第30話 戦いの傷跡
静寂が、戻る。神楽台に残ったのは、相変わらずの隠れた月。月影は、ゆっくりと綾の足元へ戻る。
手から蒼嶺が音もなく落ち、綾は膝から崩れ落ちた。
最初に駆け寄ったのは、蓮だった。
「綾!!」
名を呼ぶ声が、ようやく夜に戻った音を震わせる。膝を折り、倒れかけた綾の身体を、蓮が受け止めた。
「……やったな。」
声は少し震えていたが、それでも確かな実感がこもっている。
綾は、答えない。蒼嶺は地に落ちたまま、月光を受けて、静かに色を失っていく。
「お姉ちゃん!!」
「綾!」
汐音と咲紀も駆け寄り、咲紀は扇を開いて脈を確認する。
「お姉ちゃんは大丈夫なの?動かないよ!!お姉ちゃんがいないと、私、私…。」
汐音があふれる涙をぬぐいながら、問いかける。
「大丈夫。気を失ってるだけ!」
その言葉に、場の空気が一気に安心の色に変わった。剛志が、雷槌を地に突き立て、深く息を吐く。
「マジで終わったんだよな?」
悠幻は、夜空を睨みながら、軽口を叩く余裕もなく呟く。
「ああ。少なくとも、あいつはもういない。」
義久と颯月も、結界の残滓を確認しながら歩み寄る。
白鯨と玉藻の姿は、元の肩に乗る程度の大きさになり、そばに寄り添っている。
「よくやったな。大したもんだ。お前がつながなきゃ、間に合わなかった。」
義久が、蓮の肩を強く叩く。しかし、蓮は、短く首を振った。
「……つないだだけだ。」
「斬ったのは、綾だ。俺は相当置いて行かれた。真の「要」には、程遠い。」
綾へ視線を向けながら、つぶやいた。そのときだった。
ふ、と。
夜の海のはるか奥で、何かが動く。
咲紀の指が、ぴくりと止まる。皆が一斉に大鳥居の奥にある海に顔を向けた。
「今の……。」
悠幻が、顔色を変える。
月が少しずつ顔をだし、月食による漆黒の闇が薄れてきた。まだ完全な満月には、戻らない。
神楽台の上に落ちる月光は、どこか“よそ行き”で、この場を素通りしていくようだった。
大鳥居の奥、まだ暗い夜の向こう側。そこに、“輪郭すら持たない“圧が、一瞬だけ重なった。
音はない。気配すら、ほとんどない。
だが、胸の奥を直接撫でられるような、不快な静けさ。
確かに“見られている”。剛志が、歯を食いしばる。
月影が、ゆっくりと首を上げた。大鳥居の方を見ながら、低く告げる。その声は、明らかな警戒を含んでいた。
月影が、低く告げる。
《禍海坊は、あくまで“刃”に過ぎぬ。あれを振るう者が、別にいる。》
悠幻が、鳥肌がたつ右手を押さえながら、小さく息を呑む。
「今の、禍海坊じゃない。禍海坊は確実に綾が倒したはずだ。」
《刃が折れる様を、確かめに来ただけ》
剛志が、低く問い返す。
「何者だ?」
月影は、一拍、間を置く。
《名は、まだ持たぬ…あるいは、持たせぬまま、在る者。》
そこに、ほんの一瞬だけ、影が“笑った気配”がした。その後、ふっと気配が消えた。
「大いなる存在ってやつか?……逃げた?」
義久が、そう呟いた。月影は、静かに否定する。
《違う。“退いた”のだ。奴はまだ力を完全に取り戻してはいない。今のも刃の一つ。》
完全に隠れていた月が、左端の縁から、少しずつ光を取り戻し、皆既月食は終わりへと向かっていた。
参拝路の灯りが、ぽつり、ぽつりと現実を取り戻し、潮騒が、いつもの音を思い出す。
蓮は、夜空を見上げたまま、小さく息を吐いた。
(もっと修行しないと守れねぇ。さっきのが神獣なのか?俺も神獣とあんな技が打てるようになるのか?名前も知らない。神威も打てそうにない。海の向こうにいた気配は何だ?瀬戸内に何が起ころうとしているんだ?)
神楽台に、日常の夜が戻り始める。だが、誰一人、安堵していなかった。これは、終わりではない。
ただ、始まりを刻まれただけだ。
綾の指が、微かに動いた。蓮は、その手を強く、握り返した。
この夜は、何かを目覚めさせたまま、静かに閉じていった。次の夜は、もっと深い。皆が、それを理解していた。
――――――――――――――――――
朝の光が、障子越しにやわらかく差し込んでいた。夜の名残は、もうどこにもない。波音も、風も、いつもの厳島の朝。畳の上に敷かれた布団で、綾は――ゆっくりと、瞼を開いた。
「……。」
最初に目に入ったのは、見慣れた天井と、柱に掛けられた小さな守り札。
「ここは…。」
声は、思ったよりもしっかり出た。その気配に、すぐ反応したのは蓮だった。
「起きたか。」
布団の脇に座っていた蓮が、ほっと息を吐く。
その隣で、湯呑みを手にしていた汐音が、顔を近づけた。
「やっと起きた!もう丸二日、ずっと寝てたんだから。」
「えっ?」
綾が目を瞬かせると、少し奥で、咲紀が静かに微笑んだ。
「無理もないわ。あれだけの神威を使ったんだもの。」
「衝撃だったぜ。神威って行くとこまでいったらあんなことになるのか。俺にはまだ出せないけどな。修行しねーと。」
少し思いを巡らせ、綾が返事をする。
「実を言うと、月影が出てきてから、あまり覚えてないの…。」
「そうなの?レンレンも、すごかったよ。ブワーって水の壁が立ち上がって、なんかよく見えなかったんだけど、龍みたいなのが水の中を泳ぎ回ったら、すっごくでっかくなったし。姉さんが詠唱全部言えたの、レンレンのおかげかな?一応言っとくねー。」
「だから、レンレンって言うな!!で、一応ってなんだよ。お前、途中泣きそうになって、俺のこと、蓮兄ちゃんって呼んでたじゃねーかよ。」
「ぐっ…そんな、呼んでないし。ふんっ!」
いつものやり取りに戻った2人の姿をみて、綾はようやく乗り越えたことを実感し、安堵の笑顔になる。
白い扇を膝に置き、隣に正座していた咲紀も声をかける。
「身体も、心も、ちゃんと戻ってきてくれて…よかった。」
綾はようやく自分が生きていることを実感した。
胸に、じんわりと温かい温度が広がる。
「みんな…。」
蓮が、少し気まずそうに視線を逸らす。
「無茶、したな。」
「あなたも、でしょ。」
思わず返した綾の声は、かすかに震えていたが、ちゃんと前を向いていた。
その瞬間。
バンッ!!
突然、障子が勢いよく開いた。
「おはよ―――!!おきた―――!!も―――、母さん、ものすごく心配したんだから!!」
場の空気が、一瞬で吹き飛ぶ。
「綾!!そろそろ起きそうな気がしてたのよ!!」
勢いよく入ってきたのは、結城 美琴だった。
「あっ。」
綾が声を上げるより早く、起き上がった綾に美琴はずかずかと近づき、そのまま娘ぎゅっと抱きしめたあと、頬をむにっと両手で挟んだ。
「ちょ、母さん!」
「よかったぁ~!!ちゃんと戻ってきてる!顔色も悪くない!」
ぐいぐいと顔を左右に振られ、綾はなす術もない。
「ちょっと!ちょっと!母さん、やっと目が覚めたところなんだけど!?」
汐音が慌てて止めに入る。
「はいはい、ごめんごめん。」
そう言いながらも、美琴は全然反省していない。
蓮と咲紀は、その光景を見て――思わず顔を見合わせた。
「……」
「え…、綾のお母さんってあんなだったっけ?もっとこう、厳格な、『ザ・月の巫女』って感じじゃなかったっけ?昔、遊びに来た時にちらっと見たけど、眼光鋭すぎて、めちゃくちゃ怖い感じだった気がする。」
咲紀が、そっと口元を緩める。
「お元気そうで、何よりです。」
「え?あら、咲紀ちゃんもいるじゃない!」
美琴は振り返ると、にこっと笑った。
「ありがとね。うちの娘、また無茶してたでしょ?」
「ええ。それはもう。」
咲紀が苦笑する。蓮が、少し居心地悪そうに言った。
「あの、美琴さん。」
「ん?」
美琴は、気さくに首を傾げる。
「昨日のこと…。」
言いかけた蓮の言葉を、美琴は軽く手で遮った。
「いいの、いいの。」
その声は、驚くほど明るかった。
「大きなケガもなく生きて帰ってきた。それで、十分。」
綾を見る。真っ直ぐに、けれど優しく。
「母さん、ごめんなさい。一昨日の満月の夜、結界を張りなおせなかった。次、妖が来たら、結界が破られるかもしれない。」
「後の話は、元気になってからでいい。まずは、しっかり体を休めて、ビシッと結界張れるようになりなさい。」
そして、にっと笑った。
「それに、母さんはね、娘が前に立つのを止めるほど、野暮じゃないのよ。」
綾の胸が、きゅっと締まる。
「ん―――、じゃあ、ちょっと蒼嶺貸して。」
「えっ?!」
「えっ?!」
「どういうこと?」
「えっ――――――――――?!」
その場にいた全員の目が丸くなる。神器貸してってなに?借りたり貸したりするもんじゃない、皆がそう思った。
「厳島の神器《蒼嶺》と月影は一子相伝なの。ということは、綾の前に一緒に戦っていたのは、わ・た・し。全然扱えるわよ。右手は思うように動かないけど、結界の舞ぐらいは舞えるわ。まだまだ綾には負けないんだから。とりあえず満月じゃないけど、今晩、結界張っとくね~。」
確かに、身も心も完全に回復していない綾には選択肢はない。中途半端な結界のままの方が心配。あの母がそう言っているんだから、大丈夫。でも、はいどうぞって渡せるものなの?
「ほら、さっさと蒼嶺出して!みんな待ってるでしょ。」
「月に輝け、神器《蒼嶺》。」
納得いかない感じで、そう綾がつぶやくと、右手に光が集まり蒼嶺が姿を現した。
「へー、『月に輝け』か。綾の神器の顕号って、そんななんだ。なんかかっこいいねぇ。じゃっ、しっかり休んで、また来月の結界はよろしく。月影もついてきて。ちょっと力借りるわね。」
小さくなった月影が、きょろきょろしながら綾に許しを得るような眼を綾に向け、戸惑いつつも美琴の横に移動する。
美琴は、ぱんっと手を叩く。
「はい!とりあえず全員、朝ごはん!」
「看病は交代制!綾はまだ寝てなさい!」
「ちょっと母さん!」
その声に、部屋の空気が、ようやく完全に日常へと戻っていった。
スタスタと美琴が部屋を出て行ったあと、蓮が、
「いや、やっぱり変だ。綾のお母さんあんな感じだったか?」
「以前、巫女だったときは、やっぱりプレッシャーだとか、いつ妖怪が現れるかわからなかったから、いつもピリピリしていたし、無理してたみたいなの。私もびっくりしたんだけど、本性はあんな感じだったみたい。蒼嶺と月影を引き渡した次の日から、すごく笑顔が増えたもの。」
と笑いながら言った。
「汐音見てればわかるでしょ?汐音の母親って言われたら納得でしょ?」
「お姉ちゃん!!それってどういうこと?レンレンどう思う?私、お姉ちゃん寄りだよね?お姉ちゃんみたいにカッコいい巫女になるんだから!!」
「いつまでも、レンレンって俺を呼んでる時点でお母さん寄りだな。」
プ―――っとふくれっ面をする汐音。だが、誰もが分かっていた。
この平和な朝は、次の夜への“合間”に過ぎないことを。
それでも――今は、それでよかった。




