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第54話 六禍衆

 瀬戸内の地図にも名を残さぬ小さな無人島。

 潮の流れから外れたその島には、漁師たちでさえ、昔から避けて通っていた。


 満潮になれば、島の大半が海に沈む。干潮になれば、黒い岩肌の丘が姿を現す。かつては、潮の無事を祈る社が地下にあったという。

 だが、その事を覚えている者は、もういない。


 夕方になろうとしていたその時、島の岩肌に、ひとつの白い腕が伸びた。

 幽汐だった。


 濡れた黒髪を引きずり、白い肌に結界で焼かれたような痕を残したまま、彼女は岩場へ這い上がる。


 先ほどまで浮かべていた妖艶な笑みは、もうない。

 あるのは、焦りと恐怖だけだった。


「……っ」


 幽汐は唇を噛み、よろめきながら石段へ向かう。

 参道は荒れていた。石段には苔が這い、ところどころが潮に削られている。

 古い鳥居は傾き、柱の根元には貝殻と流木が積もっていた。忘れられた神域。そう呼ぶにふさわしい荒れ方だった。


 だが、幽汐は足を止めず、濡れた髪を引きずりながら、参道だった所を奥へ進む。

 やがて、石段が現れた。石段を下りていくと、丘だと思われていた地下に巨大な空間が現れ、一番奥に、本殿が鎮座していた。


 そこだけが、異様だった。島は荒れ、鳥居も、参道も、海風と潮に削られている。

 だが、本殿だけは違った。朱は鮮やかで、柱には塵ひとつない。檜の香りすら、まだそこに残っているようだ。しめ縄は新品同様、紙垂は白く清らかに揺れていた。


 誰も訪れぬ無人島の奥にあるはずなのに、まるで今朝、誰かが祓い清めたばかりのようだった。その清らかさが、かえって気味悪い。

 幽汐は本殿の前で膝をついた。


「た…只今、も…戻りました…。」


 声は震えていた。

 本殿突き当りのすだれはおろされており、その奥を垣間見ることはできない。だが、黒い潮の気配が漏れている。中央簾の左右には、六つの座があった。

 右に三つ。

 左に三つ。

 今そこに三つの影が座していた。

 ひとつは、巨大な鬼の影。

 ひとつは、白い衣をまとい、背後に六つの影を揺らす女。

 そしてもうひとつは、濡れた黒髪を長く垂らした女妖。


 残る三つの座は…空いていた。

 いまだ封印の底に沈む三つの大禍。


 誰もいないはずの席。けれど、その空席からも、濃いわざわいの気配だけが滲んでいた。


 幽汐は、その空席を見ることすらできず、額を低く伏せる。


「も…申し訳、ございません。」


 簾の奥の姿は見えず、返事はない。それだけで、幽汐の喉が凍りついていた。続けて幽汐は震えながら口を開いた。


「村上の末裔……そして、娘。と…共に連れ帰られず…まことに申し訳ございません…。」


 幽汐は額を地につけながら、赦しをこう。

 その時、六つの座の一つから、柔らかな笑い声がした。


「まあ。あれほど得意げに出て行ったというのに、戻ってきたのは髪を乱した負け犬のみかえ。」


 濡れた黒髪を長く垂らし、白い肌を潮で濡らした女妖。


 磯女《濡髪ノ磯姫》。


 海辺に現れ、濡れた黒髪で人を絡め取り、潮の底へ引きずり込むと言われている女妖。

 波打ち際に足を踏み入れた者は、すでに彼女の領域に入ったも同じだという。


 声は優しく、耳に甘い。

 だが、その髪に一瞬でも触れた者は、冷たい痛みと共に、肌を裂かれると言われている。


「黙れ、磯女いそめ。お前は何も知っておらぬ!」


 幽汐が睨む。


 口元を袖で隠し、目だけで笑った。


「おぉ、怖い怖い。けれど、心を喰うしか能のないあなたが、心ひとつ持ち帰れなかったのは、紛れもない事実であろう?結果がすべて。わらわに黙れとは、えらくなったものよ。」


 磯女は、濡れた髪を指先で撫でる。


「それと、私には夜依波よりはという名があること、お忘れにならぬよう。お前ごときが呼んで良い名ではないがのぉ。我ら六禍衆ろっかしゅうにとって代わりたいなら、いつでも受けて立とうぞ。」


「……っ。」


 幽汐の唇が震えた。言い返したかった。だが、言葉が出ない。


 六禍衆…妖怪の最高峰にして、あの方より選ばれ名を与えられし大妖。格の違い、力の違いは火を見るよりも明らかであった。

 その一つに座す者と、ただ命じられて使われる自分。圧倒的な格の違いを、嫌でも思い知らされる。

 夜依波よりはは楽しげに目を細めた。


「それとも、言い訳をお聞かせくださるのか?心を喰う者が、なぜ心ひとつ奪えずに逃げ帰ったのか。」


 その隣で、別の影が鼻を鳴らした。


「実にくだらぬ。」


 地鳴りのような声だった。巨大な鬼の影。肩は山のように盛り上がり、額には折れた角。 六禍衆が一角。温羅。

 その本性は、吉備・岡山の地に語られる鬼ノ巨人。


 山を背負うほどの巨躯を持ち、拳は岩を砕き、足音は地鳴りとなって里を震わせたと言われている。

 その怒りが大地に触れれば、磐座は裂け、社の柱は折れ、結界の根すら掘り返されるという。


「連れて来られぬなら、砕けばよい。人も、社も、磐座も、まとめてな。」


 温羅は低く笑う。


「細工など要らぬ。大地ごと潰せば、結界など立ちようがない。」

「相変わらず、乱暴なこと。御方おんかたの指示は、連れ帰ること。潰しては意味があるまいて。」


 夜依波が呆れたように言う。

 だが、温羅は気にも留めない。


「乱暴で結構。守りの土台を砕く。それが我の役目よ。」


 その時、七つの鈴のような音が、本殿の奥に響いた。


 しゃん。

 しゃん。

 しゃん。


 右の席の一つから、女の声が響く。


 白い衣。

 濡れていない黒髪。

 年若い娘の姿をしているが、その背後には、六つのぼやけた人影が揺れていた。


 縁那えんな

 本性は、七人ミサキ。

 七人で現れ、人をひとり取り殺すたびに、その魂を列へ加え、代わりに古きひとりが抜けると言われている怪異。

 ゆえに、その列は決して六にも八にもならない。常に七つの影を連れて歩く。


 縁那は、首を傾げるように幽汐を見下ろした。


「殺せばよかったのに。連れて帰れないなら、沈めればよかった。ひとり沈めれば、ひとり空く。空いたところへ、別の魂を入れればいい。器さえあれば、私が…。」


 幽汐は縁那の言っている意味が分からなかったが、その冷酷さがひしひしと伝わり、背筋が震えた。縁那は、無邪気に微笑んだ。


「魂の結び目は、思ったより脆い。親と子。兄と弟。友と友。幼馴染。恋心。誓い。ひとつ切れば、全部ほどける。」


 本殿の空気が凍るような一言一言に、六禍衆である所以ゆえんが垣間見えた。


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