第28話 月の巫女、覚醒
蒼海環護陣の内側で、張り詰めていた空気が、静かに変わった。義久の肩が、わずかに落ちる。
「……限界だ。」
白鯨の咆哮が、低く尾を引く。結界はまだ保っている。だが、これ以上は、義久、颯月共に限界だった。
その時。
綾が、一歩、前に出た。誰かに促されたわけではない。
決断の一歩だった。
「義久さん、颯月さん。」
月影と同調した声は、不思議なほど、落ち着いていた。
「結界を……解いてください。」
一瞬、神谷兄妹の視線が交わる。颯月が、驚いたように目を見開いた。
「綾ちゃん…それ、どういう――。」
義久は、綾を見る。その後、もう一度、颯月を見て、頷いた。
その瞳の奥に、迷いがないことを、一瞬で悟ったからだ。
「分かった。」
短く、頷く。
「白鯨、退け。」
白鯨が、低く鳴いた。颯月も、弓を下ろし、白鷺《玉藻》の白い矢を鎮める。
「颯月、蒼海環護陣を解くぞ。」
青白い膜がほどけ、神楽台を包んでいた守りが夜風の中へ散っていく。
白鯨《深鳴》の咆哮が遠くへ薄れ、白鷺《玉藻》の縫光も、役目を終えた糸のように静かに消えた。
音は、なかった。溶けるように、消えた。神楽台は、防御が何もない、むき出しの状態。
本来なら、その瞬間に禍海坊の圧が押し寄せてくるはずだった。
黒潮が這い、深海の重みが神楽台を潰し、立っている者すべてを海の底へ引きずり込むはずだった。
だが。
禍海坊は、動かなかった。
槍を構えたまま、綾を見据えている。
攻め込む隙は、ある。
結界は消えた。
守りは薄い。
それでも、禍海坊は踏み込んでこない。
「攻撃して来ない?」
剛志が、思わず呟いた。
「結界、解いたんだよな?」
「あぁ、解いた。何も見えんだろ?」
義久が、荒い息を吐きながら答える。蒼槍《鯨心》を支えにし、肩で息をしている。
「蒼海環護陣はもうない。今の神楽台は、ほとんど裸同然だ。」
「じゃあ、なんで攻めてこねぇんだよ。」
剛志の声に、悠幻が目を細める。
「警戒している。」
「禍海坊が?」
「ああ。」
悠幻の式札が、指先でかすかに震えていた。
「さっきまでのあいつなら、迷わず押し潰しに来た。だが今は違う。綾の気配が変わったことを、誰よりも早く察しているんじゃぁないか?」
「月影の本相。神獣が本来の姿を現した。それに、綾の背負っている月も変わった、ということか。」
静が、白蛇を足元に寄せながら静かに言った。
「だから、踏み込めない…ってこと?踏み込んだ瞬間、何が返ってくるか読めないから?えーっと、あの禍海坊が、綾姉を怖がってるってこと?」
汐音が、恐る恐る尋ねる。
「怖がっている、というより…」
悠幻が、薄く笑った。
「測っている。どう斬ればいいか。どう沈めればいいか。その答えがまだ見えていないのさ。」
禍海坊は、なおも動かない。だが、その沈黙は退きではなかった。獲物を見失った獣のものでもない。初めて出会う刃の届く距離を、慎重に測る武人の沈黙だった。
綾は、蒼嶺を構えた。
「来ないなら…。」
綾の声が、静かに落ちる。
「こちらから行く。」
その言葉に、剛志がにやりと笑った。
「いいねえ。そうこなくちゃな。」
「綾。私が道を清める。あなたの一歩が鈍らないように。」
「潮の動きは私が止めよう。完全には無理でも、一瞬なら縛れる。」
咲紀が月祓扇を握り直し、静が、白蛇へ視線を落とす。
最後に、悠幻が式札を広げた。
「では、俺は目を逸らさせよう。読まれない一瞬を作る。」
綾は、一瞬だけ仲間たちを見る。
母の背中を追いかけていた頃の自分なら、きっとここで迷っていた。守られることを恐れ、失うことを恐れ、踏み出すことをためらっていた。けれど今は違う。守られた命で、今度は守るために立つ。
綾は、蒼嶺の切っ先を禍海坊へ向けた。
「剛志さん。」
「おう。」
「正面を開いてください。」
「そういう分かりやすい注文、大好きだ。」
剛志が一歩前に出た。
神楽台が、低く鳴る。剛嶽が振り上げられ、青白い雷が槌の表面を走った。
「大狼、もう一度行くぞ、雷陣、展開!」
轟音と共に、金剛槌が神楽台を叩く。
青白い雷紋が海上を駆け抜け、禍海坊へ向かって一直線に伸びた。それは攻撃ではない。綾が進むための道を、海霧と黒潮の中へ無理やり焼き開くための雷。
悠幻の式札が、その雷光に重なる。
「来い、鵺。幻灯、添えるぞ。」
どこからともなく鵺が現れ、鵺の羽ばたきと共に式札が舞い、雷の上に幾つもの月明かりが浮かぶ。本物の綾の気配をぼかし、禍海坊の眼を一瞬だけ迷わせる。
そして、静の白蛇が、床を滑る。
「白蛇、潮を噛んで。」
白蛇が雷陣の外側を走り、這い寄る黒潮へ冷気を流し込む。厳島神社周辺の海が凍り始める。
咲紀が、月祓扇を開いた。
「白鴉、祓います。綾が進む道を。」
白炎が花弁のように散り、雷と幻と氷の間を清めていく。
綾は、深く息を吸う。
怖くないわけではない。
けれど、もう立ち止まらない。
綾と月影が、完全に同調したまま、禍海坊へ向き合う。
禍海坊の眼が、明確に焦点を結んだ。
「そちらから来るか。」
綾は、蒼嶺を振り上げる。
「これが、母とは違う、私の月。」
刃が、夜を裂く。欠けた月の軌道が、禍海坊へと走る。それはまだ、決定打ではない。
だが――初めての“攻勢”だった。
守るだけの夜は、終わった。
欠けた月の軌道が、夜を切り裂いて走る。禍海坊は、受け止めもしない。弾き返しもしない。ただ、少し横に体をずらし見送った。
斬撃が見た目老体の側面を掠め、黒潮の霧が一瞬、裂ける。
「やるではないか。」
低く、海底から響くような声。
「この月は……放置すれば、いずれ“海を縛る”。我が全霊をもって必ず沈める!」
空気が、変わる。禍海坊の足元で、潮が逆流した。
剛志が、即座に察する。
「さっきまでと、違うぞ!」
咲紀の白炎が、ざわりと逆立つ。
「力の流れが一点に集まってる?!」
禍海坊は、両腕を、ゆっくりと広げた。右腕は、かつて落とされた傷痕を残したまま。
「月の巫女。」
禍海坊の視線が、真っ直ぐに、綾を射抜く。
「お前は、今沈めておくべきだと理解した。深い海の底に。」
その宣言と同時に――夜空の空間が、歪んだ。空中に、黒い潮の“層”が生まれる。圧縮された深海の圧。それが、刃の形を取る。
≪滅海深圧葬≫
斬撃と言ってもよいのか。否。深海にある超重圧が、叩きつけられる。
「なんだこれは!重力操作かよ?!」
と剛志。神楽台の床が、悲鳴を上げる。叫ぶと同時に剛志が、前に出る。
「っ、受け…!」
だが、その言葉は途中で切れた。雷が、斬撃に押し潰される。悠幻の幻が、一瞬で――剥がされた。
静の氷陣も一瞬で吹き飛ぶ。
その中心で――綾は、動かなかった。月影と斬撃を見据える。
恐怖は、確かにある。だが、足は――止まらない。月影の影が、綾の足元で、深く、深く沈み込む。
滅海深圧葬が、夜そのものを叩き潰すように斜め上から迫ってくる。逃げ場はない。防ぐには、重すぎる。だが、綾は、踏みとどまった。
綾は、蒼嶺を、水平に構える。
「月影…」
《……》
月影に言葉はない。
だが、次に来る“重さ”を、互いに理解していた。滅海深圧葬が、綾の正面へ――衝突する。
「厳月流奥義・影滑。」
音は、なかった。あるはずの衝撃も、来ない。代わりに、空間が歪む。斬撃は、止められていない。受け止めてもいない。ただ“行き先を失った”。欠けた月の弧に触れた瞬間、滅海深圧葬の圧が、一方向へと流れ始める。横でも、後ろでもない。下。神楽台にある月影の影に吸い込まれるかのように、斬撃の重さが、地へと滑り落ちる。轟音が、遅れて来た。
剛志が、思わず叫ぶ。
「受けた!?いや、違う!」
悠幻が、目を見開く。
「逃がした?」
「流れを、変えました。」
綾の腕にしびれが走る。三日月は、満ちた月ほど、“受け止める力”を持たない。だからこそ――抱え込まない。
「ふぅ―――。」
綾は、息を吐く。
禍海坊の眼が、大きく、見開かれる。
「受け流した……だと?」
その声に、確かな動揺があった。綾は、蒼嶺を下ろさない。月影と同調したまま、静かに、前を見る。
限界も、近い。
滅海深圧葬を地へ、影へと滑り落とした後、神楽台に、短い静寂が訪れた。
綾は、大きく深く息を吸う。
月影の気配が、これまでよりもはっきりと“内側”にある。
《時は満ちた。お前の思い、受け入れよう。》
月影の声が、初めて、明確な言葉として響いた。
綾は、迷わず頷く。
「……うん。」
蒼嶺を、ゆっくりと地に突き立てる。それは、構えではない。始動の合図だった。
「剛志さん、時間を作って。神威を…。今の月影との神威は、少し時間がかかる…。」
その言葉に、周囲の空気が一段、引き締まる。
剛志が、即座に前へ出た。
「どれくらいだ。」
綾は、正直に答える。
「短くは…ない。」
それで、十分だった。
「よし。じゃあ、前は俺が全部受ける。」
「私が外縁を張る!」
「幻、重ねる。」
「水はすべて凍らせる。」
誰も、“本当に間に合うのか”とは聞かない。
綾は、仲間たちを見る。
「お願い。」
その一言に、全員が、はっきりと頷いた。
「お前は何があっても守る。」
剛志の声が、低く響く。綾は、目を閉じる。月影の存在が、輪郭を失い、ひとつの“月”として重なっていく。
詠唱が始まった。
「夜が名を持つ以前、天に満ち得ぬ月ありき。
欠けてなお退かず、影を鎧とし、闇を断つ刃となりて在り。
月は裁かず、影は赦さず。」
声は、神楽台だけでなく、夜空へと――届いていく。
神楽台の空気が、明確に――変質した。それを、誰よりも早く察したのは、禍海坊だった。月影と綾の共鳴が、臨界に近づいている。
(何をする気だ?神威?こやつの力はそこまでなのか?)
これは、単なる覚醒ではない。力の上昇でも、技の発動でもない。
(神獣との“超合技”『神威』。しかも、今の神合の状態での神威は、想像を絶するものに違いない。我で耐えられるか?)
それを悟った瞬間、禍海坊の中で、計算は無意味と化した。逃げる選択肢はない。力と力のぶつかりあいでしかない。
「そうか。」
低く、海底を鳴らすような声。怒りも、焦りも、そこにはない。
あるのは、即断。
「この場で、それを発動させてはならぬ。」
禍海坊は、腕を振り上げない。咆哮もしない。代わりに、空間そのものへ、手を差し入れた。
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