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第51話 「澪」と「心喰ノ海女」

「そんなことあるわけないだろ。夢の話だって。万が一、小さい頃のように何か見えたら、その時は…。」


 少し考えてから言う。


「一人で行くな。」


 蓮の返事はそれだけだったが、彼女にはそれだけで十分だった。


「うん。」


 澪は短く再びニコリと笑い、どこか安心したようだった。昔の幼馴染だったころのように、頼りにされていると感じた蓮は少し照れくさそうにつぶやいた。


「俺が守る。」


 静かな時間が、まだ続いている。


「ねぇ見て見て!」


 芽衣が急に声を上げた。貝殻を拾って掲げる。


「これハートっぽくない!?」

「どこがだよ」

「ここ!ここ曲線が!」

「無理があるな。」

「蓮って夢がないよね。」

「現実派なんだよ!」

「青春には夢が必要なの!」


 芽衣は笑う。澪はそのやり取りを静かに見ている。少しだけ。ほんの少しだけ口元が緩む。その時。風が変わった。潮の匂いが濃くなる。遠く。港の方で。


 ドンッ


 重い波音。船がぶつかったような低い響き。芽衣が首をかしげる。


「今のなに?」


 蓮は答えずに、海を見た。さっきまで穏やかだった水面が、わずかに揺れている。

 澪が呟いた。


「近い。」

「え?」

「海の音。」


 蓮の背筋に冷たいものが走る。空気が静かに張り詰めていく。

 芽衣が一歩、海に近づいた。


「ねぇ大丈夫?なんかちょっと。」


 その瞬間。海が、大きくうねるとともに、一気に潮が引き、波の音が、急に遠くなった。芽衣が首を傾げる。


「なにこれ?地震?津波の引き潮?揺れなかったよね?」


 一歩、波打ち際に近づく。


「それ以上海に近づくな!!」


 蓮は叫んだ。

 風が止まる。約10mほど引いた海面が、不自然に凪ぐ。鏡のように。

 澪が、ぽつりと呟いた。


「来る。」


 その瞬間。水面の中央が、ゆっくりと膨らんだ。黒い影が浮かび上がる。長い髪。濡れた白い腕。顔は半分しか見えない。だが。口元だけが、笑っていた。

 海が、低く鳴る。


「ねぇ。」


 声がした。耳元で囁かれたような。どこからともなく響く声。


「寂しいでしょう?」


 芽衣の足が止まる。


「えっ?」


 瞳が、わずかに揺れる。


「みんな、置いていくでしょう?」

「そんな。」


 芽衣の呼吸が浅くなる。幼い頃の記憶。一人で待っていた夕暮れ。誰も来なかった校庭。胸の奥に沈んでいたものが、浮かび上がる。


「しっかりしろ、芽衣!聞くな!耳をふさげ!」


 蓮が叫ぶ。だがすでに手遅れだった。長い指が、水面から伸びる。芽衣の額を指さすと、


 ――ふっ


 芽衣の力が抜け、崩れ落ちるように砂に倒れ込んだ。


「芽衣!!」


 蓮が駆け寄る。呼吸はある。だが、意識がない。まるで眠っているようだ。その時だった。海が、もう一度揺れた。妖の視線が、ゆっくりと動く。次に向いた先。


 澪。


 目が合い、時間が止るかのようだ。澪の表情が、消える。


「きれい…。」


 小さく呟く。まるで夢を見るように。


「光ってる。」


 足が勝手に、海へ向かって歩き出した。


「澪!行くな、止まれ。なんなんだ、あの妖は!」


 呼び止めても、止まらない。まるで、聞こえていない。妖の声が、また響く。


「あなた、選ばれたの。深い海の声が、分かるでしょう?」


 澪の瞳に、淡い蒼い光が宿る。澪が引き寄せられている。操られているようだ。蓮の心臓が強く打つ。

(やめろ!また失ってしまう。兄の時のように。)


 今起きている事に対処できず、声にならない。兄の役に立てなかった後悔が、胸を焼く。澪の足が、海水に触れ、海面が不気味に輝く。冷たい波が、彼女を包む。次の瞬間。

 海面が、凍った。


 パキン


、と。

 小さな音。朝の光を受けて、白く蒼く輝く。


「澪?」


 蓮の声が震える。蒼い目をした澪に返事はない。

 ただ沖合に向けて、ゆっくりと歩き続けた。裸足の足元で、氷が次々と生まれていく。まるで海が彼女を迎え入れるように。妖の声が、低く響いた。


「そう……その力。深いところの冷たさを知っている。」


 澪の瞳が、一層蒼く染まり、光が増す。感情のない表情。夢を見ているような顔。


「静かね。」


 澪が呟く。


「なんて、静かなの?」


 その言葉と同時に、空気が急激に冷えた。白い吐息が、蓮の口から漏れる。

 真夏なのに、砂浜の水たまりが凍り始めた。澪の周辺の波の先端が、結晶のように固まり始め、それを目の当たりにしている蓮の背筋に寒気が走った。


(違う。これは水の力じゃない。もっと深い。もっと閉ざされた場所の力だ。深海か?瀬戸内にはそんな深海も、凍る海もない。澪は幼馴染で、小さい頃からよく遊んでいたけれど…なんの力だ?澪の力なのか?)


「澪、戻れ!」


 蓮は、渾身の力を振り絞って叫んだ。だが届かない。

 澪の手がゆっくりと持ち上がり、横に揺らすと、指先から白い霧が発生した。空気中の水分が凍りつく。細い氷の結晶が舞う。まるで雪のように。

 しかし、その冷気は、触れれば命を奪うような、底知れない冷たさだった。海面がさらに凍り広がる。波が、動きを止め、潮騒が消えた。妖が笑う。


「いい子。そのまま、こちらへ来なさい。」


 澪の足が止まらない。まっすぐ氷の道を歩く。蓮の心臓が激しく鳴った。怖い。このまま行けば、澪は戻らない。間違いない、そう直感が告げていた。

 澪は虚ろな瞳のまま、静かに、確実に、深みへと歩いていく。足元で凍りつく波。砕けることなく広がる白い世界。一方で、芽衣は砂浜に倒れたまま動かない。


「澪」


 蓮の喉が乾く。近づこうと踏み出した足元が、冷気で凍てつく。その時だった。


「あの子、要チェックだって言ったでしょ?」


 ひょこっと、足元から、小さな顔が出る。髪を揺らしながら、いつもの調子で少女が現れた。


「今かよ。今それどころじゃねぇ。」


 蓮が思わず眉をしかめる。


「わかってるわよ。」


 なぎは両手を後ろに組みながら、氷の海をじっと見つめた。小学生くらいの姿。だが瞳の奥は、海より古い。


「やっぱりね。淀みが形になってるわ。」


 その声だけが、少し低い。蓮の表情が変わる。


「なぎ、あいつ、何だ?」


 海の中央。半身だけ現れた女が、静かに笑っている。濡れた黒髪が水面に揺らめき、白い腕が、澪を呼ぶように伸びていた。アマビエは小さく息を吐く。


「心喰ノ海女しんじきのみあま幽汐ゆうせきね。」


 波が低く唸る。


「溺れて死んだ巫女の怨念がね、長い時間、海の底で人の心を喰い続けてこうなったの。」


 蓮の拳が震える。


「弱い記憶とか、後悔とか、寂しさとか。そういう“隙間”に入り込むのが得意なの。」


 なぎは澪を見る。


「今あの子は、自分の内側の海に引きずられてる。しかも、あれはあの子の力ね。だから要チェックって言ったのに。」


 少しフンッという顔をしつつも、蓮に協力しようという雰囲気は感じ取れた。澪の周囲で、さらに氷が広がる。吐息が白く濁り、空気が凍りつく。蓮の胸が締めつけられる。


「戻せるのか?お前の凪泡で何とかしてくれよ。」


 絞り出すような声。なぎはちらっと横目で蓮を見ると、にやっと笑った。


「何言ってんのよ。あんたが戻すの。あたしは、予言はできるし、けがは治せるけど、心は治せない。そんな力ないもの。」

「俺はまだ無理だ。何とかならないのか?」

「今のあんたなら何とかできるわ。いい線いってるって言ったでしょ?」


 小さな指で海を指す。


「海はもうあんたを呼んでる。怖いのは分かるけど、ここで逃げたら一生ダメ蓮よ?」


 蓮の心臓が強く鳴る。視線が澪へ戻る。守りたい。ただそれだけだった。


「蒼海に響け、滄牙丸。」


 低く呟く。次の瞬間、光が集まり、蓮の左手に蒼い刀身の神器が顕現すると同時に、幽汐めがけて振り抜いた。

 海が爆ぜ、蒼い水光が、刃からほとばしる。足元の波が巻き上がる。氷の世界の中で、水だけが生き物のように動き出す。空気が震える。蓮は氷の道へ踏み出した。一歩。氷が砕けない。いや、結界で水が彼を押し上げている。


「澪!!」


 叫びが海を裂く。少女の足が、ほんのわずかに止まる。幽汐の瞳が細くなる。背後で、アマビエがぽつりと呟く。


「そう、それでいい。まずは、持ってる力を全力でぶつけるの。」


 小さく笑った。


「やっと“海の子”らしい顔になったじゃない。」


 冷気が刃のように肌を切り、蓮は滄牙丸を構えたまま、一歩ずつ澪へ近づいていく。

 足元で、水が押し返す。氷と水がぶつかり合い、白い霧が立ち上る。澪は振り向かず、ただ歩き続けていた。海の中央へ。幽汐の声が、低く響く。


「もう手遅れ。その子はもう、深みに触れている。」


 澪に指示するかのように、幽汐が白い手を振った。氷が一気に広がる。次の瞬間。無数の氷柱が海面から突き上がった。


 ズドンッ


 蓮の身体を狙う。咄嗟に滄牙丸で受け、蒼い水光が弾ける。だが、衝撃が腕を貫いた。


「っ!」


 足元が氷で滑る。何とかこらえたと思いきや、次の氷刃が横から走った。肩をかすめ、シュパッと血が散った。冷気が傷口を凍らせる。鈍い痛み。それでも、蓮は止まらない。


「澪。」


 低く呼ぶ。氷の嵐の中で、少女の背中だけが遠い。幽汐が笑う。


「心を凍らせる方が、死ぬより楽でしょう?」


 海がさらに荒れ、澪の周囲で氷が暴走する。白い霧が渦を巻き、空まで凍りつきそうな冷たさ。

 蓮は膝をつきかけ、傷の痛みのせいもあり、視界が揺れていた。

 それでも。

 刀を地面に突き立て、立ち上がる。


「ふざけんな。」


 息が白く漏れた。

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