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第43話 「なぎ」という名

 蓮は、滄牙丸を見下ろす。

 アマビエとのやり取りで少し気がほぐれたのか、蓮の顔の険しさがなくなっていた。


「何か、始まったっぽいな。でも、じいちゃんが行ったから心配ない。あの、西源寺ってゆう要もいるんだろうし、今は、俺は、俺のできることをやるだけだ。」


 アマビエは、いつものような軽口を叩かなかった。


「へー、なんかちょっと変わったじゃん。」

「うるせぇ。大体状況はわかった。修行の邪魔すんな。結界を張れるようにならないといけないから、少し離れとけよ。」


 アマビエは、まっすぐ蓮を見た。


「追い払わないんだ…。」

「追い払っても、また来るだろ。わざわざ教えに来てくれたしな。海が痛いなら、しばらく因島の近くにいろよ。俺が海を浄化してやる。」

「まだ、結界張れないじゃん。」

「だから、これから…だよ。お前もなんか、手伝えよ。俺の手合わせの相手になるとか…。あーーーでも、お前そういや弱いって言われてたな。」

「弱くない…ってゆうか、何度も言うけど、あたしはそっち系のあやかしじゃないし。失礼しちゃう!」


 意地悪な蓮の言葉に、ふくれっ面になる。


「ごめん、ごめん。そう怒るなって。そうだな、しばらくここに居るなら…、そうだ、お前、名前ないよな。名前つけてやるよ。」

「えっ?」

「だって、お前じゃだめだろ。うーん、そうだな…。」


 しばらく腕を組みながら考える。


「『なぎ』ってどうだ?」

「……なぎ?」

「まぁ、ほら、ちっこいし、あんまり攻撃的じゃないし。口はわるいけど。なぎって、穏やかな海のことなんだよ。」

「なぎ…。なぎ。」


 アマビエは、小さくその名を繰り返した。

 ぽかんとした顔のまま、ぱちぱちと瞬きをする。波打ち際に立つ小さな体が、潮風に揺れた。いつもなら、すぐに口を尖らせて何か言い返してくるはずなのに、その時ばかりは言葉が出てこないらしい。


「なんだよ。嫌なら別に…。」


「嫌じゃない!」


 蓮の言葉を遮るように、アマビエは声を張った。


 頬が、うっすら桃色に染まっていた。動揺のあまり変身が一部解けたのか、今までなかった魚の尾びれのような尻尾が、落ち着きなく砂の上をぱたぱたと叩く。

 今度は、小さな声だった。

 なぎは、胸の前で両手を握りしめる。

 その頬は、少しだけ赤くなっていた。


「どうしたんだよ?」

「え…、えーっと、名前……もらったの、初めてだから。」

「初めて?」


 蓮が首をかしげる。


「うん。みんな、あたしのこと、『アマビエ』とか、『妖怪』とか、『変なの』とか、勝手に呼ぶだけだったから。」

「『変なの』は否定しないけどな。」

「そこは否定してよ!」


 なぎが怒ったように跳ねる。

 蓮は小さく笑った。

 その瞬間だった。

 ざざ、と荒く寄せていた潮が、不意に静まった。

 蓮となぎの足元だけ、波の音が変わる。

 砂浜に残った水の筋が、淡く光を帯び、なぎの小さな身体を包むように揺れた。


「……え?」


 なぎが、自分の手を見る。

 指先に、薄い水色の光が灯っていた。

 それは攻撃の気配ではない。

 もっと柔らかく、傷ついた水を癒やすような、澄んだ光だった。

 少し離れた場所で見ていた義久が、思わず目を見開く。


「……おい、颯月。あれ見ろ。」

「なに?アマビエちゃん、光ってる!」


 颯月の声にも、いつもの軽さはなかった。


「あの子の霊格が上がった感じ。存在の輪郭が、はっきりしてるわ。何したの?」

「蓮が、名前を付けたようだ。」


 義久は、蓮の背中を見る。


「妖に名を与えて、力の形を定める……。そんなこと、普通、できる芸当じゃないぞ。」


 颯月は、なぎの足元に広がる淡い光を見つめた。


「因島の要は、流れを通す者。名前も、存在を通すための“道”なのかもしれない。因島の要の力の一つなのかしら?」

「結界もろくに張れねぇのにか?蒼玄斎様が聞いたら、腰抜かすぞ。」


 二人の会話など知らず、蓮はなぎを見下ろしていた。


「なんだ?お前、光ってるぞ。」

「し、知らないわよ!何したのよ!あんたが名前なんかつけるからでしょ!」

「俺のせいかよ。」

「たぶん、そう!」


 なぎは戸惑いながらも、どこか嬉しそうにしている。

 その胸元で、淡い水色の光が、ふわりと脈打った。

 最初は、海面に反射した光かと思った。

 だが、違う。


 光は、なぎの身体の内側から滲み出ていた。

 名を得たことで、曖昧だった輪郭が少しずつ定まり、眠っていた何かが目を覚まそうとしている。

 なぎが不思議そうに、自分の両手を見下ろす。


「なんか、変な気分。」


 小さな指先が、かすかに震えた。

 すると――。

 泡のような、小さな光の粒。

 それが一つ、また一つと、なぎの手のひらの上に生まれていく。


「おい、お前……。」


「え?」


 なぎ自身も何が起こっているのかわからず、不思議そうに自分の手を見る。

 小さな手のひらの上で光の粒が集まると、ポンッ、ポンッと淡い青色の泡の玉がいくつかできた。

 その泡は、水の玉のように丸く浮かび、柔らかな光を宿している。


「な、なにこれ……?ちょちょ、ちょっと!止められない!」


 なぎが戸惑っていると、その泡がふわふわと蓮に向かって移動を始める。

 蓮は反射的に身構えたが、泡は攻撃してくるわけではないようだ。ふわふわと飛び、そっと、蓮の手の甲に触れた。


「……痛っ。」

「えっ、あっ、ご、ごめんなさい!あたしも、何が何だかわからなくて…。」


「いや……違う。」


 蓮は自分の手を見る。

 修行の途中で擦りむいていた手の甲。砂と潮で少し赤くなっていた傷が、泡に包まれた途端、ゆっくりと薄れていく。完全に消えたわけではない。けれど、痛みは明らかに引いていた。


「傷が……。」


 蓮が呟く。なぎは目を丸くした。


「治ってる?」


 その様子を見て、颯月が小さく息を呑んだ。


「治した?」

「なぎ、か。」


 義久が目を細める。


「アマビエは、もともと疫病を退散させる力を持っているって聞いたことがある。まさか、蓮が妖の力を開花させたの?」


 颯月の声には、少しだけ驚きが混じっていた。

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