第11話 結界の弱点
海の底で溺れ死んだ者たちの声が、泡となって喉の奥から漏れ出しているような、湿った音。聞いているだけで肺の奥に海水が入り込んでくるような、不快な響きだった。
「なんだ……? どうした?」
蓮が滄牙丸を握り直した、その直後。甲板の上にいた海屍たちが、ぴたりと動きを止めた。先ほどまで蓮たちへ向かって襲いかかっていた異形たちは、まるで何かに呼ばれたかのように、ぎこちない動きで互いの方へ歩み寄っていく。濡れた足音が、甲板の上で重なった。
一体。
二体。
三体。
腐った腕が絡み合い、折れた首が他の海屍の肩へ沈み込み、黒ずんだ肉と骨が、泥のように溶けて混ざりはじめる。
「おい…あいつら、集まってるぞ。」
義久が蒼槍《鯨心》を構えたまま、低く呟いた。その声には、わずかな警戒が混じっていた。
颯月が結界の天井から海面までを見渡し、息を呑む。
「まさか、最初から、このつもりだったというの?」
「どういうこと?」
蓮が問い返す。颯月は弓を握る手に力を込めながら、甲板の端を指さした。
「いくら強い妖といえど、私の結界をそのままぬけるのはまず不可能。正攻法なら結界を破壊するしかないわ。だから……分かれたんだ。瘴気の抜け道を通るために!」
「分かれた?」
「おそらく、細かい海屍に分裂して、結界のわずかな隙間から一体ずつ入り込んできたのよ。中に入ってから、また集まってる!」
「そんなバカな。今までそんなの見たことないぞ!」
義久のその言葉が終わるより早く、海屍たちの肉が大きく脈打った。折り重なった身体が膨れ上がり、人の形を失っていく。腕が腕を、脚が脚を呑み込み、無数の呻き声がひとつの喉に集まっていく。
《……ウ……バ……エ……》
濁った声が、甲板の上で膨らんだ。次の瞬間。集まった海屍の塊が内側から弾けるように盛り上がり、人の身の丈を優に超える巨体へと変貌した。現れたのは、朽ちた船板を無理やり継ぎ合わせたかのような黒ずんだ身体だった。肩には砕けた舳先のような装甲が突き出し、頭部には折れた櫂が角のように突き刺さっている。全身のあちこちには、先ほどまで海屍だった者たちの腕や顔が、半ば埋もれるように残っている。
それらはまだ生きているかのように口を開き、同じ言葉を繰り返していた。
《……シズメ……シズメ……シズメ……》
蓮は、思わず息を呑んだ。
「ヤバい、ヤバい、ヤバい。こいつ、海屍が集まってでたのか!?」
義久の表情が険しくなる。
「船の怨念を核にして、死骸を寄せ集めた妖か。なるほどな……でかいまま結界を破れないなら、ばらばらになって潜り込むってわけか。どおりで、数が多いと思ったぜ。数打ちゃ当たるってもんでもねぇぇどな。」
「そんなの、ありかよ……。あいつなんなんだよ!」
「知らん。俺も見たことねぇからな。」
蓮が滄牙丸を構え直す。その巨体は、完全な肉の塊ではなかった。
朽ちた船板。
折れた櫂。
錆びた釘。
そして、海で死んだ者たちの怨念。
それらすべてが混ざり合い、ひとつの妖として形を得ている。
潮に沈んだ船乗りたちの怨念が、分裂した海屍を器にして結界内へ侵入し、再び集まることで生まれた異形。それが、甲板の上に立っていた。
そして、その異形の片腕には――、帆柱と櫂を捻じ曲げて作ったような、巨大な櫂槍が握られていた。
刃の代わりに鋭く裂けた木片が幾重にも重なり、その表面には錆びた釘と貝殻がびっしりと食い込んでいる。振るわれれば、人の身体など容易く砕き、船の甲板すら貫くであろう、沈没船そのものを武器に変えたような禍々しさがあった。
《……ウバエ……スベテ、シズメ……》
濁った声が、結界の中に響く。
「それしか言う事ないのかよ!」
蓮が恐怖を払いのけるがごとく叫んだ次の瞬間、異形が甲板へ覆いかぶさるように身を乗り出し、巨大な櫂槍を振り下ろした。
鈍い轟音。
甲板に叩きつけられた櫂槍が鉄板をへこませ、船体そのものが悲鳴を上げるように軋んだ。
「ぐっ……!」
蓮は身を翻して直撃を避ける。だが、吹き荒れた衝撃だけで身体が横へ流され、足裏が甲板の上を滑った。すぐさま踏みとどまり、蓮は滄牙丸を振り上げる。銀白の刃が異形の胴を斬り裂いた。しかし。刃が通ったはずの傷口から黒い霧が立ち昇り、裂けた船板の隙間を泥のようなものが埋めていく。砕けたはずの木片が、ぎしぎしと不快な音を立てながら元の形へ戻っていった。
「再生する!?」
蓮が歯を食いしばる。異形は、痛みなど感じていないかのように、虚ろな眼を蓮へ向けた。
《……シズメ……シズメェ……》
再び櫂槍が振り上げられる。
その瞬間、横合いから蒼い閃光が走った。
「任せろ!一撃で致命傷を与えないと無理だ。奴とて無意識に動いているわけではない。どこかに核のようなものがあるはずだ!」
義久が蒼槍《鯨心》を構え、甲板を蹴る。槍先に海流のような蒼い光が渦巻き、空気が重く震えた。
「神因槍術:蒼潮轟破!」
突き出された槍から、潮吹きのような圧力波が放たれる。蒼い衝撃は船鬼の胸部を真正面から撃ち抜き、朽ちた船板の身体を大きく弾き飛ばした。巨体がぐらりと傾き、黒ずんだ木片と貝殻の破片が甲板に散る。
だが――。
《……アアアア……》
異形は倒れなかった。胸に空いた穴から黒泥のようなものが溢れ出し、砕けた部分を無理やり繋ぎ合わせるように再生していく。
「しぶといな。」
義久の眉間に、深い皺が刻まれた。颯月はすでに弓を構えていた。いざという時のために蒼い矢を番え、結界の揺らぎを観察しながら叫ぶ。
「裂け目を見つけた!蓮!あれはただの妖じゃない!結界の“瘴気の抜け道”から滲み出た怨念が、沈んだ船の残骸を核にして形を取ってる!」
「裂け目?」
「そう!抜け道の結界側の出口。普通に斬っても駄目!身体を壊しても、裂け目から怨念が流れ込む限り、何度でも再生する!」
蓮は息を呑んだ。異形の背後。波間と結界の境目に、確かに見えた。海面の一部が、まるで薄い布を裂いたように歪んでいる。そこから黒い霧がにじみ出し、異形の身体へと続いている。
「つまり、あの裂け目ごと斬らなきゃ終わらないってことか。」
蓮が滄牙丸を構え直す。義久が短くうなずいた。
「なら、俺がこいつの動きを止める。蓮、お前は裂け目ごと斬れ。」
「簡単に言ってくれるな。」
「できるだろ。」
義久は、不敵に笑った。
「お前は、因島の要だ。失敗しても、俺が尻をぬぐってやる。思い切りやってみろ!そのためにこっそり修行してたんだろうが。お前の「武」なら奴ごときには負けん。」
その言葉に、蓮の目が鋭くなる。颯月が矢を引き絞った。
「結界の補強は私がやる!でも長くは持たないわよ!」
そう言って裂け目に矢を打ち込むと、一時的に黒い霧が止んだ。
「十分だ!」
次の瞬間、義久は蒼槍《鯨心》を逆手に構え、槍の石突を甲板へ叩きつけた。
重い音が響く。
「神因槍術、縛潮!」
槍先から蒼い潮が鎖のように伸び、船鬼の腕、脚、そして櫂槍に絡みついた。
蒼い水鎖が異形の巨体を縛り上げる。
《……ヌウウウウ……!》
櫂槍を水鎖から振りほどこうと身をよじるたび、甲板が激しく揺れ、船体が軋む。水鎖はぎしぎしと悲鳴を上げながらも、怨念の巨体をその場に縫い止めていた。
「今だ、蓮!」
「行く!」
蓮は甲板を蹴った。潮風が頬を打つ。足元で波が唸る。そのすべての音が、一瞬、遠のいた。
見えるのは、異形の心臓とその背後に開いた結界の裂け目だけ。
蓮は滄牙丸を上段に構え、握る手に力を込めた。刃に蒼白の光が走り、水の流れが龍の輪郭を描くようにうねり始める。
「水龍――」
蓮の踏み込みと同時に、甲板が小さく鳴った。滄牙丸の刃先に宿った光が、龍の牙のように鋭く伸びる。
「牙閃ッ!」
一閃。
銀白の斬撃が、船鬼の胸を裂いた。同時に、斬撃はその背後にある結界の裂け目へと届く。銀の龍が咆哮するように駆け抜け、黒く歪んだ裂け目を喰い破った。
《――アアアアアアアアアアッ!》
船鬼の断末魔が、海に轟いた。黒泥が逆巻き、朽ちた船板の身体が内側から崩れていく。腕に握られていた櫂槍もまた、潮に晒された流木のようにひび割れ、ぼろぼろと砕けていった。船鬼の巨体は、なおも蓮へ手を伸ばそうとする。だが、その指先は届かない。
銀白の光に呑まれながら、異形の影は泡となって海風の中へ散っていった。あとに残ったのは、荒く波打つ海面と、甲板に響く三人の息遣いだけだった。
ただ潮風と、遠ざかる汽笛だけが響いていた。
颯月が弓を下ろし、ほっと吐息を漏らす。
「……なんとか、退けたね。まさか、合体するとは予想もしてなかったけど。」
そういいながら、結界を解除した。
義久は槍を消し、険しい表情のまま海を睨む。
「やるじゃねぇか、蓮。だが、これはほんの前触れだ。結界の揺らぎが進んでいる証拠……もしくは、大いなる存在とやらの力が増している…か。やはり、広島に急がねばならんな。」
蓮は滄牙丸を収め、拳を握りしめた。
「綾に会って、原因を突き止めないと、このままじゃ、マジで瀬戸内が危ない。」
朝の陽光に包まれる瀬戸の海は、何事もなかったかのように穏やかに輝いていた――。




