第35話 山口 壇ノ浦・赤間の要「冥の鎮守者 西源寺 九遠」
アマビエの姿を見た瞬間、場の空気がぴんと張る。
「……妖か。」
低く、だが鋭い声。アマビエは、反射的に一歩下がる。
「ぐっ…うっ、うわさのじじい…。」
互いに、一瞬も視線を外さない。アマビエの額には、冷や汗とも見える雫がたらりと伝う。
ただ単に、アマビエは蒼玄斎の威圧に動けないだけだったのだが…。
義久と颯月が、自然に左右に立つ。蓮は、その間に立った。
「見回りで、会った。」
あまり長々と説明しても逆効果だと思った蓮は短く答えた。蒼玄斎は、蓮だけを見る。
「連れてきた理由は?」
「この海の状況を、知っている。貴重な情報源だと思って連れてきた。」
蒼玄斎の目が、わずかに細まる。
「話せ。」
「ぐっ。ちょっと、ちょっと、なんであんなに上からなの?」
小声で蓮に向かって言ったが、蓮は聞こえないふりをした。アマビエは、ごくりと喉を鳴らし――意を決したように口を開いた。
「…海が…病んでる」
「潮の流れ…淀んで海が痛い…」
「壇之浦で……剣、見つかった。」
緊張から、たどたどしく、単語だけがのどから絞り出される。蒼玄斎の眉間にしわが寄り、目つきが変わると、しばらく黙っていた。その横で、アマビエはとても小さくなっている。やがてゆっくりと、息を吐く。
「やはりか。」
その反応に、全員が息を呑む。
「実は、今の話、初めて聞いた話ではない。」
視線を海へ向けたまま、続ける。
「下関の『要』からも、同じ兆しが届いている。」
蓮が顔を上げた。
「下関の要?!」
義久が答える。
「西源寺九遠。赤間を守ってる男だ。」
蒼玄斎は、ゆっくりと頷いた。
「あの男の結界は、“鎮める”ためのものだ。死者と怨念が最も濃い地を、冥の力で押さえつけている。奴の結界の中に壇之浦はある。」
蓮や義久と蒼玄斎との会話が進み始めて少し安心したのか、アマビエが小さく身を震わせる。
「じゃあ、赤間はもう……。」
「結界は無事じゃ。奴とて『要』の一人。しかも相当な手練れ。そう簡単には破られん。」
蒼玄斎の声は断定だった。
「だが、かなり揺れておる。」
縁側を吹き抜ける風が、ひやりと冷たくなる。
「海底から、“押し上げる力”が出ておるそうだ。夜になると、水が音もなく盛り上がるなど、異変が続いておるようじゃ。まるで、下から巨大な影が息をするかのように。」
颯月が息を呑む。
「それって、壇之浦の底?!」
「そうじゃ。」
蒼玄斎の目が細くなる。
「西源寺九遠は、すでに三度、結界を張り直しておる。だがそのたび、何かが下から突き上げてくるようじゃ。」
義久が低く唸った。
「抑え込まれているのに、下から結界を押し返してくるとは、それはそれで、なかなかの妖かもしれん。」
「抑え込まれていた蓋が外れれば、それは“出ようとするもの”だ。」
蒼玄斎の言葉に、蓮と颯月がすぐに反応した。
「封印級?!」
蒼玄斎は静かに言う。
「まだ決まったわけではない。それが怨念なのか、神器の残滓なのか、あるいは――“あの方”と妖どもが呼んでおる奴の影なのかは、まだ分からぬ。」
アマビエがおびえるような目で皆を見る。
「封印級ってどういう事?強いってこと?悪いってこと?赤間大丈夫なの?それがこっちにも影響してるの?」
蓮を見る。
「封印については、後で教えてやる。とにかくそれが原因で、ここもおかしいってことだろ。」
蒼玄斎は頷いた。
「下関は、瀬戸内の西の門。因島は、瀬戸内の中心。門に異変があれば、流れは逆流するのだ。その歪みが、ここまで伝わってきておる。」
蓮の視線が鋭くなる。
「草薙剣が、動いたから? 草薙剣が何かを封印していた?」
「その可能性は高い。草薙剣で封じられていた妖ならば、相当な力を持っていると見るべきじゃろう。」
蒼玄斎は否定しない。
「お主らも知っておろう。お主らの中にある神器は、基本、血に由来する。あとから覚醒するものもおるがの。ゆえに、神器は、均衡を保つ力も、崩す力も秘めておる。それほどの力がある。その中でも、特に三種の神器は、神そのものと言い伝えられておる。触れられるのは、帝か、それに近い者のみ。」
そこで、蒼玄斎の声がさらに低くなった。
「だが、恐ろしいのは、草薙剣が動いたことそのものではない。それほどの神器に、誰かの意志が触れておることじゃ。偶然見つかっただけなら、まだよい。一介の人間や妖には扱い切れんからな。だが、もし草薙剣を使い、事を起こそうとしておる輩がいるのであれば、それは、とてつもなく由々しき事態じゃ。」
言葉はそこで止まる。義久が小さく息を吐く。
「いずれにしても、早く真相を突き止めないと、大変なことになりそうですね。」
「そうじゃ。」
蒼玄斎は静かに言い切った。
蓮は、ゆっくりと海を見る。西の果てで揺らぐ海。ここで乱れ始めた潮。二つは、見えない底でつながっている。
颯月が、ぽつりと呟く。
「下関って、一人で守っているんですよね。」
「西源寺家は、念を操るが故、また源氏の流れを汲む血が故、群れないと聞く。それほど歴代の『要』個々の力が強いことの裏返しやもしれん。」
蒼玄斎の声は、信頼が滲んでいた。
「あの地は“沈んだ記憶”が最も濃い。だからこそ、念を操る西源寺家が守っているのだ。話が本当ならば、押さえきれなくなる。海の底は、奴では確認できんだろうし。」
縁側の空気は、張りつめたままだった。
蒼玄斎は少し考えた後、ゆっくりと立ち上がり、社の奥へと入っていった。
「皆、ついて来い。」
それだけを告げる。蓮は黙って頷き、後に続いた。義久と颯月、そして少し迷った後、アマビエもそっと後を追う。
「どこ行くの?ついてって大丈夫?」
通されたのは、家の最も奥にある小さな部屋だった。窓はなく、灯りも弱い。
部屋の中央には、古びた木の台が置かれている。
その上に立てかけられていたのは、人の背丈ほどもある古い鏡だった。
黒い木枠には、波と龍の文様が彫り込まれている。
蒼玄斎はその前に膝をついた。
「これは、遠見鏡じゃ。」
静かに告げる。
「海路を隔てた者の姿を映す、古き神具よ。昔は、要らが、これで連絡を取りおうておった。」
「ちょっと、ちょっと。今の人間って電話ってもんがあるんじゃないの?熊本にいた時は、海辺でみんな電話で写真撮ったりしてたわよ。」
「うるさい、黙ってろ。余計な事言うな。聞こえちゃうだろ。じいちゃん世代は、こういう儀式が大事なんだよ。たぶん…。」
「また『たぶん』って言ってんじゃん。それやめてよね。電話があるって、はっきり言えばいいじゃん。」
「今ならスマホな…って、言えるかよ。それならお前が言えよ。もう、お前をかばうのやめるからな。」
「む…ムリです。ごめんなさい…。」
「しばらく、邪魔せず黙ってろよ。どうなっても知らないからな。」
皆の後ろで、蓮とアマビエが小声でやり取りしている。だが蒼玄斎は、二人の声など最初から聞こえていないかのように、淡々と儀式を続けていた。
蒼玄斎は目を閉じ、短く息を整えた。
「海路を結べ。遠き影を、此処に映せ。」
その一言に応じるように、鏡面の奥で細い光が走った。黒い鏡の内側に、一本の道が刻まれていく。
やがて、鏡の奥に景色が浮かび上がった。
暗い夜の海。
赤い鳥居。
そして、しばらくして、その前にひとりの男が姿を現した。
黒いスーツ姿を着こなし、長い髪をくくっている。そして、切れ長の目。
男は、ゆっくりと顔を上げた。
鏡の向こうから、こちらを真っ直ぐ見ている。
「どないしたんや、因島の蒼玄斎やないか。」
低く、澄んだ声が水鏡から響いた。蓮は息を呑む。西源寺九遠。
下関・赤間の要。
蒼玄斎は短く答える。
「久しいな、九遠。」
「挨拶はええで。しかしまぁ、こんな古めかしい方法でやり取りせんでええやん。びっくりしたわ。今時おらんで。」
「顔を見ながら話をしたくてな。そちらにも、異変が出ておるか。」
蒼玄斎が言う。九遠は一度だけ、目を閉じた。
「スマホあるやん。そっちにも若い子おるんやろ?まっ、ええわ。……三度、結界張り直したわ。そのたんびに、下からなんかようわからん力が上がってきて、突き上げられんねん。意味わからんやろ?あー、正確には三重にしてんねん。まぁ、俺の結界はそう簡単には破られへんけど、念には念をってことやな。」
鏡のこちら側にいる全員の背筋が冷える。どこにそんな余裕があるのかわからないが、九遠は蒼玄斎相手にひょうひょうとしゃべっている。アマビエが思わず呟く。
「ちょっと、レン。『要』ってあんなのばかりなの?ズバズバ言ってるし。でもやっぱり、あたしの言ってた通りで……」
九遠の視線が、ふっと動く。
「……なんで妖おんねん。」
その一言で、空気が張りつめる。(ほら見ろ、言わんこっちゃない)と蓮はアマビエをにらむ。
水鏡に映る九遠の細い目がさらに細くなった。アマビエは反射的に身構える。
「まぁ、ええわ。弱そうやし。そいつは、そっちに任せるわ。それよりも、壇之浦の底が、動いてんねん。」
淡々と告げる。アマビエは、床に突っ伏した。弱そうと言われたのが、こたえたようだ。
「怨念だけちゃうで。怨念を巻き込んで、何かがうごめいてる感じや。海の底やからようわからんけどな。結界消して、上ってくんの待とうかとも思ってんけど、結界消したら他のどえらいもんも出てくるかもわからへんからなぁ。」
蓮は、無意識に拳を握っていた。蒼玄斎が問う。
「持つか。」
「おいおい、じいさん、西源寺を侮どんなや。話はそんだけか?心配ご無用や。ほなな。」
そう言い残したあと、波紋と共に西源寺の姿が消え、ただの鏡面に戻った。残像が完全に消えたあとも、部屋の空気はしばらく動かなかった。蒼玄斎は、ゆっくりと目を閉じる。
「西源寺か。」
低く、確認するように呟く。蓮が言い直す。
「下関、赤間の要――西源寺九遠。」
蒼玄斎は小さく頷いた。
「西の源が守る寺、と書く。源氏の流れを汲む西の守り手じゃ。まだ若いが、力はとてつもない。そして、何か隠しておる。何かはわからんが…。」
その言葉に、空気が変わる。
「壇之浦は、平家が沈んだ場所。そして源氏が勝った場所。」
蓮の胸に、歴史の重みが落ちる。蒼玄斎は続けた。
「だが勝ち負けではない。平家が背負って沈めたもの――帝と神器と怨念。それを、誰かが見張らねばならなかった。ゆえに源の側の守り手が、あの地に立つ。」
義久が低く言う。
「因縁の番人か。」
「そうじゃ。」
蒼玄斎は即答した。
「西源寺九遠は、勝者の系譜に立ちながら、敗者の怨念を鎮め続けておる。」
アマビエが小さく息を呑む。
「それ、めちゃくちゃ重い役目じゃん。」
「軽い役目など、『要』には無い。」
蒼玄斎は淡々と言った。そして、意を決したようにゆっくり立ち上がる。その雰囲気に、蓮がすぐ気づく。
「……じいちゃん、どこかに行くつもり?まさか…。」
「山口。」
即答だった。全員が顔を上げる。
「明朝、出発し、西源寺におうて確かめてくる。」
蒼玄斎は言った。
「西源寺の見立てと、わしの見立てが一致するかどうか。水の中は、村上水軍の真骨頂。現地に行って確かめてこねばならぬ。」
義久が一歩前に出る。
「ひとりで行く気ですか。」
「当然じゃ。お前たちは、ここを離れるでない。」
その声には、反論を許さぬ重みがあった。
「因島は、瀬戸内の結び目じゃ。ここが緩めば、赤間は持たん。いや、瀬戸内が持たん。厳島は綾の覚醒で、奴らもしばらくは襲わんと思うが、矛先を変えて、ここを狙ってくるやもしれん。他の八海神らも心配じゃ。蓮も鍛錬しておかねばならぬ。」
蓮は黙る。分かっている。確かめに行きたい。だが行くべきではない。蒼玄斎は、蓮を見た。
「お前は残れ。流れを整えろ。義久と颯月と共に。鍛錬を重ねておけ。それが、いずれ瀬戸内を助けることになる。」
アマビエがぽつりと言う。
「じじい……いや、おじいさん、めちゃくちゃ強いよね。」
蒼玄斎は鼻で笑った。
「まだ引退はしておらん。」
外で、風が強く吹いた。西の方角から。壇之浦へ通じる風。蒼玄斎は羽織を手に取る。
「平家が沈み、源が残した海。だが今は、どちらのものでもない。」
視線が鋭くなる。
「海は、海のものだ。」
と一言。
因島最強の守り手が動きだした。
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