第53話 冷たい海の夢のあと
「ここ、どこ?」
「因島の…、いつもの海。ってか、ここだけの話、海の上。とりあえず岸までいくか。」
蓮は安堵の息を吐きながら、そのまま少しだけ強く抱き寄せた。澪を背負うと、岸まで歩き出す。
「無茶しやがって。」
「私?」
澪はぼんやりとした表情で首を傾げる。
「夢、見てたみたい。すごく冷たい海の中に、ずっと一人でいた気がする。」
その言葉を聞いた瞬間、蓮の背筋に薄い寒気が走る。だが、今はそれよりも、彼女が戻ってきたという事実の方が大きかった。
「もう大丈夫だ。戻ってきたんだから。」
澪が聞いているか、聞こえているかわからないが、蓮は言わずにはいられなかった。岸までたどり着いたときには、澪は目をつぶってぐったりしていた。
水面に残った氷片が、朝の光を受けて淡くきらめいている。その奥で、海が一度だけ大きくうねった。
黒い影が、波の向こうで揺れている。幽汐だった。長い髪を水に溶かしながら、こちらを静かに見ている。だが先ほどの余裕はもうない。その瞳には、苛立ちの色が浮かんでいた。
「そんな…バカな。なぜわらわの術が破られる。あぁぁ、あの方に叱られる。」
低く囁く声が、波に混じって届く。
「許さない。村上の末裔を連れ帰れとあの方は私を選び、おっしゃったのだ。このままで終わると思うな。必ず、また来る。そやつを、いつでも狙っておるぞ。」
「村上の末裔?俺じゃないのか?澪?今は、どうでもいい。もう来るな。次はないぞ!」
短く言い放つ。
幽汐はふっと笑った。
「さて、それは、どうかな?お前こそ次はない。」
次の瞬間、その姿は水面に溶けるように崩れ、深い蒼の奥へと消えていった。残されたのは、静かな潮騒。遠くでカモメが鳴いた。戦いが終わったのだと、ようやく実感が追いついてくる。その時だった。
「何とかなったわね。」
場違いに明るい声が、背後から響いた。
「お前。」
蓮が眉をひそめる。
「余裕こいてないで、手伝えよ。お前は、あっち側じゃなくて、こっち側なんだろ。」
なぎは軽く肩をすくめる。
「いやー、ダメ蓮がちゃんと覚醒するか心配だったけど、思ったより格好よかったじゃない。何度も言うけど、あたしは戦闘系じゃないのよ。いわゆるフューチャーテラーってやつね。」
「うるせぇ。こう、漫画みたいに、後ろから回復魔法的な…。ってか、だから、そんな言葉どこで覚えてくるんだよ。」
「凪泡じゃ無理でしょ?泡だし。…でも、ちょっと方法を考えてみる。このままじゃ役に立てないかもしれないし。」
澪はまだ少しぼんやりしたまま、少し目を開き、なぎを見上げた。
「小さい…。」
「レディーに向かって何てこと言うのよ。女同士だからって、言って良い事と悪い事があるわよ。」
即座に頬を膨らませる。だが次の瞬間、なぎは真剣な目で澪を見た。
「でも、よかった。この子、本気で連れていかれるところだったわよ。」
澪は静かに海を見た。さっきまで感じていた“呼ばれる感覚”は、今は遠くなっている。
「何があったの?私は一体……。あの冷たい感覚……心の底から無理やり引きずり出されるような力。」
少しずつ意識がしっかりし始め、ぼんやりとだが、ついさっきまでの出来事が思い出されてきた。
澪は、ぽつりと呟く。
「蓮が……助けてくれたの?」
蓮は少しだけ目を逸らした。
「まあ……何とか、な。」
「何とかって顔じゃないわよ。」
なぎが横から言った。
その視線は、蓮の肩と腕に向いている。
氷刃にかすめられた傷が、まだ赤く残っていた。澪の手首にも、冷気に触れたような白い痕が薄く浮かんでいる。
「二人とも、じっとしてて。」
「え?」
澪が驚いたように首をかしげる。
「いいから。」
なぎは小さな両手をかざした。
「《凪泡》」
淡い水色の泡が、掌の上にぽこ、ぽこと生まれる。
泡はふわりと漂い、まず澪の手首へ触れた。
しゅわり、と柔らかな音がした。
冷たく白くなっていた肌に、少しずつ血の色が戻っていく。
次に泡は、蓮の肩や手の甲へまとわりついた。切り傷の痛みがすっと引き、傷口に残っていた冷気と妖気の残り香が、潮に洗われるように薄れていく。
澪は、目を丸くした。
「……あったかい。」
「でしょ?」
なぎは少しだけ得意げに胸を張った。
「傷とか、妖気に当てられたところなら少しは治せるの。心までは無理だけど、体に残った冷たさくらいなら、洗い流せる。」
蓮は、泡に包まれた自分の腕を見下ろす。
「助かるぜ。さっきは、ああ言ったけど、すげえな、なぎ。もう、弱いって言えないかもな。」
「ふんっ、当然よ!」
なぎは即答してから、また澪へ視線を戻した。
「でも、無理はしないで。この子、まだ完全に離されたわけじゃない。あの海女の声、少し残ってる。全部なくなるには、少し時間がかかるわ。」
澪の表情が、わずかに強張る。
「私って、一体…。私に何が起こってるの?」
「わからない。でも、今までの澪とは一緒じゃないかもしれない。今までみたいに、のんびり暮らせないかもしれない…。でも、俺が守ってやる。」
「昔から、蓮に助けてもらってばっかり。でも頼りにしてる。何か大変なことが起ころうとしている事だけは、よくわからないけど、なんとなく感じるの。多分、蓮も巻き込まれてるんだろうなって。今は聞かない方がよさそう。でも、時が来たら教えてね。私も力になりたい。」
「そうね。私が見えている段階で、こっち側の人になったってことだしね。」
3人は同じ方向を見た。
海は穏やかだ。
水面に残った氷片が、朝の光を受けて淡くきらめいている。
だがその奥に、確かに何かが潜んでいる。
「これからどうなっていくんだ?この海は。」
蓮は、低く呟いた。
なぎの泡が、最後にひとつだけ弾ける。
潮風が吹き抜けたその先で、海が一度だけ、大きくうねった。
砂浜に戻った静けさの中で、潮風だけがゆっくりと三人の周囲を巡っていたが、その空気を不意に破るように、砂の上に横たわっていた芽衣の指先がぴくりと動き、次の瞬間、何事もなかったかのように大きく息を吸い込んでから、勢いよく上体を起こした。
「っはぁ! あれ、ちょっと待って、今あたし寝てた!?海に向かって走っていったはずなんだけどなー。」
驚いたように周囲を見回しながら、きょろきょろと目を動かす芽衣の様子はあまりにも普段通りで、その無邪気な声音がかえって現実感を伴って胸に戻ってきた。蓮は思わず言葉を失い、澪もまだ力の抜けた身体のまま、ぽかんとした表情で彼女を見つめるしかなかった。
「ちょっと蓮、なんでそんな顔してんの、あたし顔になんかついてる?」
と芽衣が首を傾げると、先ほどまでの惨事が全くなかったかのようにその頬には明るい笑みが浮かび、ただ砂の粒がいくつか付着していた。あれほどまでに冷たい海の気配に飲み込まれかけていた少女とは思えないほど元気な姿がそこにあった。
「お前、本当に何も覚えてねぇのか?」
と蓮が半ば呆れ、半ば安堵を滲ませた声で問いかけると、芽衣は、
「え、なに、あたし何かした?もしかして寝言とか言ってた?」
と冗談めかして笑い、その軽やかな空気が張り詰めていた緊張の糸を一気に緩ませる一方で、澪だけが静かに海の方へと視線を向けたまま、どこか遠くを見るような目をしていた。
その様子を見届けたかのように、少し離れた岩の上で腕を組んでいたなぎが小さく肩をすくめ、
「まあ、こんなもんよ、知らぬが仏ってね。人の心っていうのはね、壊れそうで意外としぶといんだから。」
と軽く言いながら、ふっと笑みを浮かべた次の瞬間には、朝の光の中に溶けるようにその姿を消し、まるで最初からそこにいなかったかのように潮騒だけが残された。




