第12話 広島 厳島の要「結城 綾」
フェリーを降り、新幹線で広島市へ向かった一行は、正午の光が傾きかける頃、厳島神社へと続く参道に差しかかっていた。
厳島神社、それは日本でもめずらしい海に浮かぶ社。
満ち潮の時、朱塗りの回廊は海面の上に静かに影を落とし、社殿そのものが波に抱かれているように見える。遠く沖合に立つ大鳥居は、空と海の境目に打ち込まれた楔のように、潮の流れを受けながらも微動だにしない。
島そのものが神として畏れられた場所であり、人がむやみに踏み荒らしてよい土地ではない。だからこそ、社は陸の奥ではなく、海の上へと張り出すように建てられた。人の世と神の領域、その境目にそっと置かれた祈りの形。
祀られているのは、
市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命の宗像三女神。
いずれも海の道を守る女神であり、古くから航海の安全、交通の守護、そして財や技芸の神としても信仰されてきた。
斎き祀る島。
神を迎え、神を祀り、神域として清められた島。
平安の世、平清盛によって今のような壮麗な社殿へと整えられてから、厳島神社は瀬戸内の海運と信仰の中心として、長い時を越えてきた。朱の柱、白い壁、檜皮の屋根。そこに満ち潮が寄せれば、社は水鏡の上に浮かび、引き潮となれば、海底に隠れていた砂地が姿を現す。
夜になれば、月光が朱の大鳥居を照らし、波の上に銀の道を作る。潮騒は祈りの声のように低く響き、回廊の奥には、人ならざるものが静かに立っていてもおかしくない気配が満ちる。
ここは、海の神を祀る場所。
同時に、人の世と神の世、そして時に怨霊や妖が潜む異界との境目でもある。
厳島の結界が揺らぐということは、ただ一つの社が危ういという意味ではない。
瀬戸内の海そのものを護ってきた、古い祈りの均衡が崩れ始めているということだった。
そんな過去の歴史とは裏腹に、観光客で賑わう風景は一見平和そのもの。だが、蓮の胸の奥には、海上での戦いの余韻がまだ重く残っていた。
「この先に、厳島の要、綾がいる。」
蓮がどんな顔をして会えばいいのか悩みながら呟いたその時、石畳の路地から小さな影が飛び出してきた。
「やっぱり来たんだ、レンレン!」
腰まで伸びた黒髪をリボンで結び、揺らしながら快活な声を上げて駆け寄ってきたのは、綾の妹・汐音だった。まだ十四歳だが、その瞳には姉譲りの鋭さが宿っている。綾とは4年ほど会っていないが、汐音は、昨年、弦也を頼って因島に遊びに来たことがあったので、よく知っている。
蓮は目を瞬かせた。
「汐音?なんでお前がここに。迎えに来てくれたのか?」
汐音は腕を組み、勝ち気な笑みを浮かべる。
「そりゃあ、因島からレンレンが来るって聞いたら見に来るに決まってるでしょ。途中で迷ったり、逃げ帰るんじゃないかなーとか思ったし。」
「おい……誰が逃げ帰るか!あと、レンレンって呼ぶな!」
むっとして声を荒げる蓮を、汐音は楽しそうにからかうように見上げた。
「だって事実じゃん?この前も妖怪に追いかけられて、結局、颯月お姉ちゃんに助けてもらったんでしょ?」
「……っ、それは……状況が悪かっただけだ。ってか、なんで知ってんだよ!」
顔を赤らめる蓮。
颯月がくすくす笑いながら口を挟む。
「ごめん。厳島に行くって電話で伝えるとき、汐音ちゃんが出て、話が弾んでしゃべっちゃった。ふふ、汐音ちゃん、容赦ないね。蓮、ちょっと子ども扱いされてるよ?」
義久は小さくため息をつき、頭を振った。
「……妹というものは、どこも手強いな。」
汐音は満足げに腕を腰に当てると、ふっと表情を緩め、少し視線をそらした。
「……でも、ちょっと安心したよ。レンレンが本当に来てくれたから。こないだ、ちょっと大変だったみたい。私はその場にいなかったけど。」
その声は小さく、素直な気持ちがにじんでいた。蓮は少し驚いたように目を見開き、そして柔らかく笑った。
「……ああ。俺は逃げない。だから、お前も心配すんな。」
「べ、別に心配なんてしてないし!」
汐音は慌てて顔を赤くして叫び、そっぽを向いた。そんなやり取りに、颯月は思わず吹き出した。
「うん、思った通り完全に中2のツンデレだ。」
「う、うるさい!」
と汐音が睨み返すが、その瞳には年相応の幼さとやさしさ、そして輝きが宿っていた。
参道を抜けた蓮たちが目にしたのは、海上に広がる朱の回廊だった。夏の光を受けて輝く大鳥居は、まるで瀬戸内の海そのものを背にした門のようだ。波が寄せるたびに柱の影が揺れ、伝承通り神域と俗世の境を示しているかのようだった。
「要になって、改めて来てみると、やっぱり、ここは特別だな。」
蓮は思わず足を止め、呟いた。
義久が静かに頷く。
「少しはわかるようになってきたか?要の結界は、土地そのものの力を帯びている。特に厳島は別格だ。平安の昔から“神の島”と呼ばれてきた場所だからな。」
朱の回廊を渡り、拝殿の前に立ったときだった。
白衣に水色の袴を纏った女性が姿を現した。
月白の光を思わせる黒髪を背に流し、白い奉書紙でくるんでいる。その瞳には蒼い光が宿っている。
「よく来たわね、蓮。」
凛とした声が空気を震わせる。
「綾……。」
蓮は思わず名を呼び、数歩進み出た。
「久しぶりだな。」
彼の声は少し硬く、それでいて安堵が混じっていた。綾は静かに微笑み、手を合わせるようにして会釈した。
「いとこ同士なのに、ずいぶんよそよそしいのね。昔は、夏休みに一緒に遊んだじゃない。」
「……それは子どもの頃の話だ。」
蓮は顔を背けるように言う。颯月が横から小声で囁いた。
「やっぱり素直じゃないんだよねぇ、蓮って。」
義久が眉間にしわを寄せつつ軽く睨むと、颯月は舌を出して肩をすくめた。
「それで、わざわざここまで来たのは、因島でも異変があった?蒼玄斎様に何か言われた?」
真剣な会話の空気が流れ始めた、そのとき、
「ちょっとちょっと!久しぶりに再会したんだから、まず『元気だった?』くらい聞いたらどうなの?ほんとに覚えてんの?冷たいんだよねぇ、レンレンは。」
「お、おれは別に忙しかっただけで……。」
慌てて言い訳をする蓮。汐音はすかさず追い打ちをかけるように言った。
「はいはい。どうせ“修行”とか“使命”とか言い訳するんでしょ?でもさ、女の子を待たせる理由にはならないんだから。」
「お、おい……。」
完全に押され気味の蓮。
その様子に、颯月が口元を押さえて吹き出した。
「ぷっ……あはは! 蓮くん、完全にやられてる。」
義久も小さく笑みをこぼす。
「颯月を上回る手強さだな、あの子は。」
そんな二人を横目に、綾がわずかにため息をつき、妹の肩に手を置いた。
「汐音、からかわないの。でも、あなたがここに来てくれてよかったわ。こちらも相談したいことがあったから。」
汐音は少し頬を赤くしながらも、蓮に視線を戻す。
「ま、会えたのは嬉しいよ。別に、その……楽しみにしてたとかじゃないけど!」
「ここでの立ち話もなんだから、一旦、社殿に入りましょう。人の目もあるし。」
「……ああ。」
拝殿の前で、要や結界の話を続けるには、あまりに人目が多すぎた。
「ついてきて。」
綾は短く告げると、朱塗りの回廊へと歩き出した。蓮もその後に続く。
板張りの床を踏むたび、かすかに木が鳴った。潮の匂いと、古い檜の香りが混ざり合う。さっきまで肌にまとわりついていた不穏な気配が、社殿の奥へ進むにつれて少しずつ薄れていくように感じられた。
だが、蓮の胸のざわめきは消えない。
朱の柱の向こう、海に浮かぶ大鳥居が静かに見えていた。
その足元で、黒い波が一度だけ、低く揺れた。
神社の社務所につき、応接室に通されると、綾は小さく笑みを浮かべたが、すぐに真剣な表情に戻った。
綾は小さく笑みを浮かべたが、すぐに真剣な表情に戻った。
「話は戻るけど……やはり、何かが起こっているのね?」
蓮はうなずき、視線を落とした。
「今朝、フェリーで妖怪に襲われた。」
綾の瞳が、わずかに細められる。
「フェリーで、結界の綻びを目の当たりにした、と。」
「そう。白昼堂々、甲板に妖怪が現れた。海屍っていう、海で死んだ人間の怨念みたいな奴らだった。しかも、ただ湧いただけじゃない。結界のわずかな隙間から分裂して入り込んで、中で集まって……大きな妖になった。」
「船鬼……。」
綾の声が、静かに沈んだ。
「沈んだ船の残骸や、海に残った怨念を核にして形を取る妖だわ。普通なら、結界の外側で弾かれるはず。」
「そうらしいな。」
蓮は苦く笑った。
「結局、義久さんと颯月さんに助けられたんだけど、なんとか勝てた。颯月さんが結界を張って、義久さんが動きを止めてくれなかったら、たぶん船ごと沈められてたけど。」
綾は返事をしなかった。ただ、指先をそっと膝の上で重ね、何かを考えるように目を伏せる。
「蒼玄斎様は、何て?」
綾が静かに尋ねた。蓮は、昨晩交わした祖父との会話を思い出す。あの時の蒼玄斎の声は、いつものように穏やかだった。だが、その奥にある重さは、蓮にも分かった。
「じいちゃんは、瀬戸内の結界そのものが弱ってきてるって言ってた。」
「瀬戸内全体の?」
「ああ。因島だけじゃない。厳島も、吉備津も、赤間も、讃岐も……海を囲む要の結界の意義が失われているんじゃないかって。」
綾のまつげが、わずかに揺れた。
「血筋の弱まりと、時代の流れ……?」
「それもあるって言ってた。昔ほど、人は神を畏れない。海に祈らない。妖を信じない。そういう積み重ねで、結界を支えていた信仰そのものが薄くなってるんだと。でもそれだけじゃない不穏な動きがあるとも。」
「……ええ。私もそう思う。」
綾はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、月光のような冷たさが宿っていた。
「厳島でも、数日前から潮の流れがおかしいの。月の満ち引きは変わっていないのに、結界に触れる潮だけが乱れている。まるで、海の底から何かが呼吸しているみたいに。」
「海の底からか?」
「それに、強力な“何か”が出た。月龍は、封印の残滓だって言ってたけど、実際は何かわからない。見た目は、静さん曰く、以前古文書で読んだ海坊主に近かったらしい。」
蓮の表情が変わった。
「海坊主……瀬戸内を荒らしまわったっていう、あの大妖か?」
「かなり厄介だった。海霧に紛れて現れて、社の結界に触れようとしていたの。目的が何かはわからない。」
綾の声が、少しだけ低くなる。
「……それを、綾が祓ったのか?」
「そいつはね。でも、おそらく、完全には祓えていない。」
綾は首を横に振った。
「月龍と蒼嶺で斬った。でも、斬った瞬間に霧になって散ったの。消えたというより、海へ戻った感じだった。まるで、こちらの力を測りに来ただけみたいに。」
「偵察……ってことか?」
「その可能性はあるわ。」
綾の声に、わずかな緊張が混じる。
「フェリーに現れた船鬼も、厳島に出た海坊主の残滓も、共通しているのは“海の怨念”よ。しかも、どちらも結界の隙間を狙ってきている。ただ暴れているだけじゃない。結界の弱点探して、そこから入り込もうとしている。」
蓮は息を呑んだ。朝のフェリーで見た光景が、脳裏に蘇る。分裂した海屍。わずかな結界の隙間。甲板の上で集まり、船鬼へと変わっていく異形。あれは偶然ではなかった。
「つまり、妖怪たちが結界の抜け方やこちらの出方を探っているってことか?」
「そう考えた方がいいかもしれないわ。」
綾は静かに言った。
「でも、ただの妖が急にそんな知恵を持つとは思えない。誰かが導いているか、あるいは……もっと大きなものの意思が、流れ込んでいる。」
「もっと大きなもの……大いなる存在……。じいちゃんが言ってた……。」
綾は視線を海へ向けた。
「大いなる存在…そういえば、残滓を祓った時、大鳥居のはるか向こうから巨大な2つの影の気配を感じたわ。すぐに消えたけど、仲間の4人もそれを察知しているから間違いない。」
……………
「えっと…、ちょっといいかな…、もしかしてすごく大変なことになってない?」
あまりにも重い話と、蓮と綾の真剣な会話に、一切入るきっかけがなかった汐音が意を決して口を開いた。
「そうだな。ものすごく大変だ。でも、今のところ原因がわからないし、奴らの目的もわからない。今まで倒してきた妖どもは、単純に人への恨みを晴らそうとしているだけのようだった。」
そう言った後、長い沈黙がその場を支配した。思い思いに次の言葉を皆が考えていたが、発する言葉が見つからない。そんな中、もう一人、きょろきょろと皆の顔を見渡している者がいた。
「ハイハイ!今わかっていることは、これぐらいでしょ。まぁ、今バタバタしても始まらないわ。」
重苦しい雰囲気を一層するように颯月が言い放った。どうも、ずっとシリアスな雰囲気に耐えかねていたらしい。
「汐音ちゃんもビビってるでしょ!各地の要は、多少結界が揺らいでも問題ないぐらい“かつてなく強い“って玄じいも言ってたし、ここでああだこうだ言ってても何も進まないわ。今回来たのは、蓮に経験を積ませるためでもあるのよ。」
「颯月さん、じいちゃんの事、玄じいって呼んでるのか?こないだ、蒼玄斎様っていってただろ?」
「あっ、ばれた。蓮のお父さんだってそう呼んでるじゃない。そりゃ、本人の前では…ねぇ。」
訴えるような目で義久を見るが、横で、目に手をあてて、義久が首を振っている。
「でも、確かめたかったってのは本当だ。因島の結界だけの揺らぎなのか、それとも――瀬戸内全域で同じことが起きているのか。まずは綾さんのいる広島から。」
義久が言うと、綾は拝殿の奥、灯明の明かりに照らされた柱を見つめながら話を続けた。
「広島の結界は、この厳島神社を中心に張られているの。社殿は海に浮かぶように建てられているでしょう?あれはただの美ではなく、潮と月の力を受け止めるための“器”でもあるのよ。」
彼女の声は厳かで、どこか舞台の語りのようでもあった。
「潮の満ち引き、月の満ち欠け――そのすべてが結界の脈動と結びついている。だから、ここは月が最も満ちる夜に、力を極限まで高めることができる。」
蓮は思わず口を挟む。
「つまり……満月の今夜が、結界を立て直す絶好の時、ってことか。」
「ええ。」
綾は静かに頷いた。




