第25話 母の強さ
切り落とされた海坊主の右腕は、本来ならばすぐに再生するはずだった。
海水でできた巨体。潮と闇が形を取った妖ならば、失った腕など、波が寄せるように戻るはずだった。
だが――戻らない。
蒼月朧輪閃によって断たれた断面には、蒼白い月光の痕が刻まれていた。
まるで月の理そのものが、再生を封じているかのように、黒い潮がそこだけ歪み、何度も形を取り直そうとしては崩れていく。
効いている。確かに、届いている。しかし、その手応えは、安堵にはならなかった。
海坊主の黄金の単眼が、ぎょろりと動く。
美琴ではない。完全に、綾だけを映していた。
「……綾ッ!」
美琴が叫ぶより早く、海坊主の左腕が持ち上がった。
巨大な水の塊だったはずの腕が、ぐにゃりと歪む。指が消え、掌が潰れ、肘から先が黒く細く引き延ばされていく。
次の瞬間、左腕の輪郭が鋭く削ぎ落とされる。幅広の水の塊は、みるみるうちに薄く、長く、刃の形へと変わっていった。
それは刀だった。
ただし、鍛えられた鉄ではない。深海の闇を薄く研ぎ澄ませ、人を斬るためだけに形を与えたような、黒い潮の刃。
美琴の背筋に、冷たいものが走る。
(あれは、腕ではない。斬るためのもの!)
海坊主の単眼が、何かを見定めるように細くなる。
「守るものを背負う者は強い。ならば、その力の源から断つのは必然。幼き光よ、ここで沈め。」
低い声が、海面を押し沈める。綾の周囲の潮が、不意に引いた。
波も霧も、足元を撫でていた潮風さえも、まるでそこだけ世界から切り抜かれたように遠ざかる。
残されたのは、幼い綾の浅い呼吸と、迫りくる黒い刃の気配だけだった。
「……?」
綾が小さく振り返る。
だが、その時にはもう遅かった。海坊主の左腕――黒い潮刀が、ゆっくりと振り上げられていた。速くない。だからこそ、恐ろしかった。
振り下ろされるまでの一瞬一瞬が、逃げ道を奪うように重く伸びていく。
足が動かない。
声が出ない。
結界を張ろうとした指先が、胸の前で凍りついたように止まる。
視界の端で、月光が細く歪む。回廊の朱が遠ざかる。母の叫びが、ひどく遠くで響いた気がした。
(何が起こっているの?私…死ぬ?)
その理解だけが、遅れて心に落ちた。
ドンッ!!
黒い刃が、高く振りかぶられ頂点に達した時、踏み込む音が、ひとつだけ響いた。
迷いを捨てた者だけが踏み出せる、決断の一歩だった。
「震えないで、大丈夫?綾。」
美琴の声は、驚くほど穏やかだった。
振り返らない。振り向かない。ただ、娘と海坊主のあいだに、身体ごと、割り込む。
「母はね……。」
「あなたを守るために、負けるわけにはいかない。あなたには、私を超える月の加護がある。大きな禍がこの八海神が守る瀬戸内に降りかかろうとしている。今、あなたを失うわけにはいかない!」
海坊主が、低く告げた。
「《冥潮断命》」
黒い潮刀が、ゆっくりと振り下ろされる。それは空気を裂く斬撃ではなかった。刃が走るより先に、綾の身体の奥で、何か大切な線が断ち切られるような感覚があった。
肉体と魂。
生と死。
幼い綾には理解できない境目へ、冷たい刃がまっすぐ落ちてくる。
次の瞬間、蒼嶺が――眩いほどの月光を放った。美琴の足元に、淡い月輪が浮かび上がる。
砕けた回廊の上に広がるそれは、ただの光ではなかった。満ちた月の力を、刃へ、血へ、魂へと通すための輪。
美琴は、静かに息を吸った。
「月命、月龍《月影》。」
低く、祈りのような声。
その言葉に応えるように、美琴の背後で月光が揺らいだ。夜空から落ちた一筋の光が、海霧の中で形を結んでいく。
龍だった。
蒼白く、透き通るような鱗。
一角は細く、月の欠片のように淡く輝き、その長い身体は夜の海を泳ぐ光そのものだった。
幼い綾は、その姿をはっきりと見ることができなかった。
ただ、美琴の背後に、月の龍がいたことだけは覚えている。
名前までは、聞こえなかった。聞こえてはいけなかった。
美琴は、ほんのわずかに唇を動かす。
「月影、頼む、力を貸して。」
その名は、波音に紛れるほど小さかった。娘に届かぬように。まだ幼い綾が、その名を背負わなくて済むように。
月龍が、美琴の背へ寄り添う。
その蒼白い身体が光となってほどけ、蒼嶺の刀身へ、そして美琴の右腕へと溶け込んでいった。
蒼嶺が震える。
刃の中に、龍の影が走った。
次に美琴が紡いだ言葉は、技名ではなかった。誓いだった。
祈りではない。
詠唱でもない。
覚悟の宣言。
「この身、刃となり――」
美琴の右腕に、月龍の光が絡みつく。
「この魂、影となり――」
足元の月輪が回転を始める。
ゆっくりと。
だが、その回転に合わせて、周囲の海霧が裂けていく。
「娘に降る死を――ここで断つ。」
蒼嶺が、下段に構えられた。
通常の斬撃とは異なる構えだった。
受けるためではない。押し返すためでもない。綾へ落ちる死の線だけを、月の影で切り離すための構え。
美琴はさらに踏み込んだ。月輪が、回転を増し、蒼嶺が、下段から振り上げられる。
「厳月流奥義――」
刃に宿った月龍の影が、細く長く伸びる。その一閃は、黒い潮刀を斬るためのものではなかった。海坊主の腕を断つためでもない。綾に向かって落ちる“死”そのものを、月の影で断ち切る一撃。
「神威、月命影断 三ノ月!」
刃は斜め下から上へ走り、蒼白い月光が、闇を裂いた。
美琴がこの技を選んだ時、彼女はすでに覚悟していた。実は、この一太刀は、自分の身体が無事で終わらないことを。
淡く、深く、揺らぎを持った影の輪。満ちた月ではない。欠け、歪み、それでも夜を照らし続ける、不完全な月の影…三日月。
美琴の足元に、ゆっくりとその影が広がる。
それは地面に落ちた影ではなく、存在の裏側に重なった“もう一つの月”だった。彼女が踏み込んだ瞬間、世界の時間が、わずかに歪む。音が遠ざかり、潮の匂いが薄れ、残るのは心臓の鼓動だけ。
その瞬間、影の月輪が反転する。
刃文に宿る月の紋が輝き、美琴の背後に、巨大な三日月の月輪が浮かび上がる。
美琴は、その中心に立っていた。
蒼嶺の刃に沿って、月光が吸い込まれるように収束し、刀身が一層輝きを増す。
ヒュン
三日月にも似た光の斬撃が空を切った。月光が通過した瞬間、空間が裂けるとともに、冥潮断命は悲鳴を上げるように歪み、海坊主の体の中に光の断面が現れる。
「ぐっ!!」
低く悲鳴にも似た声が聞こえた。それは、最初から支払うと決めていた代価だった。
振り上げた美琴の右手から、血が滴っていた。
それでも美琴は、刃を止めなかった。
《神威・月命影断》は、“生き延びるための技”ではない。
<守り、為すために、自分が壊れる技>だからだ。
そしてその刹那――
影断の軌跡は、冥潮断命の反流をも断ち、海坊主の右腰あたりから弧を描き、左肩へと繋がる。
母の右腕と引き換えに、確かに、敵を斬っていた。
ズン――ッ!!
音が、遅れて追いつく。その瞬間、海坊主の巨体が、はっきりと揺れた。
次の瞬間…落ちた。
ドンッと低い音を立てて海に落ちた左腕が、海と一体になっていった。
黒潮と怨念が噴き出し、海が悲鳴を上げる。
「……ほう。」
海坊主の声が、初めて低く、警戒に満ちた。
だが同時に。
美琴の右腕も、肘から先が、力を失って垂れ下がる。
肘の上から、溢れるほどの血。
美琴は、それでも立っていた。
右腕を失いながら、片膝もつかず、ただ綾の前に、立ち続ける。
海坊主は、落ちた自らの腕を一瞥し、次に、血に染まる美琴を見た。
「……代償を、知った上で斬ったか。」
美琴は、かすれた声で、ただ一言。
「……それで……いい。」
海坊主は、しばらく美琴と綾を見つめ、ゆっくりと息を吐いた。
「ここまで、か。」
その声には、悔恨も、憤怒もなかった。あるのは、“共倒れを避ける判断”だけ。
右腕を失い、それでもなお綾の前に立つ巫女。
そして、その背後で震えながらも、確かに生きて立っている幼い娘。
海坊主の黄金の単眼が、二人をゆっくりと見下ろした。
「見事だ、月の巫女。」
声は低く、淡々としていた。
怒りではない。
敗北を認める声でもない。
ただ、目の前の巫女が支払った代償を、冷たく測っている声だった。
「我が腕を断ち、娘に落ちる死をも断った。その執念、その刃、その月光、たいしたものだ。」
美琴は答えない。右腕から力が抜け落ち、蒼嶺を支えにしてようやく立っている。それでも、綾の前から一歩も退こうとはしなかった。
海坊主の単眼が、わずかに細まる。
「今宵は、これまでだ。」
その言葉に、美琴の眉がわずかに動いた。
「逃げるつもりか。」
かすれた声だった。それでも、刃のような響きは失われていない。
両手と胴を分断されたはずの海坊主が、なぜか低く嗤った。
「逃げる?嗤わせる。我の目的は半分達した。これ以上は無益。」
潮が、海坊主の足元で静かに逆巻いた。荒れ狂うのではない。
まるで、深い海底へ帰るための道を開くように、黒い潮がゆっくりと渦を巻いていく。
海坊主は、ゆっくりと身を翻した。
海坊主は、一度だけ振り返る。金色の単眼が、綾を深く、深く刻みつける。
「そこの娘。いずれ、お主の絶望が舞い降りるであろう。我は舞い戻る。」
それは呪いではない。予言だった。
次の瞬間、海坊主の身体が、滝のように崩れ始める。黒潮が、影となり、影が、泡となる。
やがて、そこには――静かな夜の海だけが残った。
月は欠け、結界は軋み、すべてが元に戻ったわけではない。だが、生きている。
それだけが、この夜に許された、唯一の勝利だった。潮風が、静かに吹き抜ける。
美琴は、そこでついに力尽きるように、膝をついた。
「母さん!大丈夫?!血が…血がたくさん出てる!」
綾が震えながら、母に近づく。
「怖かったでしょう?」
いつかと同じ、優しい声。綾の視界が、涙で歪む。
「でもね…。」
美琴は、微笑んだ。
「あなたが、生きていればいい。」
「……うん……でも……母さんが、守ってくれたから。」
「さっきも言ったけど、私は月と共に立てきれていない。あなたは、私よりも光に満ちている。いずれ、あなたに蒼嶺と月龍を継承ときがくる。その時までは、私のいとおしい大事な娘よ。」
この瞬間、綾の心に刻まれた光は、決して消えなかった。
…………………………
海坊主の襲来から10年後、厳島神社の社殿の座敷に、夜遅く、潮騒が遠くから響いていた。
美琴は右手に巻かれた包帯を隠すように袖を整え、目の前の娘を静かに見つめていた。
「……綾。これを、受け取りなさい。時が来たのよ。」
差し出されたのは、蒼く鈍く光を帯びた一振りの太刀。
結城家に伝わる神器――蒼月の太刀<蒼嶺>。
綾の目が大きく揺れる。
「母さん……でも、それは……」
美琴は笑みを浮かべた。
だが、その笑みの奥に隠された疲労と痛みを、綾は気づかずにはいられなかった。




