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セトの境界線 ー八海神「要」として瀬戸内を守りますー  作者: 黒木のゆ
第3章 山口 壇之浦・赤間 「失われた神器」 編
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3-9 停戦

 津波が引いたあと、赤間の海には重い静けさだけが残っていた。

 そして、まだ揺れている潮。

 西源寺九遠が、びしょ濡れの黒いスーツの上着を乱暴に絞った。


「いや、ほんま何してくれてんねん。びしょびしょやないか!」


 開口一番、それだった。

 蒼玄斎は眉一つ動かさない。

 九遠は続ける。


「もうちょいで決着やったやろ!八百年越しの因縁やぞ?一番ええとこで邪魔すんなや!俺の本気、そろそろ出そか言うときに。ふざけんな。」


 蒼玄斎が静かに返す。


「ここで決着がつく戦ではない。」

「いや何へ理屈こねてんねん!戦いは、決着つけてなんぼや。」


 九遠が指差す。


「平家やぞ!?目の前におったんやぞ!?」


 そのとき。

 宗盛の影が、大きく揺らいだ。周囲の海気が急激に冷える。宗盛の声が、わずかに震えていた。


「違う。我らは負けたのではない…。これからじゃ…。戦いはこれからじゃ。」


 視線は蒼玄斎ではない。海の向こう。見えない“何か”を見ている。

 知盛が目を細める。


「兄者?誰と話しておる?」


 宗盛は後退した。怨霊であるはずの姿が、明確に動揺している。


「あの方と剣が目覚めようとしている。我らでは、抗えぬ。」


 九遠が眉をひそめる。


「おい、何言うてんねん。」


 宗盛は聞いていない。


「兄者?どうした?何が起こっておる?」

「これは戦ではない。滅びの始まりだ。瀬戸内は、あの方によって古(いにしえ)に戻るのじゃ。源氏の末裔よ。我は、永遠に貴様らを恨み続ける。絶対に許さぬ。」


 その言葉を残し、宗盛の身体が霧散した。水へ溶けるように。

 赤間の海へ、完全に姿を消した。

 九遠がぽかんとする。


「逃げた?お前ら、幼帝の意図を理解したんちゃうんか?どないなっとんねん。」


 知盛が小さく息を吐いた。


「申し訳ない。兄上は、総大将であったが、昔から覚悟が決まらぬ弱さがあった。しかし、気になるのは最後の言葉。」


 蒼玄斎が言う。


「“あの方”とやらに利用されて、悪霊にならなければよいが。」


 九遠が振り向く。


「なっても、シバキ倒したらええんやろ?」


 知盛が静かに笑う。


「なかなかの自信だな。言っておくが、我も本気は出しておらぬぞ。」

「なんや?喧嘩売っとんのか?いつでも買うで。」

「ええぃ、やめいと言うておろうが。貴様ら、もう一撃食らいたいのか?あれは、本気の十分の一も出しておらぬ。このまま海の藻屑にしてやってもよいのだぞ?」

「やれるもんならやってみいな。もう一回ゆうたろか?俺を侮んなよ。」


 夕陽が壇ノ浦の向こうの海に沈みかける。長い影を落としていた義経と知盛の銅像を、知盛は見上げた。


「八百年か。この世もかなり変わったのであろうな。しかし、海は何も変わっておらぬ。鋼鉄の船が行き来すること、巨大な橋が架かっていることを除いてな。」


 しばらく黙り、そして蒼玄斎へ向いた。


「海が再び乱れるのか?」

「うむ。」


 蒼玄斎は頷いた。


「草薙剣が見つけられ、奪われたのは間違いなかろう。要の結界で抑え込めていたが、均衡が崩れ始めておる。」


 知盛の表情が静かになる。まるで、戦意が消えたかのようだった。


「ならば我らの役目は終わりだ。」


 九遠が腕を組む。


「終わり?」

「ああ。」


 知盛は言った。


「平家は、過去の影。これから戦うのは、お前たちだ。」

「終わりではない。草薙剣に関しては、お主らが最もよく知っておる。幼帝の意をくむのであれば、ともに戦ってはもらえぬか?お主は、兄と違って、純粋な武とまっすぐな思いが見える。」


 知盛は少し考え、天を仰いだ後、頷いた。


「確かに。だが、我は怨霊。信じても、兄者のように逃げるか、裏切るかもしれぬぞ。」

「おいおい、じいさん。妖を仲間に誘っとるんか。あかん、あかん。」

「西源寺よ。お前は、草薙剣のこと、何か知っておるのか?今は、あの方と言われておる者の正体、草薙剣によってなしえることを把握することが先じゃ。」

「逃げた奴を銅像にはせんってことやな。ただし、裏切った瞬間に、俺が斬り倒す。それが条件や。あと、面倒は爺さんがみろよ。俺は、平家とは仲良うはできへんからな。それこそ、義経に怒られてまうわ。」


 碇が静かに霧へ溶ける。それは、知盛の覚悟の現れであった。


「源の末裔(まつえい)よ。義経は、強かったぞ。」


 九遠が少しだけ笑う。


「知っとるわ。」


 知盛も微かに笑い、闇に溶けた。

 蒼玄斎が空を見上げる。夜が降り始めていた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「……間違いなく、始まったの。」


蒼玄斎の声から、いつもの飄々とした響きが消えた。

九遠が真顔になる。


「何がや。」


蒼玄斎は、しばらく海の向こうを見つめていた。

やがて――。


「瀬戸内全体が、動き始めておる。」

「全体?」

「そうじゃ。」


蒼玄斎はゆっくりと頷いた。


「古い封。妖の動き。そして、各地の海に現れ始めた僅かな綻び。」


今まで別々に起きていた異変が、どこかで繋がり始めている。

偶然ではない。そう言い切るだけの確信が、蒼玄斎にはあった。


「八つの要が守る海で、同時に異変が起き始めておる。」


風が吹き、蒼玄斎の衣が静かに揺れた。


「先日の厳島。そして、今日の下関。偶然にしては出来過ぎておる。起きていることも、あまりに大きい。」


そこで言葉を切る。

ことの大きさを悟ったのか、九遠の表情が変わった。

蒼玄斎は振り返る。

その目には、かつて瀬戸内の海を守り続けた者の鋭さが戻っていた。


「要会議を開かねばならん。」


「全員集めるんか。」


「そうじゃ。」


迷いはない。


「因島、厳島、岡山、松山、高松、太宰府、赤間、淡路島――今、動けるすべての要を集める。」


蒼玄斎は再び、遠くの海へ目を向けた。


「各地で何が起きておるのか。一度、すべて持ち寄る必要がある。」


低く、海が鳴った。

まるで瀬戸内そのものが、迫り来る何かを察しているかのように。


「……大きな波が来るぞ。」


蒼玄斎が、静かに呟いた。

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