瀬戸で命を落とし、怨念に変じた者の成れの果て。魚のような眼がぎょろりと動き、舌を垂らしながら、結界を爪でガリガリと引き裂こうとする。だが、颯月の結界はびくともしない。
「中には入れない……けど、こちらからは通せる。」
彼女は矢を一本、結界の外へと射抜いた。光の矢はまっすぐ進むと、3体の妖怪の胸を貫通し、影を光塵へと変える。
「安心している場合じゃないぞ、蓮。言っておくが、結界とて完ぺきではない。颯月の結界はかなり強いが、それでもいくつか抜け道がある。完全にはふさげないものなのだ。別のルートからくるぞ!」
義久が叫んだ瞬間、数体の海屍が甲板に飛び移ってきた。結界の隙間をすり抜けたのではない――海そのものが持つ“瘴気の抜け道”を利用して、甲板上に実体化したのだ。
「呑み込め、神器<鯨心>」
そういうと、蒼い光をまとい、重厚な蒼槍がその手に収まる。刃の根元には鯨の心臓を模した文様が脈打つように明滅していた。
「蒼海を裂け、神器<滄牙丸>」
蓮も義久と同じく滄牙丸を顕現させ、迷いなく構えを取る。刃が晴天の海のように蒼く輝く。
颯月が背後へ下がり、義久は相棒に気合を入れるかのように叫ぶ。
「行くぞ、鯨心!」
義久が槍を振り下ろした瞬間、甲板に波の衝撃が走る。蒼槍の攻撃は、ただの突きだけではない。長い槍から繰りだされる海そのものの鼓動を宿した波動が、その神髄。前方の海屍を一気に薙ぎ払い、5体近くを吹き飛ばした。海屍たちは結界の壁に叩きつけられ、黒い霧となって散る。
「わっ、風つよっ。」
乗客の一人が思わず声を上げたが、彼らには衝撃波は“ただの強い風”にしか感じられない。蓮は槍の轟きに合わせて滄牙丸を振るう。
「はああっ!」
刃から走る光が、迫る海屍の胴を切り裂き、黒煙を散らす。
「……っ、数が多いな!」
義久は眉をひそめ、息を荒くする。
「鯨心でまとめて薙げてはいるが、底から次々と湧いてきやがる。結界の外も含めると、どれだけいるんだ?」
その隣で颯月が次の矢をつがえる。彼女は結界を維持しつつ、鋭く呟いた。
「蓮!数を減らすしかない、時間を稼ぐわよ!」
「わかってる!」
蓮は即答し、滄牙丸を振り抜いた。蒼槍の波動と剣閃が交わり、甲板の上は光と影が入り乱れる戦場と化している。2体切り伏せて、汗をぬぐった瞬間、蓮が背後からの気配に気づいた。
「っ!」
振り返ると、妖怪が爪を振り下ろしていた。
避けきれない――
そう思った瞬間、蒼光が閃いた。颯月の矢だ。
「蓮、前ばっかり見てると死ぬわよ!まぁ、今は私が後ろにいるから、大丈夫だけどね。」
軽口を叩きながら、彼女は次々と矢をつがえ、正確無比に妖怪の急所を射抜いていく。
(……俺だけじゃ、全然足りない……兄貴なら、一太刀で全部斬り伏せてたのに)
海屍の群れは次々と甲板に這い上がり、十体、二十体と膨れ上がる。
その異様な光景に、普通の乗客たちはただ「強い波で水飛沫が跳ねている」としか感じられない。だが蓮たちの目には、甲板が修羅場と化している様子がはっきりと映っていた。
義久が槍を一振りするたびに、波の衝撃で妖怪たちが弾き飛ばされる。颯月の矢は正確に妖怪の喉や心臓を貫き、光へと変えて消し去っていく。
しかし、それでも数は減らない。むしろ海の底から次々と湧き上がってくるのだ。
「キリがないっ!」
その瞬間だった。
海屍たちの呻き声が、低く、濁ったものへと変質した。それは、ただの怨嗟ではなかった…。




