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第46話 能島の潮

 翌朝。空は厚い雲に覆われ、海の色もどこか鈍く沈んでいた。しかし、蓮の心の中は、少し晴れやかだった。修行場となっている断崖へ義久と向かう途中、蓮は少し昨日の友達とのかけがえのない日々、なぎとの会話を思い出し、足を止めた。


「義久さん、船を出してくれませんか?」

「どうした?どこに行くってんだ?」

「ちょっと思うところがあって。」

「ほぅ。何か考えがあるみたいだな。わかった。付き合うぜ。」


 2人で港に向かう途中、なぎの言葉を思い出していた。


「海の力、借りてみれば?」


 妖怪ながら、いかにも思い付きっぽく軽く言ったようでいて、不思議と胸に残っている。


「海の力、か。」


 港に着くと、蓮は小さく呟き、船へ乗り込んだ。行き先は決まっていた。


 能島。


 かつて村上水軍が本拠とした島。自分の血が、どこから来たのかを示す場所。船が島影へ近づくにつれ、潮の流れが変わっていく。渦を巻くような海流。今は何も残っていないが、潮の流れが複雑すぎて、簡単に船で近づけないことから、村上水軍の城があった場所。穏やかに見えて、内側では強い力がぶつかり合っている。


「速いな。」


 思わず息を呑む。瀬戸内の海は静かだと思っていた。だがここは違う。

(生きている。)

 そう感じた瞬間だった。

 能島へ降り立つと、人の気配はほとんどなかった。


 石垣の跡。

 崩れた礎。

 風に削られた岩。

 歴史の残骸が、静かに時間を語っている。


「義久さん、ここからは一人でやってみます。夕方になったら迎えに来てもらえませんか?」

「なるほど。なんかあったのか?ちょっとは成長したみてえだな。わかった。頑張れよ。」


 そう言って、エンジンをかけなおすと、義久は因島の港に戻っていった。

 蓮は、かつて城があった高台の中心に立ち、周りを見渡した。10時をまわり、晴れ間が広がると、遠くには瀬戸内で宝石と言われた島々と青い海、しまなみ海道の白い大橋が、キャンパスに描かれた絵画のように光り輝いていた。しかし、その雄大な景色とは相対して、足元では蓮の修行を手伝うかのように、荒々しい波と潮の流れが渦巻いていた。


「ここなら。」

「蒼海を裂け 神器 滄牙丸」


 名を呼ぶと、少し青い輝きを放つ光が集まり、滄牙丸が姿を現した。青い光を帯びている刀身は、いかにも海の要が使うにふさわしい風貌をしている。


「俺は、こいつも使いこなせてないな。」


 これまでの修行を思い出す。結界は張れないし何度やっても崩れる。義久、颯月の助言。

 そして、なぎの言葉。


 “力を借りればいい”。


「借りるって、どうすんだよ。どいつもこいつも、簡単に言ってくれるぜ。」


 独り言と共に、自分の不甲斐なさに苦笑する。だが今回は、作ろうとはしなかった。張ろうとも思わない。その場で正座をし、ただ、耳を澄ます。


 波の音。

 風。

 潮の匂い。

 遠くでぶつかる海流の低いうなり。


 しばらく何も起きず、時間だけが過ぎていった。


(やっぱ、分かんねぇか。)


 焦りが胸に滲む。結界も張れない。水龍の声も、はっきりとは届かない。自分は本当に“継ぐ者”なのか。その疑念、諦めの気持ちと共に、そろそろ迎えに来てくれる義久の船を待つため、海岸線まで下りることにした。海辺で、荒くれた潮の流れを見ながら、


「この海の力、でけえのはわかってる。けど、どうやって感じ、使えってんだ!」


 どうしようもない怒り、自分の不甲斐なさで押しつぶされそうになる、その時だった。不意に、足元の砂がわずかに崩れた。引き波だ。さっきまで気にも留めなかった動き。だが、蓮はふと、その“引き”に意識を向けた。


 寄せる波ではなく、引く波。

 前へ出る力ではなく、退く力。


 さっきまで自分は、海に何かを求めていた。“くれ”と。“応えろ”と。だが。


(……違うのか?)


 村上水軍。覇者。支配した者。そんな言葉が脳裏をよぎる。

 だが、この海は支配できるものなのか?


 目を閉じる。足の裏に伝わる水の重み。渦の癖。潮の温度差。何かが、わずかに見える。見える、というより“流れ”を感じた。この島の周囲を回る潮。ぶつかり、別れ、再び巡る。それは、戦う力ではなく、繋ぐ力。巡らせる力。その理解が胸に落ちた瞬間、


 ザンッ。


 海岸線に押し寄せる波が、再び、わずかに強く打ち寄せた。同時に。胸の奥が、微かに震えた。


「……?」


 今のは、偶然じゃない。自分が気づいた“瞬間”と、波が重なった。もう一度、波が来る。今度はさっきより柔らかく。まるで確かめるように。蓮は寄せる波に合わせるように、ゆっくり息を吸った。

 次は、吐く。引く波に合わせるように。

 いや、合わせようとしたのではない。いつの間にか、呼吸が同じ速さになっていた。胸の奥で、水が満ちる。荒々しい力ではない。

 大きく、深く、静かなもの。ここにいる。声ではない。だが、確かな存在。能島の海そのものが、薄く目を開けたような感覚。その奥に、さらに深い影。龍の輪郭。

 まだ遠い。だが、今までより、確実に近い。蓮は小さく息を吐いた。


「……俺に、応えてくれたのか?」


 自分に問いかけるような声だった。答えはない。ただ、滄牙丸の刀身が、かすかに震えた。

 寄せる波。引く波。ぶつかり、分かれ、また巡る潮。

 蓮の呼吸と、能島の海が、重なっていく。

 その瞬間。

 ざん、と波が岩場を打ち、大きな水飛沫みずしぶきが跳ね上がった。水飛沫が白い幕のように広がり、次第に潮風へ溶けていく。その幕が晴れた時、ひとりの男が、波打ち際に立っていた。


「……誰だ?」


 蓮は、反射的に滄牙丸を構える。


 濡れた潮風に乱れながらも、後ろで荒く束ねられた髪。

 日に焼けたような精悍な顔。

 肩には古びた羽織を引っかけ、腰には太刀。

 その目は、荒波を睨みつける海賊そのものだった。


 だが、生きている人間ではない。


 足元は波とともに揺らぎ、身体の輪郭は夕陽と潮の中に半ば透けていた。

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