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2-17 月の巫女、覚醒

 蒼海環護陣の内側で、張り詰めていた空気が、静かに変わった。義久の肩が、わずかに落ちる。


「……限界だ。」


 白鯨の咆哮が、低く尾を引く。結界はまだ保っている。だが、これ以上は、義久、颯月共に限界だった。

 その時。

 綾が、一歩、前に出た。誰かに促されたわけではない。

 決断の一歩だった。


「義久さん、颯月さん。」


 月影と同調した声は、不思議なほど、落ち着いていた。


「結界を……解いてください。」


 一瞬、神谷兄妹の視線が交わる。颯月が、驚いたように目を見開いた。


「綾ちゃん…それ、どういう――。」


 義久は、綾を見る。その後、もう一度、颯月を見て、うなずいた。

 その瞳の奥に、迷いがないことを、一瞬で悟ったからだ。


「分かった。」


 短く、頷く。


「白鯨、退け。」


 白鯨が、低く鳴いた。颯月も、弓を下ろし、白鷺《玉藻》の白い矢を鎮める。


「颯月、蒼海環護陣を解くぞ。」


 青白い膜がほどけ、神楽台を包んでいた守りが夜風の中へ散っていく。

 白鯨《深鳴》の咆哮が遠くへ薄れ、白鷺《玉藻》の縫光も、役目を終えた糸のように静かに消えた。

 音は、なかった。溶けるように、消えた。神楽台は、防御が何もない、むき出しの状態。

 本来なら、その瞬間に禍海坊の圧が押し寄せてくるはずだった。

 黒潮が這い、深海の重みが神楽台を潰し、立っている者すべてを海の底へ引きずり込むはずだった。

 だが。

 禍海坊は、動かなかった。

 槍を構えたまま、綾を見据えている。

 攻め込む隙は、ある。

 結界は消えた。

 守りは薄い。

 それでも、禍海坊は踏み込んでこない。


「攻撃して来ない?」


 剛志が、思わず呟いた。


「結界、解いたんだよな?」

「あぁ、解いた。何も見えんだろ?」


 義久が、荒い息を吐きながら答える。蒼槍《鯨心》を支えにし、肩で息をしている。


「蒼海環護陣はもうない。今の神楽台は、ほとんど裸同然だ。」

「じゃあ、なんで攻めてこねぇんだよ。」


 剛志の声に、悠幻が目を細める。


「警戒している。」

「禍海坊が?」

「ああ。」


 悠幻の式札が、指先でかすかに震えていた。


「さっきまでのあいつなら、迷わず押し潰しに来た。だが今は違う。綾の気配が変わったことを、誰よりも早く察しているんじゃぁないか?」

「月影の本相。神獣が本来の姿を現した。それに、綾の背負っている月も変わった、ということか。」


 静が、白蛇を足元に寄せながら静かに言った。


「だから、踏み込めない…ってこと?踏み込んだ瞬間、何が返ってくるか読めないから?えーっと、あの禍海坊が、綾姉を怖がってるってこと?」


 汐音が、恐る恐る尋ねる。


「怖がっている、というより…」


 悠幻が、薄く笑った。


「測っている。どう斬ればいいか。どう沈めればいいか。その答えがまだ見えていないのさ。」


 禍海坊は、なおも動かない。だが、その沈黙は退きではなかった。獲物を見失った獣のものでもない。初めて出会う刃の届く距離を、慎重に測る武人の沈黙だった。


 綾は、蒼嶺を構えた。


「来ないなら…。」


 綾の声が、静かに落ちる。


「こちらから行く。」


 その言葉に、剛志がにやりと笑った。


「いいねえ。そうこなくちゃな。」

「綾。私が道を清める。あなたの一歩が鈍らないように。」

「潮の動きは私が止めよう。完全には無理でも、一瞬なら縛れる。」


 咲紀が月祓扇を握り直し、静が、白蛇へ視線を落とす。

 最後に、悠幻が式札を広げた。


「では、俺は目を逸らさせよう。読まれない一瞬を作る。」


 綾は、一瞬だけ仲間たちを見る。

 母の背中を追いかけていた頃の自分なら、きっとここで迷っていた。守られることを恐れ、失うことを恐れ、踏み出すことをためらっていた。けれど今は違う。守られた命で、今度は守るために立つ。


 綾は、蒼嶺の切っ先を禍海坊へ向けた。


「剛志さん。」

「おう。」

「正面を開いてください。」

「そういう分かりやすい注文、大好きだ。」


 剛志が一歩前に出た。

 神楽台が、低く鳴る。剛嶽が振り上げられ、青白い雷が槌の表面を走った。


大狼おおがみ、もう一度行くぞ、雷陣、展開!」


 轟音と共に、金剛槌が神楽台を叩く。

 青白い雷紋が海上を駆け抜け、禍海坊へ向かって一直線に伸びた。それは攻撃ではない。綾が進むための道を、海霧と黒潮の中へ無理やり焼き開くための雷。

 悠幻の式札が、その雷光に重なる。


「来い、鵺。幻灯、添えるぞ。」


 どこからともなく鵺が現れ、鵺の羽ばたきと共に式札が舞い、雷の上に幾つもの月明かりが浮かぶ。本物の綾の気配をぼかし、禍海坊の眼を一瞬だけ迷わせる。

 そして、静の白蛇が、床を滑る。


「白蛇、潮を噛んで。」


 白蛇が雷陣の外側を走り、這い寄る黒潮へ冷気を流し込む。厳島神社周辺の海が凍り始める。

 咲紀が、月祓扇を開いた。


「白鴉、祓います。綾が進む道を。」


 白炎が花弁のように散り、雷と幻と氷の間を清めていく。

 綾は、深く息を吸う。

 怖くないわけではない。

 けれど、もう立ち止まらない。

 綾と月影が、完全に同調したまま、禍海坊へ向き合う。

 禍海坊の眼が、明確に焦点を結んだ。


「そちらから来るか。」


 綾は、蒼嶺を振り上げる。


「これが、母とは違う、私の月。」


 刃が、夜を裂く。欠けた月の軌道が、禍海坊へと走る。それはまだ、決定打ではない。

 だが――初めての“攻勢”だった。

 守るだけの夜は、終わった。

 欠けた月の軌道が、夜を切り裂いて走る。禍海坊は、受け止めもしない。弾き返しもしない。ただ、少し横に体をずらし見送った。

 斬撃が見た目老体の側面を掠め、黒潮の霧が一瞬、裂ける。


「やるではないか。」


 低く、海底から響くような声。


「この月は……放置すれば、いずれ“海を縛る”。我が全霊をもって必ず沈める!」


 空気が、変わる。禍海坊の足元で、潮が逆流した。

 剛志が、即座に察する。


「さっきまでと、違うぞ!」


 咲紀の白炎が、ざわりと逆立つ。


「力の流れが一点に集まってる?!」


 禍海坊は、両腕を、ゆっくりと広げた。右腕は、かつて落とされた傷痕を残したまま。


「月の巫女。」


 禍海坊の視線が、真っ直ぐに、綾を射抜く。


「お前は、今沈めておくべきだと理解した。深い海の底に。」


 その宣言と同時に――夜空の空間が、歪んだ。空中に、黒い潮の“層”が生まれる。圧縮された深海の圧。それが、刃の形を取る。


≪滅海深圧葬≫


 斬撃と言ってもよいのか。否。深海にある超重圧が、叩きつけられる。


「なんだこれは!重力操作かよ?!」


 と剛志。神楽台の床が、悲鳴を上げる。叫ぶと同時に剛志が、前に出る。


「っ、受け…!」


 だが、その言葉は途中で切れた。雷が、斬撃に押し潰される。悠幻の幻が、一瞬で――剥がされた。

 静の氷陣も一瞬で吹き飛ぶ。

 その中心で――綾は、動かなかった。月影と斬撃を見据える。

 恐怖は、確かにある。だが、足は――止まらない。月影の影が、綾の足元で、深く、深く沈み込む。

 滅海深圧葬が、夜そのものを叩き潰すように斜め上から迫ってくる。逃げ場はない。防ぐには、重すぎる。だが、綾は、踏みとどまった。

 綾は、蒼嶺を、水平に構える。


「月影…」

 《……》


 月影に言葉はない。

 だが、次に来る“重さ”を、互いに理解していた。滅海深圧葬が、綾の正面へ――衝突する。


「厳月流奥義・影滑かげすべり。」


 音は、なかった。あるはずの衝撃も、来ない。代わりに、空間が歪む。斬撃は、止められていない。受け止めてもいない。ただ“行き先を失った”。欠けた月の弧に触れた瞬間、滅海深圧葬の圧が、一方向へと流れ始める。横でも、後ろでもない。下。神楽台にある月影の影に吸い込まれるかのように、斬撃の重さが、地へと滑り落ちる。轟音が、遅れて来た。

 剛志が、思わず叫ぶ。


「受けた!?いや、違う!」


 悠幻が、目を見開く。


「逃がした?」

「流れを、変えました。」


 綾の腕にしびれが走る。三日月は、満ちた月ほど、“受け止める力”を持たない。だからこそ――抱え込まない。


「ふぅ―――。」


 綾は、息を吐く。

 禍海坊の眼が、大きく、見開かれる。


「受け流した……だと?」


 その声に、確かな動揺があった。綾は、蒼嶺を下ろさない。月影と同調したまま、静かに、前を見る。

 限界も、近い。

 滅海深圧葬を地へ、影へと滑り落とした後、神楽台に、短い静寂が訪れた。

 綾は、大きく深く息を吸う。

 月影の気配が、これまでよりもはっきりと“内側”にある。


 《時は満ちた。お前の思い、受け入れよう。》


 月影の声が、初めて、明確な言葉として響いた。

 綾は、迷わず頷く。


「……うん。」


 蒼嶺を、ゆっくりと地に突き立てる。それは、構えではない。始動の合図だった。


「剛志さん、時間を作って。神威を…。今の月影との神威は、少し時間がかかる…。」


 その言葉に、周囲の空気が一段、引き締まる。

 剛志が、即座に前へ出た。


「どれくらいだ。」


 綾は、正直に答える。


「短くは…ない。」


 それで、十分だった。


「よし。じゃあ、前は俺が全部受ける。」

「私が外縁を張る!」

「幻、重ねる。」

「水はすべて凍らせる。」


 誰も、“本当に間に合うのか”とは聞かない。

 綾は、仲間たちを見る。


「お願い。」


 その一言に、全員が、はっきりと頷いた。


「お前は何があっても守る。」


 剛志の声が、低く響く。綾は、目を閉じる。月影の存在が、輪郭を失い、ひとつの“月”として重なっていく。

 詠唱が始まった。


「夜が名を持つ以前、天に満ち得ぬ月ありき。

 欠けてなお退かず、影を鎧とし、闇を断つ刃となりて在り。

 月は裁かず、影は赦さず。」


 声は、神楽台だけでなく、夜空へと――届いていく。


 神楽台の空気が、明確に――変質した。それを、誰よりも早く察したのは、禍海坊だった。月影と綾の共鳴が、臨界に近づいている。


(何をする気だ?神威?こやつの力はそこまでなのか?)


 これは、単なる覚醒ではない。力の上昇でも、技の発動でもない。


(神獣との“超合技”『神威』。しかも、今の神合の状態での神威は、想像を絶するものに違いない。我で耐えられるか?)


 それを悟った瞬間、禍海坊の中で、計算は無意味と化した。逃げる選択肢はない。力と力のぶつかりあいでしかない。


「そうか。」


 低く、海底を鳴らすような声。怒りも、焦りも、そこにはない。

 あるのは、即断。


「この場で、それを発動させてはならぬ。」


 禍海坊は、腕を振り上げない。咆哮もしない。代わりに、空間そのものへ、手を差し入れた。


読んでいただきまして、ありがとうございます!

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