第42話 未完の要
時を同じくして…
蒼玄斎が出発した日の午後、炎天下になりつつある空の下、因島の断崖に波の音だけが響いている。村上蓮は海岸の岩場の中央に立ち、静かに息を整えていた。
手元には滄牙丸。潮の気配に呼応するように、刃がかすかに震えている。
「始めます。」
そう言って滄牙丸を前に出した瞬間。
「力入りすぎだ。」
すぐさま、背後から義久の声が飛ぶ。岩壁にもたれ、腕を組んで蓮の鍛錬を見守っていた。いや、義久に稽古をつけてもらっているが正解か。
「結界は気合いで作るもんじゃねぇ。」
少し離れた場所で、颯月が穏やかに微笑む。
「大丈夫。焦らなくていいわ、蓮。時間はまだあるんだから。」
彼女の声は朝の風のように静かだった。
「あなたは、因島の要。流れを作る者。まずは、海を感じることが大事なんじゃない?」
蓮は目を閉じる。
波の音。潮の匂い。冷たい空気。
すべてを掴もうと意識を集中させる。
空気が歪み、淡い光が生まれる。
(このまま結界を大きく!)
そう思った瞬間、シャボン玉のような透明の結界が、形を保てず弾け散った。乾いたパンッという破裂音が岩場に響く。
「……っ!」
蓮は息を乱した。颯月が静かに歩み寄る。
「今、力づくで広げようとしたでしょう?結界は、厚みじゃないの。」
図星だった。
「守らなきゃ、厚くしなきゃって思うほど、力が入って、結界が固くなるの。固くなったら広げようとすると割れてしまう。イメージは、風船ね。」
彼女は海へ視線を向けた。
「結界はコンクリートの壁じゃない。どれだけ広がっても、結界の強さは、後からついてくる。神獣の力も借りられれば、さらに強くなる。蓮にはまだ早いけどね。」
義久が短く言う。
「もう一回。」
蓮は頷いた。再び集中する。今度は力を抜く。波に合わせるように呼吸を整える。空間がわずかに揺れる。水紋のような光が広がり、形になりかけた。
だが。
ぐらり、と歪み、音もなく消えた。蓮は拳を握る。
「なんでだ!結界でさえ張れないなんて、綾の足元にも及ばない。要になんてなれない。」
「考えすぎだな。」
義久は即答した。
「頭で作ろうとしてる。」
颯月が優しく続ける。
「でも、感じるのは上手になってるわ。でも、“委ねる”のがまだ怖いのね。結界は、自分だけの力じゃないの。自分の力、海の力、海にすむ命の力、神獣の力を感じて、結界に流し込む。そんな感じかな。」
その言葉に、蓮の肩がわずかに揺れた。兄の背中が脳裏をよぎる。守れなかった記憶。遅れた一歩。失った時間。胸の奥が締めつけられる。
「もう一回、やってみる。」
声が少し低くなる。義久は顎で海を示した。
「好きなだけやれ。何かつかむまで。それしかない。俺も、蒼玄斎様にしごかれた。それよりはマシだろ?」
厳しくも優しい目で、蓮を見守っている。それから何度も試した。
呼吸、立ち方、構え、剣の握り。
あらゆることを試す。
波に意識を重ねる。だが、結界は広がらない。シャボン玉ぐらいの小さなはできるが、それ以上になると揺らぎ、崩れ、消える。
日が傾く頃には、蓮の呼吸は荒くなっていた。
膝に手をつき、肩で息をする。汗が岩へ落ちた。潮風がそれを冷やす。
長い沈黙のあと、義久が言った。
「今日は終わりだな。」
蓮が顔を上げる。
「まだ、やれる。やらなきゃならないんだ。」
「できねぇ顔してる。」
容赦のない言葉だった。だが声色はどこか穏やかだった。颯月がそっと近づく。
「蓮くん。」
彼女は少しだけ屈み、視線を合わせた。
「結界ってね、一日でできるものじゃないの。私も、何度も失敗したわ。」
優しく笑う。
「だから、大丈夫。焦っても、できるわけじゃない。明日には、また違った何かを感じられるわ。」
蓮は唇をかんで視線を落とした。拳が震えている。
「俺、要にふさわしいのか?」
小さな声だった。義久が背を向けながら答える。
「ふさわしいかどうかじゃない。なってもらわなきゃ困る。お前は、村上水軍の末裔、村上連。村上史上最強と言われた、因島の要、蒼玄斎様の孫。そして、厳島の要のいとこ。急に要を継ぐことになった戸惑い、責任の重さに押しつぶされそうになるのはわかる。」
「だから鍛えてんだろ?厳島で何を見てきたんだ?逃げるのは簡単だ。ただ、お前にしかできないことから逃げ出して、お前は立っていられるのか?俺は、あの禍海坊との闘いの夜、自分の不甲斐なさが許せねぇ。」
励ましなのか、叱責なのか、もしくは自責の念なのか…、そんな気持ちが入り混じった義久の心の声だった。
「俺だってそうだ。あんな妖に瀬戸内を渡すわけにはいかない。でも…。」
蓮の言葉は、そこで途切れた。
言い訳の続きが見つからなかった。
力が足りない。
覚悟も足りない。
分かっている。
それでも、どうすればいいのか分からない。
3人の気持ちとは裏腹に、傾きかけた日差しに反射する光が波と共にキラキラと静かに揺れていた。
その時だった。
ぽこん、と。
妙に間の抜けた音を立てて、波間から小さな頭が出た。
「あのー…。」
「うわっ!?」
蓮が思わず後ずさる。
水面から顔を出したアマビエが、藻のような髪をぺたりと頬に張りつかせ、気まずそうに片手を上げていた。その表情にはどこか焦りが混じっている。
「な、なんだよ急に!心臓に悪いな!」
「べ、別に驚かせたかったわけじゃないし!こっちだって出るタイミングくらい考えたわよ!」
「じゃあ今じゃなくてよかっただろ!」
「待ってたんだけど…、終わりそうになかったし…、早く教えなきゃダメだって思ったの!」
アマビエはぷくっと頬を膨らませたあと、ちらりと義久と颯月を見ながら、ずけずけと岩場に上がってきた。すでにいつもの女の子に変身している。
その後、重い空気を読むように、少しだけ声を落とした。
「というわけで、なんか、深刻な話してるところ申し訳ないんだけど。」
「申し訳ないと思ってる顔じゃないな。」
「思ってるわよ!ちょっとだけ!」
「それと、お前いつまで島の周りにいるんだよ。熊本帰らなくていいのか?」
「それは…、まぁいろいろあるのよ。海も痛いし、ほら、あたしがいないと情報も入ってこないでしょ?」
蓮が半眼で見ると、アマビエは咳払いをした。
颯月がそのやり取りをみて、腕を組みながらニヤニヤしている。
「えーっと、で、本題。」
その一言で、空気が変わる。義久も颯月も、表情を引き締める。
「わざわざ何かあったの?」
颯月が尋ねると、ゆっくりと頷いた。
「山口の方。なんかあったみたい。流れがまた変わったし、仲間もこっちに避難してきてるし。」
蓮の眉が動く。
「壇ノ浦か?じいちゃんの心配が当たったみたいだな。」
「海の底から、何かが起き上がったみたいな感じ。仲間は封印がどうとか言ってた。」
アマビエは、自分の腕を抱くようにして身震いした。
「ところで、さっきから仲間って誰だよ?」
「人間からは磯女って呼ばれてる。今度紹介するね。」
「妖だろ?どんどん連れてくんなよ。じいちゃんにまた怒られるだろ。」
「妖だって、悪者ばかりじゃないって言ってるじゃん!」
「わかった、わかった。で?続きは?」
義久の顔つきが険しくなる。
「草薙剣の件か。」
「たぶん。断言はできないけど……あれ以来、あのあたりの流れが普通じゃない。さっき、海の下で声みたいなのが聞こえた。」
「声?」
蓮が聞き返す。
アマビエは少し迷ってから、小さく言った。
「声っていうか……昔の戦の音。船が軋む音とか、鎧が擦れる音とか、誰かが沈んでいく音とか。そういうのが、海の底から伝わってきてる。」
照らされた海は、相変わらず美しい。だが、その穏やかさの下に、黒い深みが口を開けているように見えた。




