第48話 蓮の結界
武吉は、能島の潮へ向き直る。
「さあ、今一度やってみろ。まずは結界じゃ。」
蓮は、足元の潮を見た。
寄せては引く波。
ぶつかり、分かれ、また戻ってくる流れ。
今までなら、その言葉を聞いただけで胸が重くなっていた。また失敗する。また割れる。また、自分の未熟さを思い知らされる。
だが、今は違った。
武吉の言葉が、胸の奥に残っている。
――兄の船に乗るな。自分の船を出せ。
蓮は、滄牙丸を握り直した。
「……やってみる。」
その声に、さっきまでの焦りはなかった。
「今なら、少しだけ分かる気がする。作るんじゃない。張るんでもない。流れを、行くべき場所へ導く。」
武吉が、にやりと笑う。
「ほう。少しは顔つきが変わったのう。」
蓮は、海を見たまま言う。
「できないまま終わるより、何回でもやった方がマシだ。」
なぎが、蓮のそばへ寄った。
「蓮、たぶん、押したらダメ。さっきみたいに、寄せる波と引く波、ちゃんと聞いて。」
「分かってる。」
蓮は小さく頷いた。
「無理に押さない。止めない。海が行きたがってる方見て、流す。流れに任せて、あわせ、力を加速させる。」
武吉が、満足げに頷く。
「聞け。聞こえぬなら、待て。潮は急かす者には答えん。」
蓮は、ゆっくりと息を吸った。
寄せる波に合わせる。
引く波に合わせる。
押し出さない。
止めない。
ただ、流れの行き先を感じる。
ザザン、サーーー、ザザン、サーーー
徐々に呼吸と波が同調し始める。
刹那、滄牙丸の濡れていないはずの刃先から、水が一滴落ちた。
その水は砂に染み込まず、蓮の足元で薄く広がっていく。
流れに沿って円状に広がったた水が、やがて淡い光を帯びた。
円の内側だけ、波音が少し遠のく。
蓮の足元を中心に、半球状の透明な膜がふわりと立ち上がった。
膝にも届かないほど低く、指で触れれば破れてしまいそうなほど薄い。
それでも、確かに外の潮と内側の空気を隔てている。
壁ではない。
閉じ込める檻でもない。
潮の流れを読み、その一部だけを静かに囲い、整えるための小さな境界。
「……これ」
蓮は息を呑む。
今までのように、弾けて消えない。
薄く、頼りなく、けれど確かに、足元に結界が残っている。
なぎが、目を丸くした。
「できてるんじゃない?」
「これって、結界なのか?全部を覆えてない。」
「でも、昨日みたいに、パンッて割れてないじゃん。」
武吉は満足げに笑った。
「ほう。まずは、小舟一艘分ってところじゃな。」
「小舟一艘分か…。」
「馬鹿者。海で最初に沈まぬ船を出すのが、どれだけ大事か分からんのか。」
なぎがぷっと笑う。
「小舟一艘分かぁ。蓮らしいね。」
「どういう意味だよ。」
「ちっちゃいけど、沈まないってこと。」
「褒めてるのか、それ。」
「たぶん。」
武吉は、にやりと歯を見せた。
「小僧。お前の結界は、壁ではない。海路じゃ。忘れるな。」
その言葉を最後に、武吉の輪郭が潮風に揺らいだ。
「待って。まだ聞きたいことが…。」
「また来い。能島の潮が、お前を認めておれば自然と導かれる。」
武吉は豪快に笑った。
「それまで、沈むなよ。村上蓮。」
そして、なぎへ視線を向ける。
「なぎ。小僧が流れを見失いそうになったら、耳を引っ張ってでも海へ向かせろ。」
「え、あたし?」
「お前は海の痛みを知っておる。ならば、そばで見ておけ。」
なぎは一瞬だけ驚き、それから小さく胸を張った。
「ま、まあ、しょうがないから見ててあげるわ。」
「偉そうだな。」
「蓮よりは分かってるもん。」
武吉は最後に、能島の海を見渡した。
「よい。妙な二人じゃが、海にはそれくらいがちょうどよい。」
ざん、と波が立つ。
次の瞬間、武吉の姿は潮の中へ溶けていた。蓮は、しばらくその場に立ち尽くす。
足元には、まだ薄い水の円が残っている。なぎが、そっと横から覗き込んだ。
「……ねえ、蓮。」
「なんだ。」
「今の人、怖そうだったけど……なんか、あったかかったね。」
蓮は、海を見た。
「豪快すぎる先祖だったな。」
「あと、ちょっと雑。」
「それは思った。まぁ、あれぐらいじゃないと海の大将は務まらんってことだろ。」
「あと、滄牙丸の顕号も変えないとだな。海は裂いちゃいけない。」
二人は少しだけ笑った。
その笑いを、能島の潮が静かにさらっていく。
まだ結界とは呼べない。けれど、蓮は初めて知った。自分が作るべきものは、壁ではない。流れを渡すための、海路なのだ。
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修行を始めて、5日が過ぎた。蓮は、小さな結界こそ張れるようになったが、焦りもあり、相変わらずもがく日々を送っていた。
「少しつかんだんだ。もう少し付き合ってくれないか、義久さん。」
「俺はいつまでも、付き合うぜ。蒼玄斎様からも頼まれてるからな。実は、表には出していないが、かなり心配されておられた。本音では、期待してると思う。まぁ、要として大成してもらわないと瀬戸内がどえらいことになるかもしれないからな。」
「プレッシャーだな。村上の血を引いている限りは…宿命ってことか。今時、宿命なんて流行らないけど。」
今日は、潮の流れが違う。静かなのに、海そのものが息を潜めているようだった。
蓮が、目を閉じて、波と呼吸を合わせていたその時、
「戻られたか。」
義久が小さく呟いた。その視線の先。一人の老人が岩の上に立っていた。藍色の衣を潮風になびかせ、海を見下ろしている。蒼玄斎。因島を離れていたはずの男が、いつの間にかそこにいた。
「えらく時間がかかっておられましたな、蒼玄斎様。下関はいかがでしたか?」
蒼玄斎は振り向きもせず答えた。
「海が騒いでおってな。帰りの寄り道が増えたわい。」
相変わらず、にじみ出る重圧に義久は事の重大さを理解した。颯月が一歩前に出る。
「何か、あったんですね。」
しばしの沈黙の後、やがて蒼玄斎はゆっくり振り返った。その目は、深い海の底のように静かだった。
「やはり、瀬戸内の異変の原因は下関じゃ。」
空気が張り詰める。蓮は思わず顔を上げた。
「下関?」
「壇ノ浦の潮が、再び濁り始めた。草薙剣じゃ。何者かに奪われた。」
低い声だった。義久の表情が変わる。
「あの、壇之浦の源平合戦の時に、幼い天皇と共に沈んだといわれている神器ですか。まさか、実在していたとは…。やはり、三種の神器と言われるだけあって、力は相当なものだと?」
蒼玄斎は頷いた。
「あくまで言い伝えであり、真であったとしても妖怪では扱えぬと思っておったが。三種の神器の一つを扱えるとなると、しかるべき力も持ち合わせておると考えざるをえまい。」
少しの間、考えを巡らせるように押し黙ってから、重々しく言った。
「ゆえに、決めた。」
一拍。
「七日後、八海神・要会議を開く。」
その言葉は、波より重く響いた。蓮の胸がざわつく。
<要会議>
それは、各地の最強と言われる守り手が、一堂に集まる非常時のみの集い。ここ数十年開かれてなかったはず。
「場所は?」
義久が問う。
「総本山・金刀比羅宮じゃ。」
蒼玄斎の目が細まる。
「古き誓いの地にて、再び潮を定める。」
瀬戸内が、日本が動き始めている。それを誰もが理解していた。ただ一人を除いて。
蓮。
自分だけが、まだ何もできない。結界すら張れない。胸の奥に重いものが沈む。蒼玄斎の視線が一瞬だけ蓮へ向く。
「因島の要として、出席せよ。」
その一言が、ズシリと重く胸に刺さった。




