第41話 八海神戦の兆し
津波が引いたあと、赤間の海には重い静けさだけが残っていた。
そして、まだ揺れている潮。
西源寺九遠が、びしょ濡れの黒いスーツの上着を乱暴に絞った。
「いや、ほんま何してくれてんねん。びしょびしょやないか!」
開口一番、それだった。
蒼玄斎は眉一つ動かさない。
九遠は続ける。
「もうちょいで決着やったやろ!八百年越しの因縁やぞ?一番ええとこで邪魔すんなや!俺の本気、そろそろ出そか言うときに。ふざけんな。」
蒼玄斎が静かに返す。
「ここで決着がつく戦ではない。」
「いや何へ理屈こねてんねん!戦いは、決着つけてなんぼや。」
九遠が指差す。
「平家やぞ!?目の前におったんやぞ!?」
そのとき。
宗盛の影が、大きく揺らいだ。周囲の海気が急激に冷える。宗盛の声が、わずかに震えていた。
「違う。我らは負けたのではない…。これからじゃ…。戦いはこれからじゃ。」
視線は蒼玄斎ではない。海の向こう。見えない“何か”を見ている。
知盛が目を細める。
「兄者?誰と話しておる?」
宗盛は後退した。怨霊であるはずの姿が、明確に動揺している。
「あの方と剣が目覚めようとしている。我らでは、抗えぬ。」
九遠が眉をひそめる。
「おい、何言うてんねん。」
宗盛は聞いていない。
「兄者?どうした?何が起こっておる?」
「これは戦ではない。滅びの始まりだ。瀬戸内は、あの方によって古に戻るのじゃ。源氏の末裔よ。我は、永遠に貴様らを恨み続ける。絶対に許さぬ。」
その言葉を残し、宗盛の身体が霧散した。水へ溶けるように。
赤間の海へ、完全に姿を消した。
九遠がぽかんとする。
「逃げた?お前ら、幼帝の意図を理解したんちゃうんか?どないなっとんねん。」
知盛が小さく息を吐いた。
「申し訳ない。兄上は、総大将であったが、昔から覚悟が決まらぬ弱さがあった。しかし、気になるのは最後の言葉。」
蒼玄斎が言う。
「“あの方”とやらに利用されて、悪霊にならなければよいが。」
九遠が振り向く。
「なっても、シバキ倒したらええんやろ?」
知盛が静かに笑う。
「なかなかの自信だな。言っておくが、我も本気は出しておらぬぞ。」
「なんや?喧嘩売っとんのか?いつでも買うで。」
「ええぃ、やめいと言うておろうが。貴様ら、もう一撃食らいたいのか?あれは、本気の十分の一も出しておらぬ。このまま海の藻屑にしてやってもよいのだぞ?」
「やれるもんならやってみいな。もう一回ゆうたろか?俺を侮んなよ。」
夕陽が壇ノ浦の向こうの海に沈みかける。長い影を落としていた義経と知盛の銅像を、知盛は見上げた。
「八百年か。この世もかなり変わったのであろうな。しかし、海は何も変わっておらぬ。鋼鉄の船が行き来すること、巨大な橋が架かっていることを除いてな。」
しばらく黙り、そして蒼玄斎へ向いた。
「海が再び乱れるのか?」
「うむ。」
蒼玄斎は頷いた。
「草薙剣が見つけられ、奪われたのは間違いなかろう。要の結界で抑え込めていたが、均衡が崩れ始めておる。」
知盛の表情が静かになる。まるで、戦意が消えたかのようだった。
「ならば我らの役目は終わりだ。」
九遠が腕を組む。
「終わり?」
「ああ。」
知盛は言った。
「平家は、過去の影。これから戦うのは、お前たちだ。」
「終わりではない。草薙剣に関しては、お主らが最もよく知っておる。幼帝の意をくむのであれば、ともに戦ってはもらえぬか?お主は、兄と違って、純粋な武とまっすぐな思いが見える。」
知盛は少し考え、天を仰いだ後、頷いた。
「確かに。だが、我は怨霊。信じても、兄者のように逃げるか、裏切るかもしれぬぞ。」
「おいおい、じいさん。妖を仲間に誘っとるんか。あかん、あかん。」
「西源寺よ。お前は、草薙剣のこと、何か知っておるのか?今は、あの方と言われておる者の正体、草薙剣によってなしえることを把握することが先じゃ。」
「逃げた奴を銅像にはせんってことやな。ただし、裏切った瞬間に、俺が斬り倒す。それが条件や。あと、面倒は爺さんがみろよ。俺は、平家とは仲良うはできへんからな。それこそ、義経に怒られてまうわ。」
碇が静かに霧へ溶ける。それは、知盛の覚悟の現れであった。
「源の末裔よ。義経は、強かったぞ。」
九遠が少しだけ笑う。
「知っとるわ。」
知盛も微かに笑い、闇に溶けた。
蒼玄斎が空を見上げる。夜が降り始めていた。
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「間違いなく始まったの。」
九遠が真顔になる。
「何がや。」
蒼玄斎はゆっくり言った。
「八海神戦じゃ。」
「八つの要が守る結界。それらが同時に揺らいでおる。単独では守れぬ。かつてない事態じゃ。」
一歩踏み出す。
「ゆえに。」
振り返る。その目は、かつての村上水軍の棟梁と同じものだった。
「要会議を開く。」
九遠の目が変わる。
「全員集合、ってことか。」
「そうじゃ。」
蒼玄斎が言う。
「おそらく、他の要のところでも、異変が起こっておるに違いない。八海神、全てを集める。」
遠くの海が、低く鳴った。
戦の予兆のように。




