第27話 月龍《月影》
蒼嶺が、月光を取り戻す。
欠けた月でも、雲に隠れても、月は、消えない。
「今度は、私が、守る番。あんな奴に、厳島を奪われるわけにいかない!」
神楽台に、新たな気配が立ち上る。過去は、消えない。だが、縛られもしない。
綾は、ようやく“いま”に立ち戻った。
蒼嶺を握る綾の手が、わずかに震えた。それは恐怖ではない。力が…、形を変えようとしている震えだった。
呼吸が、深くなる。逃げたい衝動も、守りたい願いも、失った記憶もすべてが、刃を握るその手に集まっていく。綾の目つきが変わる。
その瞬間、神楽台の上、月食に覆われた夜空が、わずかに、明るさを取り戻した。
雲間から、細い光が一筋、落ちてくる。
満月ほどの輝きではない。鋭さも、眩しさもない。それは、月食になって、それでも消えずに残っていたかのような、月の残光。
光は、迷うことなく、まっすぐに蒼嶺の刃に向かっていた。
「……?」
綾は息を呑む。刃が、重い。だがそれは、力が足りない感覚ではない。“在るべき重さ”が、戻ってきた感覚だった。
一方、時間が止まったかのような綾の周辺では、まるで大地震の前触れのように、亀裂が音を立てて広がり続けていた。
蒼海環護陣は、もはや“盾”ではなかった。次に叩きつけられれば、壊れる。義久の喉から、絞り出すような声が漏れる。
「……まだ、だ……!」
白鯨の咆哮が、結界の内側で反響する。だが禍海坊は、なおも腕を押し込んだ。黒淵槍の穂先から放たれる深黒の圧が、尽きるどころかさらに密度を増し、結界の芯へと食い込んでいく。
結界の破壊は、時間の問題。
その瞬間だった。砕けるはずだった結界の悲鳴が、不意に、止まる。
蒼海環護陣の亀裂の奥――綾に、蒼嶺に差し込んでいた一筋の光が、静かに膨らみ始めた。
蒼嶺の刃を通して、見えない月とやり取りしているようにも見える。
蒼白ではない。
白でもない。
淡い黄金を帯びた、影ある月の色。欠けてもなお沈まぬ月が、そこにあった。
禍海坊の動きが、ほんの一瞬、止まる。
「……?」
義久が、息を呑んだ。結界の内側、神楽台の中央で、綾が立ち上がっていた。蒼嶺を握る手は、もう、震えていない。
禍海坊の単眼が、その変化を捉えた。
「……光?月光はない。月の巫女も折れた。何が起こっておる?」
禍海坊の腕が、ぴたりと止まった。結界を押し潰そうとしていた圧が、潮が引くように、わずかに緩む。
「……ほう。」
低い声。
それは、少し驚きを含んでいた。
「満ちぬ月を……ここまで呼び寄せるか。」
禍海坊は、結界から、腕を引いた。
破壊のために振るわれていた力が、“待ち”へと切り替わる。
禍海坊が距離を取った、その刹那、まるで水面に落ちた月が、別の形を思い出すように、神楽台を包む闇が、音もなく“めくれ上がる”。綾の背後に寄り添っていた影が、ゆっくりと、持ち上がった。
蒼い闇をまとった長大な影が、月食の空を背に、天へと伸びていく。その輪郭が、これまでとは違う“重さ”を帯び始める。
「……なに?何がおこってるの?」
咲紀の声が、かすれた。白鴉の炎が、ざわりと逆立つ。
月龍の身体を覆っていた霧が、剥がれ落ちる。
それは、天女が羽衣を脱ぐかのように静かだった。
影の中から、確かな“形”が、現れる。
細長い胴。
鱗は月光を映し、闇を抱いたように蒼黒く光っている。
爪は鋭く、尾は夜の底を引きずる。
そして、額。
そこに、一本の角が、ゆっくりと現れた。
西洋の竜ではない。翼もない。
それは、日本の古き龍。
天と海を知り、影と月を渡る存在。
「月龍?」
剛志が、思わず息を呑み、剛嶽を握る手がわずかに緩み、落としそうになる。
「いや、今までの月龍と違う。格が……変わってないか、これ……。」
悠幻も圧倒されている。
静は、無言で一歩、後ずさった。氷の霊気が、自然と身を守る形を取る。
「神獣の“本相”…?」
咲紀の瞳が、震える。
「綾……これ……あなたが……?」
綾は、答えなかった。いや――答えられなかった。
月龍は、完全に姿を現し、神楽台の上空で、静かに浮遊している。その巨体が動くたび、空気が、重くなる。威圧ではない。脅しでもない。
“ここに在る”という事実が、周囲を黙らせる。月影の蒼色の瞳が、ゆっくりと開かれ、禍海坊を見据える。
その視線だけで、“力の格差”が、はっきりと示されていた。
禍海坊の単眼が、わずかに細くなる。
「……なるほど。」
低い声に、警戒が混じる。
「それが、神獣の本来の姿か。」
神楽台の中央で、綾は、驚きと共に、我に返ったように蒼嶺を構え直す。
月龍の角が、淡く光る。
欠けた月は、欠けているのではない。失われてもいない。光と影表裏一体で月なのだ。
それは、進化ではない。“本来の姿を、思い出した”だけ。
仲間たちは、ただ、息を呑んでその光景を見つめていた。
《我が名は月影。》
「月影……?」
その名を呼んだ瞬間、龍の瞳が、わずかに揺れる。いつも綾の横に寄り添っていた月龍とはかけ離れた姿。
《……久しいな、綾。20年振りか。》
《月は満ちた月だけではない。今のほうが、よほど“月らしい”。そして、我が名、月影にふさわしい。》
綾は、ぎゅっと蒼嶺を握る。夜空の雲が流れ、月食の月の輪郭が、わずかに際立つ。
《この時を待っていた。月の理を(ことわり)と、結城の血が共鳴するこの時を。》
綾の胸が、強く鳴る。月影の身体が、綾の背後へと回り込む。
《満ちた月は、いつか必ず欠ける。だが――欠けた月は、再び満ちる。月の理は、「光と影」が共にあるということ。》
月影の瞳が、まっすぐに綾を映す。
《私の力はお主と共にある。》
綾は、顔を上げた。
「……月影……私は、進んでもいいの?」
問いは、祈りではない。選択だった。月影は、ゆっくりと、その首を垂れる。
《お前が”光”として立つなら、その“影”となろう。》
欠けた月の光が、綾の足元に、静かに集まる。蒼嶺の刃に、月影の紋が、淡く刻まれた。
《行くぞ、綾。満ちぬまま――それでも照らす、月の巫女よ。》
禍海坊の気配が、明確に――警戒へと変わる。
蓮が、思わず息を呑む。
「……すげぇ。神獣って、こんな存在なのかよ。」
蒼玄斎の傍らにいた蒼蛇《蒼綯》の姿が、脳裏をよぎる。
あれも確かに神獣だった。けれど今、月龍から放たれる気配は、ただそこにいるだけで場の理を変えてしまうような重みがあった。
「……神獣が、しゃべった。」
汐音がぽろりと漏らす。そして次の瞬間、はっとしたように蓮を見る。
「ねえ、レンレン。神獣ってしゃべるの?私にも聞こえたんだけど。これ、普通?普通なの?」
「知らん。俺に聞くな。」
「え、だって要でしょ?」
「なったばっかだし、俺の神獣まだ出てきてねぇんだよ。」
蓮は苦い顔で言い返す。
「むしろ俺が聞きたい。神獣って、あんな普通に話しかけてくるもんなのか?いつも話してるのか?」
汐音は月龍を見上げ、目をまん丸にしながら、ゴクリと喉を鳴らした。
「わかんないよ。でも、普通に話しかけられたら、私、返事できる自信ないんだけど。」
「安心しろ。俺もない。」
そんな短いやり取りの間にも、綾の背に重なる月龍の気配は、さらに静かに、深く、濃くなっていく。
綾は、蒼嶺を構え直す。
決意の形だった。
「……行くわ。」
月影の影が、綾の背に重なる。
「欠けていても……月食であっても、……私は、ここに立てる。満月がすべてではない。」
蒼嶺を構えると、刃の周囲に、ぼんやりといくつかの円を描くような光が浮かび上がる。
だがそれは、完全な輪ではない。
三日月。
欠けたまま、それでも確かに“月”である形。それを見て、禍海坊の気配が、わずかに揺れた。
「……ほう。」
低い声が、海霧を震わせる。
「満ちることを捨てたか、月の巫女。母と同じ技を使えばどうなるかわかっておるのか?」
綾は、視線を逸らさない。
「違う。」
はっきりと言い切る。
「月には、さまざまな形がある。光が最も強い満月だけがすべてではなかった。満ちる必要が、なかった。今はっきりと感じられる!」
蒼嶺の刃先が、禍海坊へと向く。
その軌跡に、月光と影が同時に揺れた。
「光があり影がある。光だけがすべてじゃない。満月、三日月、上弦、下弦。新月でさえも。すべてに月の意味がある。月食においても、月はそこにある!ただ、お前を倒すには、母同じ、三日月がふさわしい!」
これは、母の月ではない。だが――母が遺した“生き方”を、確かに受け継いだ月。
それはまだ、覚醒と呼ぶには淡い。
神威と呼ぶには、未完成。
だが確かに――綾の月は、母の背を追うものではなく、自ら夜を照らすものへと変わり始めていた。
禍海坊が、初めて一歩、後退する。
「沈まぬ月ほど、目障りなものはない。」
禍海坊の言葉とは裏腹に、神楽台に新しい月の気配が満ちていく。
禍海坊は、動かなかった。ただ、神楽台の中央に立つ綾を、じっと見据えている。蒼海環護陣の向こう側。月食を背に、綾と月影が、完全に同調している。
冷静に積み上げていたはずの読みが、音もなく崩れた感覚だった。
(……違う)
禍海坊は、静かに理解する。これは、単に力が増しただけの覚醒ではない。
月龍を従えたわけでもない。
神獣の力を一方的に借りたわけでもない。
綾自身の内側で、月の意味が変わったのだ。
光を失えば沈む月ではない。影を抱いてなお、そこに在り続ける月。
禍海坊が砕こうとしたのは、月光だった。
奪えば折れると踏んだのは、綾の力だった。
だが、今そこに立っているものは違う。
月光を奪われたからこそ、影の中に残る月を見つけた巫女だった。
(……計算が、狂ったか)
禍海坊の黄金の単眼が、細くなる。
その眼差しに、初めて明確な警戒が宿った。
月と人が、同じ位置に立っている。
(……あの方は、このようなことは言っていなかった。知らなかっただけなのか、我で試すつもりなのか…。まぁ、今となっては、どちらでもよい。我は、こやつを倒すのみ。持ち帰らねばならぬものがある。)
「なるほど。」
低く、濁った声。その一言に、これまで一度も混じらなかったものが、はっきりと含まれていた。
綾の足元で、月影の影が、静かに揺れる。禍海坊は、その影から目を逸らさない。空気が、重くなる。禍海坊は、無意識のうちに、結界から半歩、距離を取っていた。
それを見て、剛志が小さく息を呑む。
「……下がった?」
悠幻が、式札を握る手を止める。
「……違う。“様子を見てる”感じだ。」
禍海坊の視線が、綾の右手、蒼嶺へと落ちる。
そこに宿る月は、満ちていない。だが――満月の時よりも力があるように感じられる。揺らがない。
「…厄介だ。」
その言葉は、初めて“感情”を伴っていた。
「満ちぬまま、されど同じ場所に在り続ける月。」
禍海坊は、低く、告げる。潮が、ざわめく。破壊ではない。圧殺でもない。“在り続けられる”ことが、禍海坊にとって、最大の脅威だった。
「月の巫女。お前は……今、我々だけではなく、この海にとって、危険だ。」
綾は、視線を逸らさない。恐怖はある。
だが、後退はない。
月影の気配が、綾の背で支えていた。
禍海坊は、理解していた。この月を、軽んじてはならないと。
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