第44話 名前がくれた力
なぎの泡は、さらに蓮の腕にまとわりついていく。細かな擦り傷や、疲労で重くなっていた筋肉を、潮が洗い流すように癒やしていく。
冷たいのに、じんわりと何かで包まれるような温かさが感じられる。
ただの回復ではない。
体にこびりついた疲れや、妖気の残り香まで、少しずつ洗い流している。
「これ、お前の力か?」
「わ、分かんない。あたし、こんなの……今までできなかった。」
なぎは慌てて両手を振る。すると、周囲の泡がふわふわと揺れ、まるで彼女の気持ちに反応するように弾んだ。
淡い泡が、彼女の指先に集まっている。
「なぎ……凪。海が静かになる時の、なぎ……」
なぎは、自分でその意味を噛みしめるように呟いた。
すると、光が少し強くなった。
波打ち際に残っていた黒い妖気の染みが、泡に触れた瞬間、しゅわりと音を立てて薄れていく。まるで、荒れていた海が静かに戻っていくように。
蓮は目を大きく開く。
「なぎ、浄化もできるのか。」
「わかんない、たぶん……少しだけ。大きな傷とか、深い穢れは無理だと思う。でも、軽い傷とか、妖気に当てられて弱ったところなら。」
なぎは、はっとしたように顔を上げる。そして、照れくさそうに笑った。
「あたし、役に立てるかも。修行手伝ってあげるわ。」
「なんで上からなんだよ。まぁ、今までもうるさいくらい役に立ってたろ。」
「うるさいは余計!」
いつもの調子で言い返したなぎだったが、声は弾んでいた。
嬉しさを隠しきれていない。
そのやり取りを見て、颯月がふっと表情を緩めた。
「よかったね、あの子。名前をもらって、居場所も少しもらえたんだと思う。」
義久は、蓮となぎを見ながら、少しだけ口元を緩めた。
「蓮には自覚ないだろうけどな。」
「そこが蓮くんらしいんじゃない?」
「だな。ただ、お前もだが、あいつが妖だってこと、忘れてないか…?」
・・・・・・・・・・・・・
なぎは胸の前で両手を握り、ふふん、と鼻を鳴らした。
「で、いい?今の力、名前つけるから。」
「お前がつけるのかよ。」
「当たり前でしょ。あたしの力なんだから。」
なぎは少し考えるように空を見上げた。それから、自信満々に言った。
「《凪泡》。」
その名を口にした瞬間、彼女の周囲に浮かぶ泡が、ふわりと丸く広がった。 潮の香りがやわらかくなる。蓮の胸の奥に残っていた重さも、ほんの少しだけ軽くなった。
「凪泡……か。」
「うん。傷も、疲れも、ちょっとだけ静める泡。どう? かわいいでしょ?」
「まあ、悪くない。まんまだし。」
「そこは素直にかわいいって言いなさいよ!」
なぎは頬を膨らませた。その頬から、ぷく、と小さな泡が一つ漏れる。
蓮は思わず笑いそうになり、顔を背けた。
「笑ったでしょ。」
「笑ってねぇ。」
「絶対笑った!」
少し離れた場所で、義久が肩を揺らした。
「……あいつら、修行する気あるのか?」
「あるんじゃない?たぶん。」
「たぶんかよ。」
「でも、こういう時間も必要だと思う。蓮くん、ずっと張り詰めてたから。むしろあれが蓮くんの力なのかもしれない。」
颯月の言葉に、義久は少しだけ真顔になった。
「そうだな。今日はこの辺にしとくか。」
義久は短く答えた。
なぎは得意げに尾びれを揺らしながら、蓮の前で胸を張った。
「これからは、あたしが倒れたあんたを《凪泡》で治してあげるから、安心して失敗しなさい」
「失敗前提で言うな。」
「だって、今の蓮、絶対失敗する顔してるもん。」
「お前、やっぱり一回海に返すぞ」
「やだ! 名前つけたんだから、最後まで責任取りなさいよ!」
「なんの責任だよ!」
言い合いながらも、蓮の表情は少しだけ緩んでいた。颯月がそれを見て、静かに笑う。
「兄さん。あの子、残していいと思う。」
「俺も同感だ。うるさいが、役には立つ。」
「うるさいは、本人に言ったら怒るよ。」
「もう何回も言われてるだろ。因島の要がそう決めたなら、妖だろうが、それは仲間だ。」
二人の視線の先で、なぎはぷくぷくと泡を吐きながら、蓮の周りをちょこちょこと動き回っていた。




