第33話 小さな来訪者
小さい水柱が立ち、船のすぐ横に…ひょっこりと異形が、顔を出した。
人の顔。
魚の体。
長い髪が、水を滴らせて揺れている。
「……っ!」
颯月が弓に手をかける。だが――異形は、攻撃してこなかった。
代わりに。
そのまま、船底に――頭から、叩きつけた。
ゴンッ!!
「なっ――!?ちょっとまてまて。船底が割れたらどうするんだ!っていうか、こいつは何なんだ!!妖?昨日の続きか?」
船がさらに大きく左右に揺れる。
異形は、再び水面に顔を出し、必死な声で叫んだ。
「……き、きいて……!」
「……このうみ……いたい……!」
義久が、息を呑む。
「しゃべった…。こいつは何なんだ?攻撃してこないぞ。というか、なんか助けを求めてるっていうか…。」
蓮は、やや混乱しながらゆっくりと異形に近づいた。
「お前……名前は?」
異形は、涙のような水滴を落としながら、震える声で答えた。
「名前ってなに?名前なんかない!そんなことより、海が痛いの!!」
「もしかして、アマビエか?あの疫病を退散させるっていう。なんかネットニュースとかで似たような絵を見たことあるぞ。なんでこんなところに急に。」
蓮は、はっきりと言った。
「この海で、何か起きてるのか?海が痛いってなんだ?」
船の横で揺れる水面に、アマビエはじっと浮かんだままだった。
藻のような髪が、波に合わせて揺れている。
蓮は、手すりに片手を置いたまま、静かに言った。
「まずは落ち着け。聞きたいことは山ほどあるが、とりあえず、まずこれを聞く。ぶつかる理由は何だ?言葉わかるか?」
責める調子はない。アマビエは、一瞬だけ視線を逸らし、むっとした顔で言った。
「べ、別に……海が痛くて、逃げ回ってたらぶつかっただけだし。あんたに会いたかったわけじゃないし……。」
「……?」
義久と颯月が、顔を見合わせる。アマビエは、ぷいっと顔を背けた。
「気づかせるには、それしかなかっただけ……。こっちの事情も分かってよね。」
次の瞬間。水面が、ふわりと光った。淡い泡が弾け、アマビエの姿が、小さく、縮む。
人の姿に近い、少女の輪郭。長い髪。
魚の鱗を思わせる装飾。尾の名残が、スカートのように揺れている。
「っ?!」
颯月が、思わず声を漏らした。
「ちいさ……。」
「ち、小さい言うなっ!!」
アマビエ…いや、少女の姿になったそれは、顔を赤くして叫んだ。
「こっちの方が、話しやすいだけなんだから!」
蓮も戸惑いながら、ただ『海が痛い』という言葉がやけに気になっていた。
「それで?」
先を促す。アマビエは、少しだけ言い淀んでから、唇を噛んだ。
「この海、病気なんだよ。」
その言葉で、空気が変わった。
「水が、重いの。流れが、ちゃんと流れなくなってる。」
義久が、低く言う。
「淀みか。」
アマビエは、こくりと頷く。
「そう。でも、ただの淀みじゃないの。」
小さな手で、胸のあたりを押さえる。
「“流れが変えられた”感じ。」
蓮の視線が、わずかに鋭くなり、義久、颯月の方を見る。3人は蒼玄斎の言っていたことを思い出した。
「誰に?」
アマビエは、一瞬だけ黙った。
そして、言葉を選ぶようにゆっくりと言う。
「“あの方”皆がそう呼んでる。」
その呼び方が、妙に現実味を帯びていた。
「名前は、分からない。でも急に、変な水の動きが始まって、重くなった……底から。」
瀬戸内の海が、きらりと光る。だがその奥に、ぼんやりと暗いものがある気がした。
不安げな顔をしていたアマビエが、突然キッと目を吊り上げて蓮を見た。
「ねえ。」
ツンとした表情のまま、蓮を見る。
「あんた、“通す側”なんでしょ?この辺の仲間の間じゃ、村上の血は有名って話だし。私は熊本の方なんだけど、このままこの重い海が広がったら困るのは、みんなでしょ?」
蒼玄斎の言葉が、蓮の胸に蘇る。
渡せ。
蓮は、ゆっくりと頷いた。
「だから、会いに来たの。」
急にもじもじしだした。
「忙しいやつだな。俺も瀬戸内を守るために、何が起こっているのか確かめに来たところだ。敵の妖と話をするのも変な気がするが、情報は多い方がいい。もっと詳しく聞かせてくれよ。」
「妖すべてが敵じゃない!」
「わかったから落ち着けよ。最近襲われてばっかだったから、一応…な。まぁ、お前なら、襲ってきてもいつでも勝てそうな気がするし。」
「ちょっと、どういう事よ?失礼しちゃう。」
「ごめんごめん。で、何が起こってるんだ?俺に何を期待してる?」
アマビエは、その答えを聞いて少しだけ、頬を緩める。
「……べ、別に……期待してるわけじゃないけど……。」
「でも、」
視線を逸らしながら、小さく言った。
「この海、まだ……助けられると思う。」
船は、潮に揺られながら静かに漂っていた。しまなみ海道の橋影が、海面にゆっくりと歪む。アマビエは船縁に腰を下ろし、足先で水をぱちゃぱちゃと叩いている。
「あ、あくまで噂だからね。」
前置きするように、わざとらしく言った。
「信じろとか、そういう話じゃないし。」
蓮は、何も言わずに続きを待つ。義久と颯月も、自然と口を閉じた。アマビエは、一度だけ周囲の海を見回し――声を落とす。
「あたしらの間で、最近、変な話が回ってるの。」
「壇之浦のあたりでね“誰かが見つけた”って。」
その言葉に、蓮の視線がわずかに鋭くなる。
「何を?」
アマビエは、一瞬だけ言いよどみ、それから――ぽつりと告げた。
「……草薙剣。」
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