第37話 平家の怨念
店を出たあと、二人は岸壁に並んで立つ。
関門海峡…日本海と瀬戸内海を結ぶ非常に細い回廊である。航路の要衝でもあり、しまなみ海道、鳴門海峡と並び、潮の流れが最も早い箇所でもある。
表面は穏やかでも、底では複雑に絡み合っている。本州と九州に挟まれて急激に狭くなるため、潮の満ち引きに合わせて6時間ごとに急激に潮の流れが変わる。
この海峡は、古くから交通・軍事・交易の境界として重要視されてきた。歴史と潮が激しく交わる“境目”の海である。
海峡の真ん中を大型船が進んでいる。遠くには、関門大橋が見えた。
西源寺九遠が腕を組んだ。
「ここは、俺の結界の内側や。潜るなら、印渡しとくわ。」
九遠は小さな符を差し出した。
「これな。結界が“味方や”って分かる。弾かれへんし、攻撃もされへん。」
蒼玄斎は受け取る。
「若いのに、なかなかの結界術を使いおる。しかし、えらく念を入れておるな。」
九遠は少しだけ笑った。
「だから、侮んなって。年寄りは、無茶するからな。まっ、念には念を…や。取り返しのつかへんことになっても困るからなぁ。」
岸壁の先端。蒼玄斎は羽織を脱いだ。そして、右手を差し出すと、静かに呼ぶ。
「潮を裁け、神器 《蒼裁》。」
水面が、波打つ。綾のような光が集まるのではなく、蓮と同じように空気中の水が集まるように、透明な水の塊ができたかと思うと、次第に刀の形に変形していく。次の瞬間、海の色が変わった。
「参るぞ、蒼綯。」
青が、濃くなる。そこから、細長い影が浮かび上がるやいなや、巨大な蛇が姿を現した。
鱗は光を帯び、目は深海のように澄んでいる。
ウミヘビの神獣――蒼綯。綾とは違い、いとも簡単に顕現した。音もなく、水面に浮いて、蒼玄斎を待つ。九遠が目を細める。
「渋い相棒やな。」
蒼玄斎は答える。
「静かな奴だ。じゃが、怒らせると怖いぞ。」
蒼綯は、主の足元に頭を寄せ、蒼玄斎が頭をなでる。契りの確認。
「では、参る。」
そのまま、蒼玄斎は海へ入った。水しぶきは――ほとんど上がらなかった。
海中は暗い。
蒼玄斎に寄り添う蒼綯の周囲だけ、淡い青光が揺れている。蒼綯の力なのか、蒼玄斎は水中でも息ができている。いや、正確には息はしていない。直接酸素が蒼綯から蒼玄斎の体内に送られているのか、蒼玄斎独自の元要としての力なのか。
深度が増すにつれ、周囲の音が遠のいていった。海流の音も、船底を叩く波の気配も、まるで分厚い水の膜の向こうへ押し込められたかのように薄れていく。
代わりに、蒼玄斎の肌に触れたのは、歪んだ潮の流れだった。
海底に到達すると、そこは地上とはまるで別の世界だった。
陽の光は届かず、視界の端は深い藍色に沈んでいる。
海藻がゆらめき、岩肌に砕けた貝殻が白く散っていた。
だが、蒼玄斎にとっては、場所は違えど海底は見慣れた景色。蒼裁を手に、潮の流れを読むようにゆっくりと進んでいた。
隣を泳ぐ蒼蛇《蒼綯》が、長い胴をくねらせる。
その動きはなめらかで、潮の抵抗さえ味方につけているようだった。
しばらく進んだ時、不意に蒼綯が動きを止めた。
蒼玄斎も、泳ぎを止める。
「何か見つけたか?」
《蒼玄斎》
蒼綯の声が、海底に低く響いた。
《あのあたりから、異様な冷気があふれ出ておる》
蒼玄斎は、蒼綯の視線の先を見た。一見すれば、ただの暗がりだった。
岩場の影。
海底の窪み。
だが、よく見ると、その周囲だけ潮の動きが鈍い。流れているはずの海水が、そこだけ重く、冷たく、滞っている。小魚の姿もない。海藻も、その一帯だけ揺れていない。
まるで、海の底にさらに別の底が口を開けているようだった。
蒼玄斎は、いかにも胡散臭いという目でその光景を視認する。
「一度、確認に行くか。」
そして、わずかに口の端を上げた。
「鬼が出るか蛇が出るか……。蛇なら、お前に勝るものはおらんがの。」
《戯れ事を言っておる場合か》
蒼綯が低く返し、蒼玄斎がニヤリと笑う。長き時を蒼玄斎と共に戦ってきた神獣の、いつものやり取りのようだ。
「それぐらいの余裕がないと、即応できなかろうて。」
蒼玄斎は蒼裁を握り直し、冷気の漂う方へと進む。
近づくほどに、潮が重くなった。
肌を刺すような冷たさではない。魂の奥から体温を奪っていくような、嫌な冷気。
やがて、蒼玄斎の足元に広がる光景は、目を見張るものだった。
海底に、巨大な裂け目。
まるで巨大な刃で斬り裂かれたかのように、岩盤が深く割れている。
その割れ目の奥から、黒く濁った霊気が滲み出していた。
ただの妖気ではない。
封じられていたものが、出口を失い、無理やり押し広げられているような歪み。
蒼玄斎は目を細めた。
「確かに、何か強大な力を持った“何か”があった。そして、それが抜かれた後のようじゃな。」
低く呟き、老人は裂け目の奥を見据える。
《神の残滓を感じるぞ。三種の神器の一つと考えても間違いではなかろう。》
「こんな場所に神器が沈んでおったとは。ぬかったわ。」
悔しさよりも先に、深い納得が滲んでいた。
《相手は神の器ぞ。我も一度見てみたいものだ。》
「さすがは、三種の神器。もはや人の理に収まるものではない。神の域にあるものは、要であったわしらでも、気配さえ掴めぬ。やむをえまい。」
蒼玄斎は、わずかに息を吐いた。
「だが……抜かれた以上、流れは変わる。ここはもう、ただの海底ではない。もう少し試してみるか。」
蒼玄斎が九遠からもらった印をかざす。結界がゆるんだのか、裂け目の奥で、黒い潮が、かすかに脈打った。
蒼綯が低く鳴く。
次の瞬間――海水が、逆巻いた。
裂け目の奥から、黒い潮が滲み出している。
ただの濁りではない。海底の砂を巻き上げているわけでもない。
それは、長い年月をかけて沈殿した記憶のようだった。
潮の流れが、おかしい。
《蒼玄斎…出番が来たぞ》
蒼綯の声が低くなる。
裂け目の奥で、何かが揺れた。最初は、ただの影に見えた。
だが、影はひとつではない。いくつも、いくつも重なっていた。
まるで、海底に沈んだ古い戦場が、ゆっくりと水の中へ浮かび上がってくるかのようだった。
甲冑の輪郭。
割れた兜。
錆びた長柄。
水に揺れる旗の残影。
そこにいるはずのない兵たちが、海の中で隊列を組んでいた。
うっすらと、何かが聞こえる。
怒号。
悲鳴。
沈みゆく船の軋み。
水面へ伸ばされた手が、届かぬまま沈んでいく音。
「やはりな。」
蒼玄斎は、低く、吐き捨てるように呟く。
「神器の力で、怨念が増幅しつつあったが、同時に閉じ込められておったか。それを抜くとは、余計なことをしおって。」
蒼綯が、静かに鎌首をもたげ、蒼玄斎の横に寄り添う。
《平家の怨念か》
「沈んだ軍勢じゃ。」
蒼玄斎の声は重かった。
「眠っておったものが、目を覚ましたか。あるいは、操られておるか。そそのかされておるか。」
裂け目の奥で、甲冑の影がゆっくりと顔を上げる。
蒼玄斎は、蒼裁を構えた。
「いずれにせよ、放ってはおけぬ。」
怨兵の一体が、槍を構え、水を裂いて突進してくる。だが動きは鈍い。
怒りだけで動いている。
蒼玄斎は刀を振りかぶらず、左手の指先だけ動かすと、水が、渦を巻いた。蒼綯が尾を打つ。流れが変わる。
潮の濃度か水の圧力か。
うっすらと深海の中に矢が浮かび上がった。
指先を素早く怨兵に指し示すと、矢が目にもとまらぬ速さで飛び、怨兵の胸に刺さった。
そして、まさに海の藻屑と言わんばかりに泡のように消滅した。だが一体、二体ではない。裂け目の底から、黒い影が次々と浮かび上がってくる。
「ほう、軍勢か。平家の怨念であれば、西源寺の力が最も効くが、まずは、水中で受け止めざるを得ぬ。」
蒼玄斎は静かに言った。
「ならば…」
刀に手をかける。
「ぬしらの無念も分からんでもない。じゃが、敗北は敗北。いつまでも恨んでおっても仕方あるまい。礼をもって、斬らせてもらおう。」
怨念の兵は隊列を組むように、深海の中で横一線に広がる。
しかし、蒼玄斎は慌てず、呼吸すら変えず、静かに目を細め、見定めた。
蒼綯が体をくねらせながら、主の周囲に円を描く。守るのではない。水の流れを組み替えて、結界のような空間を作り出していく。
怨兵が一斉に動いた。
突撃。斬撃。長柄の刺突。
だがすべてが――わずかに逸れる。
水中にもかかわらず、蒼玄斎はまるで地上にいるかのように怨兵の攻撃を見切り、交わしながら切り伏せていく。
しかし裂け目の底から、止めどなくわいてくるのが見えた蒼玄斎は、スッと目を閉じた。
「きりがない。のう、蒼綯。」
蒼綯が、深海を大きく何度か旋回した。
主の意志を読み取ったかのように、いや、既に同じ感覚を共有しているのだろう。終わらせるべきであると。
蒼玄斎の足元で、水が層を成し始める。
幾重にも重なり合う、静かな同心円。
蒼裁が、蒼玄斎の右わき腹に構えられた。それに呼応するように、刀の周辺の密度が変わる。圧が集まり、水は重く、さらに重くなる。存在そのものに重みを与えられたかのように。
蒼玄斎は、ただ一言だけ告げた。
「鎮まれ…。」
声は大きくない。
≪海鎮断界≫
一閃。
深海に横一文字に一筋の青い光が一瞬見えると同時に、蒼白の断層が水平に走る。光ではない。圧の線だ。一瞬、上下で水がずれたが、すぐに水圧が揃い、乱れていた境界が一気に閉じる。
圧の線上にいた怨兵団は、抗う間もなかった。
鎧は静かに割れ、旗は溶け、槍は泡へとほどけていく。軍勢が、音もなく消えてた。
断罪ではない。赦しでもない。ただ、還るだけだ。長い眠りへ。
蒼綯が尾をゆるやかに振ると、水の円環が広がり、残滓を運び去り、濁りが消えいく。裂け目の縁が、わずかに閉じた。
一言、
「眠れ。」
それだけを告げ、蒼玄斎は刃を納めた。動きは静かで、無駄がない。
深海に、静寂が戻る。
しかし、そう思えたのは、ほんの一瞬だった。裂け目の底から、再び圧が立ち上がる。だが今度は、兵の群れではない。
ひとつ。
重い気配。深海の水が、押し退けられるように割れた。現れたのは、人の形をした怨霊。だが先ほどの兵とは違う。鎧は朽ちていない。輪郭が保たれている。気配が濃い。肩当てに刻まれた古紋。赤い裂け目のような意匠。
蒼玄斎が目を細めた。
「将か。」
怨霊が口を開く。声は水を伝わって届いた。
「なぜ、我らの眠りを妨げる。」
蒼玄斎は動かない。
「妨げてはおらん。暴れ出したものを、鎮めにきただけじゃ。」
怨将はゆっくりと笑った。
「鎮める、だと。笑止。我らは、沈められたのだ。この無念、晴らさずにおられるか。」
水がざわめく。深海の底に、映像のような揺らぎが浮かぶ。
船。矢。炎。
「元暦二年」
怨将が言う。
「壇之浦。源と平の、最後の戦場だった。」
歴史が、海の記憶として揺れる。
「潮を誤り、裏切りを受け、我らは敗れた。」
深海の揺らぎの中で、怨将はゆっくりと口を開いた。水が、映像のように揺れる。
海上に浮かぶ無数の船影。
旗。
太鼓。
鬨の声。
蒼玄斎は黙って見ている。
蒼玄斎が低く返す。
「潮を読む戦いじゃった。」
怨将は頷く。
「そうだ。最初に優勢だったのは、我ら平家。この海を知り尽くしていた。」
海流が速く流れる映像が浮かぶ。
「関門の潮は、一日のうちに四度、大きく向きを変える。それを読めぬ者は、船を動かせぬ。朝は平家有利。じゃが…」
蒼玄斎が言う。
怨将の目が暗くなる。
「昼過ぎに、流れが変わった。」
海の向きが逆転する。船の向きが乱れる。
「潮目が逆転した瞬間、我らの陣形が崩れた。そこへ、源氏が押し込んできた。」
蒼玄斎が静かに問う。
「義経か。」
「そうだ。」
怨将の声が低くなる。
「源義経。奴だけは許せぬ。戦上手なのは認めざるを得んが、人として許せぬ。武士道の誇りを奴は無視しおった。」
海上の像が揺れる。
「船頭は射ぬもの。奴は、侍ではないものまで射った。そして、我らが味方を寝返らせるなど、卑怯極まりない。」
水がざわつく。
「阿波の水軍。」
「よう知っておるな。お主も水軍か。我らの味方だったはずの者が、源側へついた。」
蒼玄斎が言う。
「船印を、教えたのか。」
「そうだ。」
怨将が拳を握る。
「どれが総大将の船か。どれに帝がおられるか。まさか、奴が内通して裏切るとは。どこを狙えば、戦が終わるか。おそらくそれまでも内通したのであろう。」
海の映像に、矢の雨が降る。
旗が倒れる。船が燃える。
「戦は、一気に傾いた。」
蒼玄斎は問う。
「帝は?」
怨将の声がわずかに震えた。
「帝は…、」
水面に、小さな姿が映る。
「海へ入られた…。祖母とともに。」
史実…安徳天皇と二位尼の入水。怨将が言う。
「三種の神器も、そのとき海へ沈んだのだ。」
蒼玄斎が言う。
「後世にも伝わっておる。鏡と剣、玉は、後に戻ったと。」
「剣は、ずっと我らとともにあったのだ。今日、この日のためにと言えよう。」
怨将が裂け目を指す。
「ここにあった。長く、ここに。我らが宗盛様、知盛様と共に。」
蒼玄斎が問う。
「恨みは、源氏にか。」
「敗者は、沈んでもなお、忘れられぬ。忘れてはならぬのだ。」
蒼玄斎は静かに言った。
「だから西源寺がおる。」
怨将が目を細める。
「敗者を見張るためにか。皮肉なものだ。」
蒼玄斎は答える。
「それが責だ。勝者も、敗者も海の前では同じ。」
「戯れ言を。ただ勝者として、我らを閉じ込め、牢獄のように見張っておるだけではないか。見下しておるのだ。」
蒼玄斎は首を振る。
「違う。見張るのではない。鎮めておるのだ。」
「何が違う。同じではないか!」
怒気が海を震わせた。水圧が跳ね上がる。
「我らは滅びた。だが、記憶は滅びぬ。恨みは滅びぬ。源の一族に復讐するまでは、眠ることさえ叶わぬ。」
蒼玄斎は静かに言う。
「だからこそ、眠れ。」
怨将は槍を構える。
「神器は我らの手にある。神器とあの方の力で、我ら主がよみがえるのだ。」
その言葉に、周辺の潮流が変わる。
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