第31話 因島への帰途
低い卓を囲み、湯気の立つ味噌汁の香りが部屋を満たしていた。朝の光は、昨夜の戦いを嘘のようにやわらかい。
「はいはい、遠慮しない遠慮しない!どんどん食べて、体力回復!」
美琴が茶碗を置きながら、明るい声を出す。
「こういう時はね、食べられる人からちゃんと食べるのが一番なの。」
「そう言って、お母さんが一番盛ってるじゃないの。」
「あらっ、そうだったっけ?」
汐音がつっこむ。布団に綾を残し、蓮・咲紀・汐音が卓につく。汐音が箸を動かしながら、ちらりと蓮を見る。
「ねぇ、レンレン、因島の結界、大丈夫そう?」
その一言で、場の空気がほんの少しだけ引き締まった。蓮は、味噌汁に視線を落としたまま答える。
「一晩で崩れることはない。でも、前と同じじゃないことは確か。昨日の月食のように、弱点を突いて、結界を壊しに来るかもしれない。まぁ、じいちゃんと父さんがいれば、大丈夫だと思う。」
「今結界を張っているのは、蓮さんじゃないってこと?」
咲紀が静かに問いかける。蓮は頷いた。
「じいちゃんは、因島の武魁って言われてる。めっちゃ強かったんだって。あと、美琴さんの弟、父さんも結界の力はすごいんだ。」
「父さんって、弦也さんなの?そうか、いとこだもんね。結界術すごいでしょ?私も何年か教えてもらったの。」
咲紀が過去を懐かしむ。
「なんか、みんないいな~。私、こないだ1回会っただけだし。でも、優しそうなおじさんだった。レンレンとは違って。」
「おまえ、いちいち突っかかってくるな。いいんだよ。俺のことは。」
「まじめな話に戻すと、『向こうは、俺たちの“限界”を見た。』と思う。」
箸を止め、少し言葉を選ぶ。
「それに、綾の神威を、確かに、覚えられた。次は、別の何かをぶつけてくるかもしれない。」
汐音が、息を吐く。
「やっぱり、禍海坊で終わりじゃないんだ。」
「ええ。」
答えたのは、咲紀だった。
「最後に月影が言っていたわ。禍海坊は“刃”。その“刃”振るう存在が、別にいる。」
その言葉に、美琴が味噌汁を啜りながら、あっさりと言う。
「つまり様子見は終わり、ってことね。」
全員が、美琴を見る。美琴は気にした様子もなく、漬物を一つ摘まんだ。
「昨日の夜は、“確認”だった。」
「月が欠けた時に、誰が前に立つか。」
「誰が、“神話を動かせるか”。」
その言葉に、蓮は小さく眉をひそめる。
「美琴さん、知ってたんですか?」
「そりゃあね。」
美琴は、肩をすくめる。
「母親だもの。しかも、もと厳島の要よ。馬鹿にしないでくれる?」
笑いながら言った。そして、少しだけ声の調子を落とした。
「綾が、いずれそこに立つってことも。」
沈黙が、一拍だけ落ちる。咲紀が、そっと口を開いた。
「これからは、各地の結界が、八海神が狙われる可能性があるってことですか?」
汐音が、箸を置く。
「分断?同時?バラバラ?攻撃されるってこと?八海神がそれぞれの届く範囲の結界で瀬戸内を守ってるんでしょ?一つでも結界が壊れたら、そこからほころびが広がるんじゃ。」
「そう。」
蓮が、静かに続ける。
「一つずつ削って、一つにまとまる前に潰す。」
美琴は、その言葉を聞いて、ふっと笑った。
「やり方が、いかにもよね。まぁ、早速失敗してるけど。綾のおかげでね。」
全員の視線が、自然と奥の部屋へ向かう。まだ休んでいる、綾のいる方へ。美琴は、そこで初めて、真面目な顔をした。
「だからこっちも、変わるしかない。次からは、“守る側”だけじゃ足りない。先手を打つ覚悟が、必要になる。」
汐音が、苦笑する。
「あ~あ、平和な毎日、短かったね。」
「何を、いっちょ前に。わかってんだか、わかってないんだか。」
美琴は、少し娘の成長を思いながら、からりと言った。
「美琴さん。」
名前を呼ばれ、美琴が蓮を見る。汐音も、咲紀も、自然と視線を向けた。
蓮は、背筋を伸ばした。
「俺、今日中に因島へ戻ります。」
声は大きくなかった。けれど、迷いはなかった。
「まず、じいちゃんに全部話します。禍海坊のこと。“あの方”って呼ばれていた存在のこと。月影が言っていた、“刃を振るう者”のこと。それから……俺の滄牙丸に起きたことも。」
一瞬、蓮は言葉を切った。
「俺はまだ、技を出した時のあれが何なのか分からない。神獣なのか、海の声なのか、それとも俺の勘違いなのか。でも、あの時、確かに何かが応えた。あれを知らないままにはできません。」
「ふふふ。蒼玄斎様なら、何か教えてくれるかもしれないわね。」
蓮は頷く。
「それに、因島の結界も確認しないといけない。厳島が狙われたなら、次は因島かもしれない。いや、逆に、因島を崩すために厳島を揺らしたのかもしれないし。」
咲紀が、白い扇を膝の上で握り直した。
「厳島の結界は今夜、美琴さんがつないでくれるとしても、禍海坊ほどの存在がもう一度来れば、今のままでは危ういと思います。」
美琴は、にこにこしたまま、けれど否定はしなかった。
「そうね。私も、昔ほど無茶はきかないし。今夜は久しぶりに張り切っちゃおうかな~。月影との久しぶりの競演に、ワクワクよね。」
「無茶する気満々じゃない!」
汐音がすかさず突っ込む。美琴は、悪びれず笑った。
「できる範囲で、よ。」
その明るさに、場の空気が少しだけ緩む。
けれど、蓮の表情は変わらなかった。
「厳島も、動きます。次は…待たない。」
美琴は、にっと笑う。
「いいじゃない。弦也によろしく言っといてね。『あなた、結界の力は私より上だから、しっかり因島を守りなさい』って。若い子たちが前に出るなら、大人はちゃんと後ろを固めるわ。」
その言葉に、場の空気が少しだけ、軽くなった。朝の光は、もう高い。だが、誰もが分かっていた。
この食卓は、次の戦いの始まりの席だ。
朝食を終えると、厳島神社はいつもの平和な観光客の賑わいを取り戻していた。昼を前に、夏の太陽の光が、刺すように畳に真上から注ぎ込んでいる。
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午後3時頃、少し元気になった綾と汐音が見送りに出てきていた。
「じゃあ、俺、戻るわ。綾も、美琴さんに甘えるところは甘えて、しっかり休んで。元気になったら、一度手合わせしようぜ。」
「れんれん、もう行っちゃうんだ。私も因島ついて行こっかなー。」
「あなたも、夏休みの間、しっかり修行しなさい。この前みたいなことがまた起こったら、あなたに助けてもらう時が来るかもしれない。私寄りなんでしょ?」
「えっ…!お母さん寄りかな~。」
思いっきり目をそらしながら答えた。そのあと、蓮の方を向いて、にやりと小悪魔的な笑みを浮かべる。
「また来てね。次もデートするんだから。今度は、ふ・た・り・で。」
「コラ、汐音!」
汐音が、ぺろりと舌を出して、照れくさそうにした。こんな平和な日々が続けばよい、続けなければならないと、この場にいる全員が改めて心に誓った。
荷物は少ない。着替えと最低限の道具。
参道の先で待っていたのは、義久と颯月だった。
「今から連絡船にのって、広島駅まで戻ったら、丁度の新幹線がある。」
義久がスマホを確認しながら言う。
「広島から新尾道まで一本。そこからは、バスで、いつものルートだな。今回はバスだから安心しろよ。」
「しまなみ海道ね。」
颯月が、少しだけ口角を上げた。
「観光だったら最高なんだけどね~。まぁ、私はいつも自転車で走ってるけど。」
朝よりも増して、観光客が増えていた。参道を行き交う足音。土産物屋の準備の音。大鳥居の向こう、静かな海。
昨夜の戦いが、本当にあったのかと思うほどだ。
神楽台の向こうに見える大鳥居を眺めながら、昨日の月食、死闘を思い返し、広島に向かうフェリーに乗り込んだ。広島駅へ向かい、新幹線に乗り込む。ドアが閉まり、車内がわずかに揺れた。
「……因島、どうなってると思う?」
颯月が、窓の外を見ながら言った。
「表向きは、何も変わってないはずだ。」
蓮は、前を向いたまま答える。
「でも……結界の下では、水の流れが変わってる。」
義久が、静かに頷く。
「向こうも、こちらを試している最中だ。」
新幹線が加速し、街並みが後ろへ流れていく。ビルが低くなり、田畑が増え、やがて――海が見えた。
新尾道駅で降りると、空気が少し変わる。山と海が近く、時間の流れが緩やかだ。
バスに乗り換え、しまなみ海道へ入る。窓の向こう、橋が海の上を飛び跳ねて伸びていく。瀬戸内の水面は穏やかで、陽光を反射してきらきらと揺れていた。
「確かに……ほんと、何もないわね。広島市内とは大分違う。私は、この自然と雄大な海と島が好きだけど。」
颯月がぽつりと言う。
「だからこそ、守る価値がある。」
義久が答える。蓮は、その会話を聞きながら、海を見ていた。
「……ああ。俺の場所だ。仲間も、大切な友達もいる。」
橋を渡るたび、島影が近づいてくる。
因島。生まれ育った場所。
今なら、わかる。瀬戸内の重要な場所。中心の島だ。バスが島へ入ると、潮の匂いがはっきりとした。
「帰ってきたな。」
義久が言う。颯月が、軽く息を吸い込む。
「さてと、ここからが、本番ってことね。」
蓮は、ゆっくりと立ち上がり、バスを降りた。窓の外、いつもの港。いつもの道。
だが――同じ景色は、二度とない。
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因島の港から、坂を上った場所。
潮の匂いと、古い木の香りが混じる神社の奥に、蓮は足を踏み入れた。
玄関の戸を開けた瞬間、空気が変わる。社殿の奥からの威圧が肌を刺す。自分の祖父ながら、凄さが今ならわかる。
「帰ったか。」
低く、腹に響く声。居間の奥、縁側に腰を下ろしていたのは、蒼玄斎だった。
「ただいま。」
蓮が答えると、蒼玄斎は視線だけを向け、ゆっくりと頷いた。
「顔を見れば分かる。厳島は…荒れたな。」
その一言に、義久と颯月が小さく息を呑む。
「さすがですね。」
義久が一礼する。蒼玄斎は、二人を一瞥し、短く言った。
「お主らも、大義であった。」
そのとき、台所の方から声が飛ぶ。
「はいはい、難しい話はあとあと!」
ぱたぱたと足音を立てて現れたのは、蓮の父、弦也だった。
「蓮、荷物そこ置いとけ。義久くんも颯月ちゃんも、とりあえず座って。」
場の空気が、ほんの少しだけ和らぐ。
「……父さん。」
次の言葉が出てこない。
「おう。どした?」
弦也は、いつも通りの軽い調子だ。さすが美琴の弟。
だが、その視線は、一瞬だけ、蓮の背負う“見えないもの”を捉えていた。
「無事でよかった。」
小さな声で、それだけ言う。
そこへ、今度は別の影が現れる。
「おかえり、蓮。」
穏やかな声。
母、村上 由姫だった。
湯気の立つ急須を手に、柔らかく微笑んでいる。
「母さん。」
「顔、ちゃんと戻ってる。」
そう言って、蓮の頬にそっと手を当てた。戦いの話はしない。力の話もしない。ただ、“帰ってきた息子”を見る母の目だった。
蒼玄斎が、その様子を黙って見てから、しばらくして口を開く。
「……で。」
その一言で、空気が再び締まる。
「一昨日は、厳島の結界を張る日。夜に、何があった?」
誰も、誤魔化さない。蓮は、正座をし直し、はっきりと言った。
「厳島で、綾が禍海坊を斬った。ただの海坊主ではなく、禍海坊と名乗っていた。名前をもらったとか言ってた。」
その言葉に、由姫の手が、一瞬だけ止まる。弦也は、黙って湯呑みを置いた。
蒼玄斎は、ゆっくりと目を閉じた。
「そうか。」
溜息のような、いや、まるでこうなることを知っていて、起こってしまったのか、止められなかったのか、という思いを込めたような一言。その声には、安堵と、確信が混じっていた。
「で…」
少し間を置いて、
「終わってない。」
蓮が続ける。
「禍海坊の背後に、“視ていた存在”がいる。」
蒼玄斎の眉間に、少ししわが寄り、目を細めた。弦也が、困惑したように聞く。
「玄じい、何か知ってるのか?」
蒼玄斎は、静かに言った。
「ここのところ、胸騒ぎが収まらなかったのでな。何か大きな動きがあろうかとは思っておったが…。」
由姫が、そっと湯呑みを差し出す。
「お茶、入れたわ。」
その仕草が、場の緊張を、ほんの少しだけ解く。蒼玄斎は、湯呑みを手にしながら、蓮を見る。
「蓮。」
その名を呼ぶ声は、祖父ではなく、かつての守護者のものだった。
「因島は、これから狙われる。因島は、瀬戸内の中心。今、要が蓮に継がれた直後で、神獣とまだ共にない。神器の力も十分に引き出せておらん。今の他の要らは、個性的ではあるが、かなり手練れぞろいが故、問題ないとは思うが。」
縁側の外、遠くに穏やかな海が光っている。蒼玄斎は、その海を背に、はっきりと言った。
「要の中で、お主と厳島の綾が心配であったが、厳島の要はかなり前に進んだと見える。」
蓮は、静かに頷いた。
「……うん。俺、全然役に立たなかった。必死で助けようとしたけど、歯が立たなかった。最後に水龍…多分水龍だと思う…、そのおかげで何とかなった。でも、あれが限界だった。みんなのおかげで綾を守れたけど、俺の力では到底倒せない…。」
「じゃが、倒した。お前が倒したのではなくても、皆で倒したのは事実。蓮。着実に前に立ち始めておる。止まるでないぞ。」
「綾を見て思った。覚悟、宿命。守れるのは俺たち『要』なんだって。あんな奴らの好きにさせられない。前に進もうと思う。」
夕方の光が、縁側に差し込む。潮の匂いが、風に乗って運ばれてくる。蒼玄斎は、湯呑みを置き、ゆっくりと海へ視線を向けた。
「因島の結界はな。」
声は低く、それでいて不思議と聞き取りやすい。
「厳島や他の地と、根が違う。」
蓮は、背筋を正す。義久と颯月も、自然と姿勢を整えた。
「八海神の結界の多くは、“鎮める”ためのものだ。神獣を楔として神威により打ち込み、荒ぶるものを…押さえ込む。」
蒼玄斎は、指先で縁側の板を軽く叩く。
「だが、ここ因島は違う。」
その一言で、空気が変わった。
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