第52話 結界「蒼潮海廊」
「勝手に…連れてくな。」
一歩。また一歩。氷が砕け海に落ちそうになるが、その下の海が道を作る。やっと手が届く距離まで近づき、蓮は右手を伸ばした。しかし、傷で握力が失われつつあり、滄牙丸が手から滑りかける。
澪の足が止まった。ほんのわずかに。氷の嵐が揺らぎ、澪の唇が震える。
「やだ…。」
小さな声。消えそうなほど弱い。だが確かに、少女の心が叫んでいた。
「まだ澪は居る。戻れ。戻ってくれ。」
震える声で言う。
「俺、まだ、お前と話してねぇこと山ほどあんだよ。もう、大切な人を失いたくないんだ。」
氷の世界が揺れはじめ、澪の瞳に光が戻り始める。そして…
ぽたり
涙が一粒、頬を伝った。
透明な滴が氷の上に落ちる。
パキッ
小さな音がした。と、それはすぐに広がり、氷の大地に無数のひびが走りだした。
「帰りたい。」
澪は唇を震わしながら発したその声はかすれていたが、確かに“澪自身”のものだった。
「何をしている!お前はあの方のもとへ行くんだよ!」
幽汐が叫んだ次の瞬間。周囲の氷が一斉に暴れ出す。
最後の抵抗のように。無数の氷刃が空を裂き、蓮へと襲いかかる。
「つっ!」
蓮は歯を食いしばる。しかし逃げない。滄牙丸を握りなおし、振りかぶったその時だった。指先が震えているのが分かった。
(冷気のせいだけじゃない。怖い。)
正直に、そう思った。
(もし失ったら。もし今度こそ守れなかったら。)
胸の奥で、昔の痛みがうずく。
兄の背中。
届かなかった手。
取り残されたあの夜の海。
「もう、嫌だ。失うのも、逃げるのも。自分で切り開いてみせる。」
小さく呟くと、歯を食いしばった。その時だった。胸の奥で――海が鳴った気がした。
ドン、と。
鼓動のような重い響き。深く。果てしなく大きい。まるで世界そのものが呼吸しているような感覚。
呼んでいる。逃げるな、と。お前は海の子だろう、と。
蓮はゆっくり息を吸う。潮の匂いが肺の奥まで満ちる。急に波の音が大きく聞こえ始めた。
冷たいはずの空気が、どこか懐かしく感じる。波の鼓動が、自分の心臓の音と重なっていく。
トクン。
ザン。
トクン。
サ―――。
能島でつかみかけた波のリズムが、いつになく大きく、同調を始めた。震えていた手が止まる。恐怖が消えたわけじゃない。だが、その上に、覚悟が乗った。
「借りる…か。」
自分一人の力じゃない。最初からそうだった。背負うんじゃない。つながるんだ。
蓮は滄牙丸を、静かに掲げた。刃が海の青さをそのまま映したように蒼く光る。
「海よ。我に力を。」
その瞬間、轟音が鳴り響き、海が応えた。
水柱が爆発のように立ち上がり、凍りついた海面が砕け散った。砕氷の隙間から、蒼い光が噴き上がる。波が渦を巻き、生き物のように蠢きながら、蓮の周囲へ集まってくる。水が足元を包み、沈むことなく、むしろ押し上げられているように蓮は海上に立っていた。
その時、海中の深い蒼が大きくうねり、長大な影が浮かび上がる。
水龍。
銀の鬣のような水流をまとい、巨大な身体をくねらせながら現れ、その瞳が、蓮をまっすぐ見つめる。
責めない。焦らせない。ただ、「来い」と言っているようだった。
次の瞬間、水龍が、咆哮する。音ではなく、水そのものが震え、蓮の海の記憶が、血の奥で呼び覚まされた。
村上の血。瀬戸内の流れ。何百年も前から続く“海と共に戦ってきた意思”。
蓮の身体が自然に動き、滄牙丸の切っ先をゆっくりと足元に下ろし、チョンと水面に触れた。足元の水が波紋となって円を描く。最初は小さく。何度か水面に触れると、波紋が重なり、次第に大きな円になる。水龍が蓮の外側を大きくゆっくり回り始めた。導くように。乱れていた波が、一つの意思を持ったように収束していく。蓮の瞳が深い蒼に染まる。
「蒼潮海廊」
静かに言うとともに、蓮は切っ先を正面に向け、刀で円を描いた。蒼い残光が切っ先の動きに合わせてゆらりと残り、真円を描く。ゆっくりと円が描かれ、完全な蒼い光の輪が完成した。
その瞬間、
ズァァァァァ
と空気が震え、透明な蒼く光る膜のような壁が一気に膨れ上がった。氷刃がぶつかるが、すべて砕け落ちる。冷気が外へ押し返される。
その中心で、蓮は、初めて確信した。
守れる。自分は、守れる。一人じゃない。海がある。水龍がいる。繋がっている。
もう逃げない。
蓮は蒼い光をまといながら澪の元へ結界の中を歩き出した。先ほどまで荒れ狂っていた氷の刃が、結界の外側にぶつかり、鈍い音を立てて砕けていく。そのたびに白い霧が舞い上がり、因島の太陽の光の中で淡く散っていった。冷気は依然として鋭く肌を刺してくるが、結界の内側には確かな温もりのようなものが満ちている。まるで海そのものに抱き支えられているかのようだった。
蓮はゆっくりと足を踏み出す。
一歩進むたびに、水の輪が足元で柔らかく広がり、氷の表面を溶かすように押し返していく。砕けた氷片が水に沈み、淡い蒼光に溶けていく様子を見ながら、蓮は自分の呼吸が少しずつ落ち着いていくのを感じていた。恐怖は消えていない。それでも、不思議なほど身体は軽かった。
結界の外では、なおも氷の嵐が渦巻いている。
澪の周囲だけが、異様なほど冷たく静まり返っていた。彼女の髪は白い霜をまとったように揺れ、蒼い瞳はどこか遠くの世界を見つめている。その視線の先には、蓮ではなく、深く沈んだ海の底に続く見えない道があるようだった。
「澪。」
蓮は呼びかけながら、さらに距離を詰める。
結界の光が彼の動きに合わせて波紋のように広がり、周囲の氷を一つひとつ押し退けていく。ぶつかる冷気は確かに重く、何度も身体を引き戻そうとするが、そのたびに足元の水が力強く支えてくれた。水龍の存在が背後から静かに寄り添っているのを感じる。振り向かなくても分かる。龍はずっとそこにいる。
澪の指先が、ゆっくりと持ち上がる。
次の瞬間、氷の槍がいくつも空中に形を成し、蓮へ向かって放たれた。だが結界に触れた途端、それらはまるで力を失ったように軌道を逸らし、蒼い光に弾かれて砕け散る。細かな氷の粒が雪のように降り注ぎ、結界の表面を滑り落ちて水へと変わっていった。
蓮は歩みを止めない。
むしろ、その一歩一歩が確信に変わっていくのを感じていた。これは攻めるための力ではない。守るための力だ。守りたい相手のもとへ、必ず辿り着くための力。
「戻れよ。」
声は強くはない。だが、真っ直ぐだった。
「急にそんなところまで行くな。澪に何が起こっているのかわからないけど、少なくとも妖怪の好きにはさせねぇ。」
結界の光がさらに強く脈動する。
それはまるで海の鼓動そのもののように、静かに、しかし確実に澪の方へと広がっていった。冷え切っていた空気がわずかに緩み、凍りついていた波の表面が細かく震え始める。蒼い光が彼女の足元に触れた瞬間、氷の圧がほんの少しだけ緩んだ。
澪の瞳が微かに動く。遠い焦点が、ゆっくりと近づいてくる。
結界の光は優しく包み込むように彼女を取り囲み、凍りついた冷気を一層ずつ剥がしていく。まるで固く閉ざされた扉を、内側から静かにノックしているようだった。
「澪、来たぞ。もう大丈夫。俺がいる。」
蓮はついに手の届く距離まで近づき、結界が二人を同時に包み込んだ。その瞬間、激しく吹き荒れていた氷の嵐が一度だけ大きく逆巻き、最後の抵抗のように空へと舞い上がった。だが蒼い光に触れたそれらは、次々と力を失い、細かな水滴となって落ちていく。
澪の唇が震えた。
閉じかけていた瞼が、ゆっくりと開き、そして、蓮の姿を映した。
催眠の霧が、静かに晴れていく。
氷の世界が崩れ始め、結界の中で、ようやく二人の呼吸が同じ速さで重なった。
蓮の周りの蒼い結界の光が、ゆっくりと弱まっていき、澪の瞳に残っていた冷たい輝きが、波の引くように静かに消えていく。
その瞬間、澪の身体が、ふらりと揺れる。
「澪!!」
蓮が思わず呼ぶ。次の瞬間、彼女の膝から力が抜けた。海の上で崩れ落ちそうになる身体を、蓮は咄嗟に抱き止めた。巻き込んでしまった自責の念で、胸の奥が締めつけられた。
「おい、しっかりしろ。」
肩を支えながら顔を覗き込むと、澪の呼吸は浅いが、確かに続いていた。蓮がホッとしていると、やがて、ゆっくりと瞼が動いた。
「蓮?私…。」
かすれた声。焦点の定まらない瞳が、少しずつ彼の姿を捉えていった。




