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第26話 継がれし月

「私は、もう……あの頃のようには振るえない。」


美琴は包帯の上から右手を押さえ、静かに言った。

海坊主の来襲から、かなり時間も経っていた。綾も母の身長を超え、母の背中を追いかけ続け、鍛錬を重ねていた。


「だからこそ、綾。あなたに託すの。要となり、厳島、瀬戸内を守る。これは結城の血に連なる者が背負う宿命。あの時、私の右腕を引き換えに守り切った。私たちは戦い続ける家の者……そして、あなただからこそ、この刃は真に応えてくれる。」


綾は震える両手で太刀を受け取った。

重みは、ただの刀ではない。母の誇りと、守り抜いてきた歴史、そして未来への願いがこもっていた。


「うん、母さん……絶対に、守るから。」


美琴は穏やかな微笑みを浮かべた。


「ふふ、綾。その言葉、私も昔、祖母に言ったことがあるのよ。やっぱり、血は争えないわね。」


綾は蒼月をしっかりと握り締めた。

青白い輝きが刃を包み込み、まるで彼女の心に呼応するかのように脈動する。


「これが……私の力。」


綾は母の包帯の巻かれた手を見つめ、胸の奥が熱く締めつけられた。

あの傷は、自分を守るために刻まれたもの――その事実だけで十分だった。

言葉はなくても、母の瞳はすべてを語っている。


「強くなれ」と。

「生きろ」と。


美琴の横から、月龍が綾のもとへ移動する。


「月龍も綾を認めたようね。」


綾は震える両手で蒼月の太刀を抱きしめる。


「……厳島は私が、必ず守る。」


彼女がつぶやいた瞬間、刃は眩い青光を放ち、潮騒に混じって彼女の決意を受け止めるように月龍の咆哮が遠くまで響いた・・・。



………………………



「綾!おい、綾!しっかりしろ!結界が破られるぞ!お前は、厳島の要だろ!!!」


蓮が叫んだ。

耳を裂くような轟音も、血の匂いも、遠い記憶の中へと沈んでいく。

綾は、はっと息を吸った。


そこは――厳島。神楽台。


月食に覆われた夜空と、いまなお立ちはだかる禍海坊の影。

だが、心は――まだ、あの日に囚われたままだった。


「……母さん……。」


声が、震える。指先が冷たく、力が入らない。目の前で、蒼海環護陣が悲鳴を上げている。

結界の亀裂は増え、禍海坊の気配が、さらに濃くなる。

それでも綾は、動けなかった。


(また……何も、できない……)


視界の端で、仲間たちが戦っている。神谷兄妹の結界が亀裂に覆われ、咲紀や剛志が必死に支え、それでも状況は、確実に悪化していた。

――それなのに。


自分だけが、立ち尽くしている。


「……綾。」


低く、しかし確かな声。振り向くよりも先に、その声が胸の奥を叩いた。


「まだ……そこにいるのか。」


蓮が滄牙丸を構え、肩で息をしながらも、その瞳だけは、綾を真っ直ぐに見据えている。


「昼に汐音から刀を引き継いだ時のことを聞いた。詳しいことはわからないけど、俺はわかる気がする。」


「母さんの背中を……ずっと見てきたんだろ。」


綾の胸が、ぎゅっと締め付けられる。


「母さんを超えられない……今でも、そう思ってるのか?」


綾は、答えられない。唇が震え、視線が落ちる。蓮は一歩、踏み出した。


「俺もだ。」


短い言葉。だが、重い。


「兄貴を……守れなかった。」


滄牙丸を握る手に、力がこもる。


「でもな――あの人たちは、俺たちに“立ち止まれ”なんて言いたかったんじゃないと思う。」


月食の影の下、蓮の足元で、淡く水が揺れる。


「綾。お前の母さんは…お前に、背中を見せるために立ってたんじゃない。」


蓮は、はっきりと言った。


「いずれは前に立つために、生きろって……そう、言ってたんだろ。」


その言葉が、綾の胸の奥に、フッと静かに落ちた。

綾は、蒼嶺の切っ先を下げたまま立っていた。それでも、足が、前に出ない。胸の奥で、過去の光景が何度もよぎる。

血に濡れた母の手。それでも笑っていた横顔。

「大丈夫」と言いながら、痛みを隠していた声。

(……また、同じことを繰り返す)

そう思った瞬間、身体が、わずかに強張った。


チャキッ


蓮が滄牙丸を構えなおす音がした。金属が擦れる、乾いた音。

蓮は続ける。


「俺さ……兄貴の背中、追いかけてた頃がある。」


視線は、前を向いたまま。


「強くて、迷わなくて……あの人みたいになれたらって、思ってた。」


潮の匂いが、一瞬、強くなる。


「でも、あの人、俺に“追いつけ”なんて言わなかった。」


綾の胸が、わずかにざわめいた。


「……言ってたのは……『立て』だ。俺もその意味を考え続けている。」


その言葉が、綾の中で、静かに反響する。


<立て>


背中を見ることでも、影に隠れることでもない。

“立つ”という言葉。

綾は、ふと気づく。

母は、海坊主を倒すためだけに、あの場所に立っていたのだろうか。

違う。


(……母さんは……)


震えていた自分を、一歩後ろに押しやって、自分が前に出た。守るために。未来に託すために。

綾の指が、蒼嶺の柄を、強く握る。


(私を信じて託してくれた。私の力がどれほどのものなのかわからない。倒せるかもわからない。でも…)


胸の奥で、何かが、静かにほどけた。


「……私……。」


声が、初めて前を向く。


「母さんから引き継いだこの力、何のために引き継いだのか、母さんはどんな思いで託したのか。」


綾は、一歩踏み出す。


「……私自身が、要として立つために……皆を守るために託されたんだ。」


蒼嶺が、淡く光る。

――あなたは、生きなければならない。あなたは強い。あなたは私が託した厳島を守る巫女。世界を守る宿命を背負う者。

欠けた光でも、確かに、前を照らしている。

綾は顔を上げ、禍海坊を見る。

恐怖は、消えていない。だが――縛られてはいない。


「私、”立つ”わ。もう逃げない。」


それは決意というより、選択だった。綾は、もう誰の背中も見ていない。見るのは――自分が立つ場所その背に、月龍が、静かに重なった。


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