第29話 月命天断
潮が、逆巻く。禍海坊は、視線を綾から外さない。
「月の巫女、厳島の要…。」
その声は、静かで、冷静で。決定的だった。
「神威は、完成させてから防ぐものではない。」
月影の角が、強く光る。神威の兆しが、夜空を裂こうとする。
だが、禍海坊は、その“直前”を狙う。
「ではこちらも、あの方からいただいた力、全力で対峙すべき時。」
「っ、させるか!!」
雷が走る。白焔が重なる。幻が空間を歪める。
だが――それでも、禍海坊の“即断”は、速い。
「そして、月影とやら」
初めて、禍海坊が神獣の名を呼ぶ。
「その巫女は、おぬしと共に今、沈めるべき存在だ。」
動揺を誘う禍海坊の言葉など、綾の耳には届かない。詠唱は続く。
「夜を裂け。闇を噛め。逃げ場なき理を、ここに刻め。
我は王にあらず、器にあらず。ただ、月と影の間に立ち、刃となる覚悟を負う者。」
詠唱の終端。月影の気配が、完全に重なろうとした、その刹那。
禍海坊が、初めて、大きく息を吐いた。それは疲労ではない。覚悟を、切り替えるための、断息だった。低く、深く、海底の岩が擦れるような声。
「 “神威”か。忌々しい…。発動させてはならぬ。ならぬのだ。」
禍海坊の動きが――止まった。いや、正確には“止めた”のだ。腕も、脚も、呼吸すらも。ただ一拍、世界から切り離されたような沈黙。その沈黙の底から、低く、重い声が滲み出る。
「これ以上、時間を与えるわけにはいかん!」
床に落ちた水滴が、逆流する。海に突き出た神楽台を濡らす潮、空中に漂う霧、神楽台にいる皆の汗までも――あらゆる“水”が、禍海坊へ引き寄せられていく。
咲紀が、息を呑んだ。
「水が集まって、刃の形に?」
集束は、一点ではない。
百。
千。
万。
夜空一面に、薄青く光る刃が浮かび上がる。それらは剣ではない。波でもない。水でありながら、斬るためだけに存在する“線”。禍海坊が、静かに――名を告げた。
《万潮刃獄》
名が落ちた瞬間、刃が、降った。
雨ではない。嵐でもない。
縦横無尽に飛翔する水刃が、空間を縫い、逃げ場という概念そのものを切り刻む。
「来るぞ!!全方位だ!!」
義久が叫ぶ。
「私の矢では全て撃ち落とせない!」
颯月も玉藻と応戦するが、圧倒的な数に歯が立たない。
悠幻の符が割れる。バキン、バキン、と防御が音を立てて削られていく。
「奴の力は底なしか!!」
雷光が爆ぜ、大狼の影が前に出る。雷の筋が立ち、水刃を真正面から受け止める。
だが、数が違う。
水刃は、雷を避けるように軌道を変え、仲間たちを包囲する。
「神威まで……あと……!!」
剛志の声は、すでに掠れていた。それでも、誰一人、退かない。削られ、血を流し、膝を折りながらも。
《万潮刃獄》の水刃が、夜空を埋め尽くす。
斬撃だけが、結果として降り注ぐ。厳島の守護、因島の守護、そのすべてが最後の力を振り絞る。それでも、刃の密度は、減らない。神楽台の床や大鳥居が裂ける。
「このままじゃ!」
誰が発したかもわからない悲鳴に近い声が、神楽台に響き渡る。そのときだった。水の流れが、逆巻いた。刃の嵐の中、不自然な“静止点”が生まれる。
そこに、蓮が立っていた。
滄牙丸を、両手で強く握り締めて。
刃文が、淡く脈打つ。水が、剣身を伝って集まり、まるで呼吸するように、光を帯びる。
(綾があそこまで頑張っているんだ。俺はまだまだ未熟。兄も超えられない。だけど、ここで皆を失うわけにはいかない! 俺も因島の要。村上水軍の末裔。海の妖怪に負けてる場合じゃない。こんなところで止まれない。ここで何もしなければ、島のみんなも、家族も、瀬戸内も守れない!)
蓮は、滄牙丸を神楽台へ突き立てる。
「村上海神流、蒼潮堰!!」
ズァァァァ
厳島神社の神楽台を囲む海が、巨大な水壁となって立ち上がり、《万潮刃獄》の刃群を、真正面から受け止める。
水が、水を拒む。いや、あの水の刃を拒めるのは、水だけなのかもしれない。
――だが。
キンッ、キンッ、バギィッ!!
壁が、確実に削られていく。禍海坊の水の密度が高いのか、硬い刃に蓮の壁をみるみる削っていく。
「蓮、このままでは蓮ごとやれるぞ!後ろに下がれ!」
義久が叫ぶ。
「俺だって因島の要だ!ここで逃げるわけにはいかない!」
「しかし、力の差が大きすぎる!」
「……いい。」
蓮は、歯を食いしばる。血が、口元を伝う。
「俺は…全部、止めなくていい。」
刃が、さらに密度を増す。
「もう少しでいい。」
蓮は、前を向いたまま言った。
「綾が、終わらせるまで…つなげばいい…!!」
「滄牙丸、力を貸してくれ。頼れるのはお前しかいない!」
低く、澄んだ声だった。叫んでいない。祈ってもいない。ただ、刃の嵐の只中へ、覚悟を持ってさらに踏み出した言葉だった。
その瞬間。
滄牙丸が、震えた。
滄牙丸だけではなく、海も震え、なにかに共鳴しているようだった。
刹那、水壁が大きく脈打つとぼんやりと蒼く光る。
「……っ!?」
次の瞬間、さらに海が噴き上がった。巨大な水流が天へ昇る。その中を、何かが駆け上がった。
長い影。
しなやかにうねる、蒼い光。
龍?
そう思いかけて、蓮は息を呑む。
違う?いや、分からない。
蒼く透き通る鱗のようなものが、水飛沫の奥で瞬いた。細い角にも見える光が、わずかに揺れる。綾の神獣、月龍《月影》に似ている気もした。
だが、それよりもずっと淡く、不確かで、まるで海そのものが、龍の形を借りて現れたようだった。
海鳴りのような低い響きが、蓮の胸へ落ちる。
《因島の要か。未熟。だが、退かぬか。ならば、その想い、一度だけ汲んでやる。潮を貸してやろう。》
声だったのか。ただの感覚だったのか。滄牙丸の力か?蓮には、分からない。
だが。
突如、淡い蒼光を放っていた水壁が、さらに膨れ上がる。
それはもはや、ただの壁ではなかった。
海そのものが神楽台の前にせり立ったかのように、高く、分厚く、蒼く輝く。押し寄せる刃の嵐の中で、その水壁は蓮たちを守る巨大な盾となった。
水刃の嵐は、まだ止まらない。
だが、神威へ至る“時間”は、確かに生まれた。
「ゆえに、ここに宣う。
影は縛れ。月は断て。夜は――伏せよ。
満ちずとも、欠けずとも、我は月に背を向けぬ。
光と影、相背くにあらず。
共に在りて――運命を、断ず。」
最後の言葉が、夜に落ち、詠唱が完成する。
影は影のまま、月は月のまま。溶け合わない。だが―完全に噛み合った。
綾の背後から、月影の姿が消える。
合わせるように蓮が、水壁を解除した。
月影が一体化したかのように、蒼嶺の刃に鱗のような模様が浮き上がり、その輪郭は月食の縁をなぞるように淡く輝く。
力を込める様子はない。
気迫も、殺意もない。
あるのは、揺るがぬ決意だけ。
蒼嶺が、静かに動く。構えはない。止まった時の中、スローモーションのように横にゆっくりと動いた。
「厳月流奥義――」
「神威、月命天断 三日月」
光は、走らない。闇も、溢れない。
世界が――止まる。波の音、皆の動き、荒い呼吸、すべてが、消える。
降り注いでいた水刃の一つひとつが、空中で凍りついたかのように静止する。
禍海坊でさえ、その異変を――即座に理解できなかった。
次の瞬間。
月が、空間を切った。
正確には、斬撃が月を描いた。
まるで、水平に三日月が出現したかのように、巨大な光の平面が、禍海坊の体を横切り、水平に浮かび上がった。
ただ、世界を“分ける”三日月だった。
斬撃は、空間を進まない。空間そのものが、分断される。
禍海坊の眼が、わずかに見開かれた。
「成程。」
その声には、怒りも、焦りもなかった。
ただ、理解だけがあった。
「それが……月と影の、答えか。」
次の瞬間。
ズレが、生じた。
禍海坊の体が、上下で――ほんのわずかに、噛み合わなくなる。
音は、遅れてやってきた。
ドンッ
夜が、真っ二つに割れるような衝撃。水刃の嵐が、一斉に霧散する。
禍海坊の下半身が、ゆっくりと…、水になって崩れ落ちていった。断面から、怨念が、光の粒となって溢れ出す。
「……見事だ。」
それが、禍海坊の最後の言葉だった。
上半身が、遅れて崩れ落ちる。水が凝縮されたいたかのような老人の存在は――夜へと溶けていった。
まるで、最初からそこにいなかったかのように。
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