第47話 能島の水軍大将 「村上 武吉」
「ちょ、ちょっと待って。」
岩陰から、聞き慣れた声がした。
蓮が振り返ると、小さな少女姿のなぎが、岩場の影から顔だけを出していた。いつものような強気な顔ではない。目を丸くし、男を凝視している。
「お前、またついてきたのかよ。」
「つ、ついてきたんじゃないし!海の感じが変だったから見に来ただけだし!確かにダメ蓮を見に行くって言ったけど…。」
「結局ついてきてんじゃないかよ。」
「うるさい。今はそれどころじゃないでしょ。」
なぎは、男から目を離さなかった。
「また、強そうなじじいが出てきたけど、あれ、普通の霊じゃない。」
その言葉に、男がぎょろりと目を向けた。
「ほう。小さき海の妖か。」
低く、腹に響く声だった。
「しかも、名を持っておるな。」
なぎの肩が、びくりと跳ねる。
「な、なんで分かるのよ。」
男は豪快に笑った。
「海を渡る者は、名の重さを知っておる。名を持つものと持たぬものでは、潮の響きが違うわ。」
「潮の響き……?」
なぎは、思わず自分の胸元を押さえた。蓮がつけた「なぎ」という名前が、そこで小さく脈打った気がした。男は、今度は蓮を見る。
そして、腹の底から笑った。
「ガハハハハハ。見えとるのか、小僧。」
「見えてるぜ。お前、何だ?」
蓮は滄牙丸を構え、臨戦態勢のまま聞いた。
「何だ、か。能島の海で、わしにそれを聞くとは、お前はそれでも村上か?」
男は、潮風を受けるように胸を張った。
「わしは村上武吉。能島村上の名を背負い、この潮を闊歩した者よ。」
蓮の息が止まる。
「村上……武吉……」
その名を口にした瞬間、滄牙丸が低く鳴った。聞いたことのある名だった。
村上水軍。
能島を本拠地として瀬戸内海の覇権を握った、水軍大将。自分の血の、はるか先に立つ名。
なぎが、蓮の横で小さく呟いた。
「村上って、蓮と同じ?」
「ああ。」
蓮は、目の前の男から視線を逸らせないまま答える。
「俺の先祖だ。」
「先祖?!」
なぎは、改めて武吉を見る。
「どうりで、海が変な感じするわけね。妖の気配でも、怨霊の気配でもない。この辺りの海に、その人の名前が刻まれているみたいだもの。」
武吉が、にやりと笑う。
「よく分かっているではないか、小娘。」
「小娘じゃないし。あたしには、『なぎ』って名前があるんですけど!」
「はっはっは!そうか、『なぎ』か。よい名じゃ。荒れた潮を静める名だ。」
なぎは、少しだけ頬を赤くした。
「べ、別に褒められても嬉しくないし。」
「嬉しそうだぞ。」
蓮がぼそっと言う。
武吉は二人を見比べ、さらに愉快そうに笑った。
「妙な組み合わせじゃのう。村上の小僧と、名を得た海の妖か。」
蓮は警戒を解かないまま言った。
「なんで、俺の前に出てきた。」
「出てきたとは失敬な。わしはいつでもここにおる。わしの本拠地だからな。」
武吉は肩をすくめる。
「これまで村上の血を引く者は、何人もこの海へ来た。お前の兄も来たぞ。涛、と言うたか。」
蓮の表情が変わる。
「兄さんを……知ってるのか。」
「ああ。あやつも悪くなかった。強かった。刃も鋭い。海を斬る才はあった。」
武吉は、じっと蓮を見る。
「だが、わしは見えなんだ。」
蓮の心臓が、ドクンと脈打つ。
「兄さんには、見えなかった?」
「そうじゃ。」
武吉は、能島の潮へ目を向ける。
「涛は海を斬ろうとした。強き者じゃった。だが、お前は違う。お前は今、海に聞こうとした。」
なぎが、横からぽつりと言った。
「蓮、ずっと分からないって顔してたもんね。」
「余計なこと言うな。」
「でも本当でしょ。海の力を借りるって、どうすんだよーって、ずっと悩んでたじゃん。」
「お前、どこから見てた。」
「えーっと……途中から?」
「絶対最初からだろ。」
武吉は、そのやり取りを見て、また豪快に笑った。
「よい。迷うのは悪いことではない。迷う者は、流れを探す。」
蓮は、滄牙丸を握りしめる。
「俺は、結界も張れない。」
「知っておる。」
「見てたのかよ。」
「わしを誰だと思っておる?瀬戸内の中で起こっておるだいたいのことは知っておるわ。」
武吉は、ざぶりと波の中へ一歩踏み出した。
霊であるはずの足元で、潮が確かに割れる。
「いいか、小僧。水軍とは、ただ奪う者ではない。海の上で生きる者は、潮を知らねば死ぬ。風を読めねば沈む。流れに逆らえば、船も人ものみこまれる。」
武吉の声が、能島の海に響いた。
「村上は、海を支配したのではない。海に許される道を知っておっただけじゃ。」
蓮は、息を呑む。
「海に……許される道。」
「そうよ。」
武吉は笑った。
「通るべき潮を通る。待つべき時を待つ。退くべき時に退き、攻めるべき時に一気に喰らいつく。それが海の戦じゃ。」
なぎが、腕を組んで頷く。
「それ、海の妖から見ても分かる。勝てもしないのに無理やり押す人間って、海から嫌われるのよね。」
「そうなのか?」
「そうよ。海って、力ずくでどうにかしようとすると、すぐ怒るから。」
武吉が満足げに頷いた。
「この小娘、なかなか分かっておる。」
「だから小娘じゃないってば!」
「はっはっは!」
蓮は二人を見て、少しだけ肩の力が抜けた。
武吉は、再び蓮へ向き直る。
「結界も同じじゃろう。壁を作ろうとするから割れる。お前は海を止めようとしておる。」
その言葉に、蓮の肩が揺れた。
「止める……。」
「止めるな。囲うな。流れを読め。流れの行き先を決めろ。」
武吉は蓮の目をまっすぐに見た。
「村上の要とは、海に壁を立てる者ではない。潮の道を決める者じゃ。」
蒼玄斎と同じことを言っている。
けれど、響きが違う。
蒼玄斎の言葉が、海を知る老人の教えなら、武吉の言葉は、実際に海で生き、海で勝ち、海で名を残した男の叫びだった。
蓮の胸の奥で、水が震える。
「俺に……できるのか。」
武吉は鼻で笑った。
「知らん。」
「そこはできるって言うところだろ。」
「馬鹿を言え。できるかどうかは、お前が決めることじゃ。」
「あなたの先祖、けっこう雑よね。」
なぎがぼそっと言った。
「おい。失礼だろ。ってか、ブチ切れたら、俺らなんかすぐ消し飛ばされるんじゃないのか?めちゃ強そうだし。」
「だって本当じゃん。」
武吉は怒るどころか、腹を抱えて笑った。
「よいぞ、なぎ。海の者はそれくらい口が回らねばならん。」
「褒められてる気がしないんだけど。」
「なんでお前、そんなに強気なんだよ…」
蓮の心配とは裏腹に、武吉は笑みを残したまま蓮を見る。
「だが、見えておる。わしが見えておる。ならば、海と村上の血はお前を完全には見捨てておらん。」
蓮は、息を呑む。
「涛には見えなんだ。蒼玄斎にも、若き頃は見えなんだ。だが、お前には見えた。」
「それって、俺が強いってことか?」
「違う。」
即答だった。
「お前は弱い。」
「はっきり言うなよ。」
蓮はがっくりと肩を落とす。
「弱い。迷う。怖がる。すぐ背負いすぎる。だがな…。」
武吉は、にやりと笑った。
「弱いからこそ、流れを探す。自分だけで進めぬから、海に耳を貸す。そこが、面白い。」
なぎが、蓮をちらりと見上げた。
「まあ、弱いのは否定しないけどね。」
「お前まで言うな。お前も弱いって言われてただろ。」
「でも、そこがいいんじゃない?」
蓮が言葉に詰まる。なぎは少し慌てたようにそっぽを向いた。
「べ、別に褒めたわけじゃないし。海に聞こうとしてるのは、悪くないってだけ。」
武吉は、ニヤリとして蓮に問う。
「小僧。名は。」
「村上蓮。」
「蓮か。泥の中から咲く花の名じゃな。」
武吉は腕を組む。
「ならば沈め。沈んで、根を張れ。水の中で息を覚えろ。海の底を知らぬ者に、海の上は渡れぬ」
蓮は、滄牙丸を見下ろした。
「俺は、兄さんみたいにはなれない。」
「ならんでよい。」
武吉の声が、強く響いた。
「涛は涛。お前は蓮。兄の船に乗るな。自分の船を出せ。」
その言葉が、蓮の胸を深く打った。
なぎも、珍しく何も言わなかった。
ただ、蓮の横で、静かにその言葉を聞いていた。




